青氷の祠-14

回想【2】

「今日からこの子は、あんたの弟よ」
 アパートに暮らしはじめて四ヵ月目の秋、ここ一ヵ月帰ってこなかった蛍華さんは、店で買ってきたようにひとりの子供を連れて帰ってきた。
 僕は三十分前に部屋に帰ってきたばかりだった。最近、僕は蛍華さんの旦那のひとりに念願の自転車を買ってもらい、ぐんと行動範囲を広げていた。今日も光樹を荷台に乗せ、あらゆる自動販売機の小銭口にゴキブリの死骸を仕込んできた。帰り道に引っかかって悲鳴をあげるごつそうな男を偶然見かけ、床で軆を折ってその思い出し笑いをしていた。
 そこに唐突に帰宅して、唐突にそう言った蛍華さんは、背中から子供をさしだした。
 真っ先に目についたのは、艶やかな黒髪だった。ついで伏せがちのまぶたに守られた、黒く大きな瞳が目に入る。すべるように睫毛は長く、唇は瑞々しい真紅だった。肌は透き通るというよりなめらかに白く、でも、頬には青黒い痣がある。黒いトレーナーに青いハーフパンツを着て、ほどよく華奢だった。
 歳は僕と変わらないと思う。ぜんぜん知らない顔で、僕は当惑を怪訝に隠して蛍華さんに目をあげた。
「誰だよ」
「あんたの弟よ」
 蛍華さんは赤いコートを脱ぎ、甘ったるい香水を舞い上げた。
「いつ作って、いつ生んだんだよ」
「あんたがクローゼットに引きこもってたあいだよ」
 蛍華さんは真っ赤な唇で皮肉に哄笑し、僕は切り返しを捻り出せずに歯噛みした。本当だろうか。僕はその少年をもう一度よく見た。
 僕が受け継ぐような蛍華さんの面影は見つからない。色素の薄い髪も、目尻の切れこんだ目も、肌の白さだって種類が違う。
 僕の視線をどう感じているのか、彼は無表情をはりつけている。
「入って。こいつのことは気にしなきゃいいわ」
 蛍華さんはほっそりした手で彼を室内に招き、驚いたことにベッドに座らせた。僕だと、シーツに触れただけで革のベルトでぶつのに。「そいつ、いくつだよ」と焦りに似た自尊心で割りこむと、蛍華さんは僕を鼻で嗤う。
「あんたのひとつ下よ」
 ひとつ下。子供は一年ぐらい母親の腹にいると、いつか蛍華さんの恋人に聞いた。末期のアルコール中毒の男で、彼は愚痴る相手が僕だとも分かっていなかった。『一年住んだあの腹が悪かったから、今の俺がある』と彼はぼやいていた。
 そこはそれとして、ひとつ下なら僕の弟である可能性はある。
「名前は」
珠生たまき
「……ふん。よっぽど玉に精子が溜まった男が種なんだね」
 こんな台詞は僕の自前でなく、蛍華さんやモーテルで盗み聞きした女の罵倒が参考になっている。自分でしゃべって動かないと生きていけない環境で、僕が言語を習得するのは早かった。七歳だったが、一般より遥かに語彙が発達している。特に汚い言葉遣いは興味もあって下品を極め、けれど、蛍華さんを唸らせる毒を吐けたことはない。
「生んでたんなら、どこに置いてたんだよ」
「あんたには関係ないでしょ。あたしとこの子の問題に割りこまないで」
「男に捨てられすぎたんで、ガキに走るんだ? そんなちっちゃいので満足できんの?」
 引き攣った笑い声をあげる僕を、蛍華さんはアイラインで強調した眼でえぐった。ついで大股に歩み寄ってきて、僕の頬に振り上げた反動の猛烈な平手を食らわす。
「今度捨てられたとか言ったら、承知しないよっ」
「そうやって、ほんとのこと見ないからだよ。だからうんざりされて、捨てられるんだ」
 蛍華さんの平手はなおも僕の頬で破裂し、耳を引っ張ると顔面を壁にたたきつけた。
「何か問題起きれば、あんたをたたきだすからねっ。あたしはあんたにいつまでもでかい顔させとく気はないんだよっ」
「こっちだって、あんたにでかい顔されてる気はないね」
 耳の軟骨をつぶされ、鼻柱を折られたように感じながらも僕は吐き捨てる。
「こんなとこ、たたきだされてちょうどいいよ」
 蛍華さんは僕に取り合わず、怯えて肩を狭くする珠生のかたわらに行った。栗色の髪を肩に流して身をかがめ、珠生を抱いてあやす。黒髪にさしこまれるその指先には、僕には絶対向けられない愛情があった。
 蛍華さんにそんな手つきができること、それを受けているのがにわかに現れた見知らぬ子供だということに、僕は混乱した。まばたきが狼狽に乱れ、つかめない霧が胸に垂れこめる。やがて、珠生も蛍華さんにもたれかかり、安らいだように睫毛を伏せた。
