青氷の祠-15

回想【3】

 承諾して調べるまでもなく、豹さんは珠生の出生を知り尽くしていた。まず豹さんは、珠生が僕の兄弟であることは否定した。珠生は、生まれは外であるらしい。父親は分からず、母親は珠生を抱えこんだ重荷に頭がおかしくなった。母親は保身を取って珠生を捨て、施設に入りかけた珠生はこの街の親戚に引き取られた。この街に住む人間が、真っ当に子供を育てられるわけがない。僕は出逢った日の珠生の青痣を思い出した。珠生を引き取った男が蛍華さんの恋人で、男は蛍華さんに珠生を押しつけて逃げた。そうして蛍華さんは、珠生を自分の部屋に持ってきた。
 フォークとナイフで切り分けたチキンをかじり、僕は背中より広い背凭れにもたれた。子供の頭には余る事情かもしれないが、すれた僕は、あらかた理解できた。
 何だか、蛍華さんは珠生を打ちのめしてもよさそうなのに、なぜかかわいがっている。蛍華さんが慈愛の人間でなく、気に入らないものは破壊するのは僕は身を持って知っている。なぜそんな経緯でまわってきた子供を、気に入ってかわいがるのか。
 筋が通らないけど、それは真実を認めたくなかっただけかもしれない。
「蛍華さんは僕が嫌いなんだ」
 もぐもぐとしていたチキンとライスを胃に飲みこむと、僕はなかばあきらめて豹さんに言った。
「僕を苦しくさせるのが好きなんだ。珠生をかわいがるのも、それのせいだと思う」
 ぶあついステーキを切り分ける豹さんは、手を休めて僕を見つめた。豹さんの僕に向ける目には、揺るぎなく深いものがこもっている。蛍華さんにもベッドでそんな目をするのかな、と思うと余計に蛍華さんが憎くなった。
「珠生をかわいがって、僕を仲間外れにしてるんだ。珠生が好きだって見せて、僕のことは何とも想ってないのを教えたいんだよ。僕をイジメるのに使えるんで、蛍華さんは珠生が好きなんだ。ほんとに、好きだと思う。自分と一緒になって僕をたたく恋人みたいに」
 豹さんの瞳には何かがこもっていても、悪感情ではないこと以外、それが何かは読ませない。自分の言葉を反芻し、蛍華さんとの正確な関係を示唆してしまったかと不安になり、僕は蛍華さんが「叔母」である嘘をつけたした。
「蛍華さんが僕を嫌なのは、好きでもない姉に預かったのだからだよね。珠生は一応、好きな人の子供だし。それで蛍華さんは珠生で僕をバカにするんだ。お前なんか早く母親のとこに帰れって」
 豹さんは鉄板で湯気と音を立てるステーキのひと切れを口に運んだ。僕のチキンより匂いが深く、おいしそうだ。豹さんは口の中のものをよく噛んで飲みこむと、「つらいか」と僕に目を戻した。
「蛍華に嫌われるのは」
「……別に。ムカつくけど。わざわざ嫌ってくるなら、ほっとかれたほうがいい」
「珠生はいないほうがいいか」
「………、よく分かんない。話さないし。好きではない」
「もう少し大人になれば、お前はひとり立ちできるだろう。助けが欲しければ俺に言え。できる限りしてやる」
 豹さんは僕を静かに見つめると、白いワインに口をつけた。アルコールの匂いなんて、どれも一風くせがあっても、そのワインはしなやかにうねる腰のように優美だ。それに較べると、蛍華さんのワインの香りは、まるで安っぽく揺すぶる腰に上げる嬌声だ。僕はチキンを切り分けながら、豹さんの言葉をいつか必ず役立つ約束として、心に刻んだ。
 僕と珠生の関係は、半年間くらい隔てられていた。遠くて相手を窺えず、互いに好感がないことしか分からなかった。豹さんはいそがしいし、結局、本来用があるのは蛍華さんなので、僕の味方は光樹だけだった。珠生を見かけた光樹は、「悪魔みたい」とつぶやいて自転車の荷台にまたがった。
「あくま」
「いい意味でね。って言ったら悪いか。悪魔みたいに綺麗」
 春の夜風が髪をなびかす。僕は盗品をためこむつもりのリュックをかごに入れると、サドルにまたがった。「行くよ」と確認して、光樹がうなずくと、ペダルを踏みこんで万引き旅行に出発した。
 確かに、珠生の美しさは見れば見るほど深まる妖しさに潤っていた。光をすべらす漆黒の髪、しっとりと清らかな肌、豊潤な瞳を縁どる長い睫毛。いちごを思わせるあの口にしゃぶってもらいたい男は大勢いるだろう。
 豹さんもああ言っていたし、僕は将来自分が男娼になるのは分かっていた。珠生もそうなるかは分からなかった。蛍華さんの陰で口をつぐんでばかりで、淫売にしては消極的だ。だが、男娼以外に珠生にめぼしい自活の道はない。
 背中にいる幼なじみにも似たことが言えた。僕は僕にはっきり淫売の匂いを嗅ぎ取っている。光樹はそれが希薄だった。まったくないわけではなくも、いろんな男に愛される匂いが薄い。
 光樹は男娼にならないのだろうか。ならなくてどうするのだろう。訊いてみたくとも、明日のことなんて言うだけバカげたこの街で、未来の話なんて気軽に切り出せなかった。
