ただ想う人
いつも通りにぎやかな〈neve〉で、僕は客との約束までの時間をつぶしていた。
毎月常備されるいくつかの雑誌の最新号が本棚に入荷され、僕のいるテーブルでは芸能雑誌が広げられている。僕を抜いた三人の男娼は、破るように自分の見たい紙面をめくり、芸能人にどうこう文句をつけていた。
「うおっ、このドラマ桃瀬ちゃん出てんの。観なきゃ」
男役も売り物にする男娼が新ドラマのページを開いて言い、「ああいう天然ボケって疲れそうじゃない?」と黒髪が綺麗な男娼が首をかたむける。
「いいじゃん。ふかふかで」
「ふかふか。桃瀬りなこって、松原恵那と仲いいんだよね」
「あ、松原恵那は嫌い」
「僕は山口木聖がやだな。仲悪いんでしょ、松原恵那と。けど、また映画で共演するんだよ」
「知ってる」とちっちゃくても小麦色の肌が健康的な男娼が、メロンソーダにつけていた口を話す。
「AQUARIUMの万琴が、ゲイの役やるんだよねー。観たーい」
「あれって、監督が天海智生でしょ。帰国したのかな」
そういうことに疎い僕は、どこで口を挟めばいいのか、結局アイスティーで喉を冷やしている。
「こっちに何か書いてるかも。ほら、AQUARIUM特集」
「んー、あ、撮影入ったって」
「ベッドシーンだって。すげえ。男同士だよな」
「相手誰ー?」
「橘木湊でしょ。女ったらしの俳優」
「R指定にならないかな。そしたら僕、観れないかも。AQUARIUMかっこいいよねー。四人の中でどれが好き?」
「俺はホモじゃないよ」
「ストレートには訊いてないんだよ」
「僕はヒロが好き。守ってくれそうだし」
言うまでもないが、男娼にはゲイもいる。ストレートだが、なじみすぎて男も対象になるのもいる。あくまで男は仕事に過ぎないのもいる。言い合う男役と小麦色を離れ、「水鳥はこういうのに興味なしだね」と僕に笑んだこの彼は、二番目に当たるのだろうか。
黒髪を潤すさっぱりとした見目の彼は、マカといって、今年十七歳だ。彼は幼いとき、子供を貸し出す店に売り飛ばされ、大人たちの餌食となっていた。現在はその店には縛られていない。店を逃げ出したのではなく、大人になりかけて追い出されたのでもなく、弓弦が仕事で経営者の不正を暴き、その店が破綻したのだ。
悪夢とも知らずに悪夢ばかり見てきたマカは、受け身でいるほかにどうしたらいいのか分からず、自由の身になっても男娼でいることを選んだ。そこで、弓弦がその身を引き取り、せめて心に優しい客を考慮して流している。
そんなわけで、マカの弓弦への忠誠心は半端ではないものがあった。
「僕、テレビとか観ないしね」
紅茶のストローに口をつけると、「観そうにない」とマカはうなずく。
「部屋にテレビもないし」
「そうなの」
「そうなの。マカは」
「あるよ。ひと通り観とくと、お客さんと話合ったりする」
「ふうん」
「水鳥はそういうのに頼らないの」
「僕はだいたい相手のこと読んで、それを話題にする」
マカは起伏が少ない瞳を僕に向け、「すごいな」と濃い香りのコーヒーカップを両手に包む。
「僕なんて、相手に好きにさせるしかできなくて」
「それはそれでマカの持ち味でしょ。弓弦だって理解してんじゃん」
「うん」とマカはコーヒーをすすり、「弓弦に恋人できたの知ってる?」と上目をする。
「知ってる」
「見たことある?」
「ううん。でも、男なんでしょ」
「そうなの」
「本人が言ってた」
「……そっか。すごい人なんだろうな。弓弦を振り向かせるなんて」
マカは弓弦に片想いをしている。一度寝たことはあるらしい。たらしの弓弦は一度でマカに飽きても、マカは今でも弓弦を想っている。深い仲になるのは遮断しても、弓弦は仕事ではマカに心をはらっていて、罪作りだよなあ、というのは僕の悪しざまではないだろう。
「嫉妬、ある?」
「……あんまり。自分でも意外。卑下のおかげだね。弓弦が僕なんか見るわけないって」
「ほかに、いい男探したら」
「そう思って作れるならよくても」
マカは苦笑いして、僕は残り少ない紅茶を飲みほした。外では夜がネオンに目覚め、店内にかかる時計を振り返ると十九時だった。僕は十九時半に客とモーテルで約束をしている。
同席の三人に挨拶をすると、カウンターにグラスを持っていってその場で頼さんに勘定をした。〈neve〉を出ると、よし、と表情を引き締め、騒がしくなっていく人混みを歩き出す。