 蛍華さんは僕相手にはしない、どちらかといえば、男相手にするような微笑をこぼした。
「君のことはあたしが守るわ。あのガキからだってね。ここにいていいのよ」
 僕はすりむいた額にひりつきを覚えつつ、本気で理解を取り残された。状況がつかめなかった。
 何だ。どういうことだ。僕に兄弟がいるなんて、酔いつぶれたときにも蛍華さんは言ったことはない。何なのだろう。本当にあいつは僕の兄弟なのか。そもそも蛍華さんは、僕だけでも荷物だと騒いでいるくせに、本気でそいつを引き取る気なのか──
 先に言ってしまえば、珠生は僕が家出するまで部屋にいた。蛍華さんは僕を最後まで疎んでいたように、珠生を最後まで愛していた。珠生は現在、この街を蒸発しているが、誰よりそれを嘆いたのは蛍華さんだと思う。珠生の失踪は僕が家出したあとで、家出のあとに蛍華さんに会っていない僕は、それを見たわけではないけれど。何となく、言い切れる。僕の家出には、蛍華さんは衝撃も心配もなかったのと同じように。
 蛍華さんは、一貫して僕を忌み嫌っていた。恋人や旦那には、僕をかわいがる人もいた。そういう人は、僕にお小遣いをくれたり、服やおもちゃを買ってくれたりする。無論嫌悪してくる男もいて、そんな奴は蛍華さんぐらい嫌いだったが、かわいがってくれる人は僕は素直に好きだった。
 蛍華さんは、部屋ではクズでも店では上玉で、金持ちの客が多かった。ただでやる恋人にはチンピラもいるけれど、客や旦那には権力者がいた。そのひとりが豹さんだったわけで、豹さんは僕をかわいがる旦那だった。自転車を買ってくれたり、粗末な服ばかりなので服を買ってくれたり、光樹と一緒にお小遣いをくれたり──蛍華さんの旦那の中で、最も金も権力もあったのではないかと思う。
 僕はいまだに、豹さんの素性はよく知らない。はっきり分かっているのは、現在四十一歳なのと、昔は外の人間であったこと、この街の中枢である夢銀むげん地区に日常的に出入りしていることだ。
 この街において、豹さんの権力は絶大だった。僕は秘かに、この天鈴町を取りしきる組織の一員なのではと見ている。この街ははたから見ると無法地帯のようだが、実際には逆で、組織の厳しいお膝元にある。従っておけばいい法律はない代わりに、ひどく感覚的な自覚が必要で、分外は死刑に値する。
 この街に二十年近く暮らす僕も、その組織のことはぜんぜん分からない。だが、もし豹さんが一員だとしたら、表に出るので幹部ではなくも、かなり高い地位にいるのではと推察される。
 豹さんは、蛍華さんはいないと分かりきった深夜に部屋を訪ね、僕を食事に連れていってくれたりもした。蛍華さんは珠生のことは部屋に放置せず、店に連れていって女主人に預けている。その日も僕は部屋にひとりきりで、光樹のとこ行こうかな、と床に燻っていた。やってきた豹さんは僕を抱き上げて黒い車に乗せると、ガラス張りが綺麗なビル最上階のレストランに連れていき、好きなものをおごってくれた。
 窓の向こうには、散らかった宝石のようなネオンの街が見下ろせる。聴こえるのはクラシックで、ふかふかの絨毯にゆとりを持ってテーブルが整列していた。僕は身なりを整えられ、豹さんもスーツで、周りの人も正装をしている。それでも不思議と厳めしさはなく、空気はくつろいでいた。白いテーブルクロスに並んだ料理は、ろくなものを食べない僕には色も量も鮮やかに映った。
 香ばしい柔らかなチキンを食べ、正面の豹さんに目を移した。豹さんは精悍な印象の人だった。上品でもなく、むさくるしくもなく、瞳や顎骨が冷静に鋭い。軆つきは肩幅も広くてがっちりとし、筋肉も引き締まってたくましい。
 力も強そうだが、僕は豹さんが蛍華さんを殴るのは見たことがなかった。僕の視線に、「何だ?」とこぼした微笑は、印象に似合わず優しい。
 当時の僕は、前述した豹さんの素姓など、深く考えていなかった。ただ、この人はすごくえらいと直観していた。僕は日々、珠生に猜疑心を募らせていた。突如出現し、蛍華さんの愛を独占し、僕のことは見ないふりをして──大きなグラスを小さな両手で持ち上げ、甘酸っぱいオレンジジュースを飲むと、「あのね」と珠生のことを調べてほしい旨を伝えてみた。

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