 蛍華さんは、珠生を罵りも殴りもしなかった。まさしく母親だった。おっとり見つめる瞳や髪を梳く指先には、演技の溝もなく真の愛が宿っている。珠生も蛍華さんに寄り添っている。従順にうなずき、ひかえめに甘えている。蛍華さんと珠生は、僕と蛍華さんでは絶対に成立しなかった、穏やかな家族の絆を結んでいた。
 店でもかわいがられているのだろう。僕も蛍華さんの店には行ったことがある。思いのほか、みんな受け入れて、おいしい料理を振る舞ってくれた。だが、蛍華さんについてごまかしてばかりのそこは嫌いで、めったに行かない。いつしか周りは、珠生も蛍華さんの家族だと認知していった。珠生は僕のように歓迎されているはずだ。周囲の気遣いに恵まれ、珠生は次第に、無口に閉ざした心をほどいていった。
 珠生の存在で、蛍華さんの僕への態度は暴力に徹底された。引っぱたく用がなければ、話しかけも近づきも見もしない。どうせなら暴力もやめればいいのに、それだけはしつこく続けた。男が来たら僕はバスルームにやられ、珠生は綺麗に掃除された奥にしまわれた。
 珠生への態度と比較し、僕の中で蛍華さんへの憎悪はますます重くなった。僕が黴菌でもあるかのように、珠生の脇を通っただけで近づきすぎだとぶたれる。僕が部屋を出たのは十一の夏だが、その頃には蛍華さんの無関心と憎悪は頂点に達し、異常味を帯びていた。
 確信があった。蛍華さんは、僕への嫌がらせとして珠生を引き取ったのだ。僕を傷つけるために、珠生を愛しているのだ。とにかく僕を打ちのめすのが愉しくてしょうがなくて、あの人はそのためにはどんな手段も厭わないのだ。
 疑問が痛切にさしせまり、傷みきった軆を闇に放って、思うときもある。本当は僕が他人の子供で、珠生があの女の息子なのではないか。生まれたときの記憶なんてない。あの女は本当に姉に赤ん坊を託され、クローゼットに捨てたのかもしれない。あの女と姉が似ているのはありえるし、だとしたら、僕のあの女の面影も親子の証明にはならない。珠生の容姿も、父親の遺伝が濃いだけだったら?
 しかし、豹さんの情報が間違っているなんてありえないし、しょせん、匂いや肌で蛍華さんがかあさんなのは分かった。けれど、床にこうして仰向けになり、肺から抜いた酸素を空中に放していると、空っぽになった胸に痣や傷口が透き通り、息ができなくなった。
 珠生は僕に近づかなかった。それはいけすかない僕にどうしたらいいのか分からない、とまどいに起因するかわいげのあるものだった。猜疑に駆られると、蛍華さんに買収されてるんじゃないか、などと思っても、邪推なのは自覚できた。
 周囲に心を開いて根強くなってくると、珠生は自然と感情の操作も覚えていった。そして僕が八歳になった初夏、ついに彼は僕に硬いさなぎを脱ぎ、毒々しいまでに鮮烈な羽を伸ばしはじめた。
 夕暮れ時、蛍華さんは身仕度を終えて、珠生を連れて出かけようとしていた。僕は昨日蛍華さんにやつあたりで半殺しにされ、床にゴミみたいにくたばっていた。
 蛍華さんがハイヒールを履く音がする。怨みがましく一瞥すると、珠生の大きな黒い瞳が僕を見つめていた。同情など浮かべようものなら唾を吐いてやると思ったが、違った。マニキュアを施した蛍華さんの手を握る珠生は、僕の腐った瞳と出逢うと、ゆっくり目を細め、口角を頬に切れこませて嗤ったのだ。
 僕は肢体の腐敗もぬぐって珠生を凝視した。憫笑や嘲笑が染みこむ、侮蔑が深くねりこまれた嗤笑だった。尊大で、不気味で、ぞっとしそうに美しい。珠生はそんな高貴な冷笑で、僕を見つめ返した。見つめあいはしなかった。あくまで彼は僕を見くだし、目は合わせなかった。
「行きましょう」と蛍華さんに手を引かれ、珠生はそちらを向く。明かりは無人にするように当たり前に消され、茫然とする僕は、現れた闇と部屋に置き去りにされた。
 前触れなく表出した珠生の一面に、動揺を催していた。意味が分からず、胸いっぱいにざわざわと蛆がたかる。
 何だろう。どういうことだ。珠生が僕に何かをよこしたのは初めてだった。感情も表情も、目をくれてきたのすら初めてだ。それがいきなり、あんな性悪な物笑い──
 混乱はやがて黒くなり、不安定を残しつつも不快に培養された。僕は珠生に、唾棄を受け取りかねる好感があったわけでもない。望むところの敵意が、手向かう不愉快を樹立させ、迷いかけた僕の足元も建てなおした。
 それでもなぜか、いらだちじみた焦りが神経を顫動させていた。雑音が耳に取りついたように、あの笑みが気になる。先手を打たれたせいだろうか。あるいは、その後に始まったどんどん惑っていく悪夢を、すでに予感していたのだろうか。

【第十六章へ】

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