今日の客は、みんななじみで気が楽だった。僕は仕事であることも忘れて、うっとりと太い腕に抱かれる。僕はこういう男たちがとても好きだ。彼らのためにこの仕事をやっているのだと思う。抱きしめ、口づけを交わし、性器をしゃぶらせて体内に分け入る。彼らはそんな当たり前の情交にも飢えていて、切実な欲望で僕をたっぷり愛する。僕も喜んで彼を愛し、奥深くまで受け入れる。
ここんとこ変な客が当たってたしな、と今も口づけを交わしながら、服を脱がされている。細身で二十台後半の彼は、僕に出逢うまで、お気に入りを持たずにふらふらしていた。僕にひと目惚れして、つきあいは三年になる。
彼はいつも僕の若い肉体を見つめ、これがいつかは失われるのを嘆く。僕が年寄りになることがつらいというより、年寄りになれば僕が愛を売らなくなるのがつらいようだ。僕は引退すれば裏方にまわると思うが、買ってくれるというなら売ってもかまわない。そのときまで彼が僕についていたら、そのへんを相談してもいいと思っていた。
室内は明るく、粗末な部屋でもないので聞こえるのはお互いの息遣いだけだ。合わせた瞳に糸を引きながら唇をちぎり、僕も彼のシャツを脱がせて胸に頬を寄せる。彼は僕の肩を抱きしめ、腰をそっとすくいあげると白いシーツに寝かせた。
気弱な瞳が、僕の瞳にそそがれる。その湿り気を受けて僕が微笑むと、彼は優しい手つきで僕の額と頬を撫で、唇を唇で愛撫した。彼の愛撫はいつも躊躇いがちで、くすぐったいときもある。彼は顎や喉元にも唇を這わせ、僕の肌を味わった。
身じろぐと香水がこぼれ、彼は匂いの元を探りあてるように鼻の頭を僕のうなじにもぐらせる。密着した肌と肌が汗ばむ中、僕は柔らかな口づけに吐息で応えた。
骨張った背中に腕をまわし、僕は彼の背景を思う。僕の客としてなじんできた頃、彼は僕に二度と恋愛をしたくないと語った。僕も彼に傷口のような恋愛への拒絶感は感じていた。ゲイであることは拒否していなくても、恋愛は拒んでいる。彼は自分が僕に夢中になれるのは、僕がストレートだからだと言った。僕が自分に応えないと分かっている、だから依存できる、と。
「僕は高校生の頃、クラスメイトを好きになった。男子校で、思い切って告白したら応えてもらえた。それまでゲイなんてやばいと思ってたぶん、拍子抜けだったよ。恋愛には不自由するってあきらめてたぶん、彼といられるのは嬉しかった。でも、卒業したら連絡が途絶えて、会いにいったら女の恋人がいた。彼はストレートなのに、男子校で感覚がぶれてたんで、遊びで僕に応えたんだ。それから、恋愛はしないって決めた。バカにされるぐらいなら、誰も好きにならないほうがいい」
絨毯に放るジーンズの脚を見つめ、「ゲイと恋愛したらいいのに」と僕は彼の肩に頭に乗せた。彼は小さくかぶりを振り、「怖いんだ」と僕の髪を指に絡める。
「僕は自分が変態みたいに感じる。男同士なんて、遊び止まりのはずなのに、僕はそれに本気だ。ほかのゲイも信じられない。みんなほんとは男を好きになるのは遊びで、本気ではないんじゃないかって。思いこんでるだけで、いつ正気が目覚めて寝返るかって」
「ストレートかゲイかっていうのは、正気の基準じゃないと思うな」
「……うん。でも、僕はそう認識しちゃったよ。恋愛はしないんだ。僕が好きなのは水鳥だよ。水鳥で恋愛したい気持ちも吐き出せてる。男娼じゃなくなっても、僕は水鳥が好きだよ」
彼を上目に見つめ、僕も好き、とこの状況では言えない代わりに、その胸にしがみついた。彼も僕を抱きしめた。言わなかったけど、僕も彼が好きだと思った。こういう客は、どんなものより僕に男娼としての誇りをくれる。
そんな回想をしていると、彼は僕の軆を味わい終えていた。ジーンズを脱がされるとき、僕はさりげなく手にコンドームを移した。彼に抱きついて崩れるように股間に顔をうずめると、性器を口に含んでコンドームをかぶせる。その上で体内に導き、僕と彼は律動で熱を共有した。彼が達すると、僕は達さずに精力を温存し、肌を離して息切れや搏動をシーツに沈んでなだめる。シャワーのあとに代金とチップをもらうと、弓弦抜きの次回の約束を取り決め、僕たちはモーテルの正面玄関で別れた。
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