弓弦と来夢
貧乏で僕を一時間しか買えなかった客と別れると、二十時過ぎに〈neve〉に戻った。
徐々に日が短くなり、二十時には街は覚醒して色鮮やかなネオンが灯っている。日中の残暑と人いきれに空気は生温くとも、夜風はそっと頬をすべった。シャワーを浴びる時間もなく、僕は香水と汗を綯い混ぜにしている。騒がしい人混みをそれて路地に入ると、僕は〈neve〉の自動ドアを抜けた。
早い時間のせいか、肌をなだめる店内には売れっこの親しい男娼も残っていた。「水鳥にいさん、遅刻ー」とひとりが言い、「もう、ひとり客取ってきたの」と僕はできた輪は避けてカウンターに行く。
そこには弓弦と来夢がいて、頼さんと雑談をしていた。気後れしそうになったものの、どうせ手近に空席もないし、弓弦の左隣のスツールに腰かける。
「紅茶いいですか」
そう注文すると、「あいよ」と頼さんはふたりとの会話を中座して奥に行った。弓弦は気にするように左肩を引き、僕はざっくりした格好のふたりに横目をする。
「のんびりしてんだね」
「俺」
「ふたりとも」
「お前は二十一時に予約入ってんだよな」
弓弦は来夢を向き、来夢はうなずいてポッキーをつまんだ。
このふたりは、個人的に親友だと聞いたことがある。
来夢は弓弦と同い年で、弓弦に劣らない上質な容姿の持ち主だ。くせ毛の髪や透明感のある肌が中性的で、しかし所作や性格は荒削りに男らしい。男娼の彼は、弓弦同様かなりこの街に溶けこんでいるが、僕には外の臭いを感じさせた。
「俺はこのあと、すぐに行かないと」
「えらくなったね」
「おかげさまで」
「恋人くんとはどう」
「えっ。あ、まあ。続いてるよ」
「来夢はその恋人見たことある?」
「うん。おとなしい子だよ」
「え、やり手なんじゃないの」
ホットコーヒーをすする弓弦は眉を寄せ、「誰がそんなの言ったんだよ」と口をはさむ。
「別に誰も。お前を落としたなら」
「落とすとか落とさないとか、そんなんじゃなかったよ。自然と」
「ふうん。その恋人、嫌がらせとかされてない?」
「……何で」
「弓弦に恋人ができて傷ついてる人、いっぱいいるよ」
弓弦は来夢と顔を合わせる。「そいつらはそいつらだろ」と弓弦は突っ張り、「期待させたんじゃなきゃね」と僕はあてこする。
「まあいいや。近頃、豹さんに会った?」
「今週会ったよ。水鳥のこと訊かれた」
「何て」
「元気そうか、とか」
「何て答えたの」
「最後に会ったの先月なんでって。あ、娘のことは言った」
「豹さんの前で、毬音のこと口にしないほうがいいよ」
「……うん。どっか険悪な顔された」
僕は咲って、咲いながら、今も許してないんだな、とテーブルで指をもつれさせる。そこで頼さんが紅茶のグラスを持ってきて、「どうも」と受け取った。
「何の話だったか」と頼さんはカウンター内の椅子に腰かけ、「アミのことです」と弓弦はカップを置く。どう聞いても女の名前で、僕はストローの包装を破きながらそちらを見る。
「どうしたらいいですかね」
「お前がどうかするしかないだろ。女は執念深いぞ」
「俺に文句言えばいいじゃないですか。何であいつに言うんだろ」
「弓弦に言ったって、あの子にはしょうがないんじゃない」
来夢は含み笑ってホットティーを飲み、弓弦は仏頂面になる。僕は頼さんと顔を合わせた。
「弓弦に食い下がる女が、こいつの恋人に嫌がらせしてるらしいんだな」
弓弦の端正な横顔を見て、何気ない自分の質問が的中していたのを知る。
「嫌がらせって」
「しつこく嫌味を言うとか」
「ふん。そんな女、ぶん殴って黙らせればいいじゃん」
弓弦と来夢はこちらを見た。「何だよ」と睨み返すと、「そういう解決は」と弓弦はコーヒーをスプーンでかきまぜる。
「女にはそれしか効かないんだよ。タチの悪い女には」
「そりゃ、お前の個人的な女の話だろ」
眼鏡の奥であきれ顔をする頼さんに、「女なんかみんな一緒ですよ」と僕は紅茶にストローを差す。
「狡賢くて口達者で。女の舌ってのは、まわるか舐めるかですからね。だから殴る」
「俺も、それを否定できる女性経験があるわけじゃないが。ま、弓弦、なるべく参考にはするな」
「……ですね」
弓弦はポッキーをかじり、僕はふとセピア色の記憶をよぎらせる。
女にとって、僕のような男は好ましくないのだろうか。分からない。それはたぶん、ときおり蛍華さんが拳で男の愛を感じていたからだ。被虐症でなく、光樹が母親の暴力を受け入れていた感じだ。
しかし、いずれにしろ僕の暴力はその類いではない。憎悪の暴力で、蛍華さんが打ちのめされるのも僕は見た。そういうとき、蛍華さんが泣きながら胸に抱くのは、僕でなく珠生だった──。
「頼さん」
「ん」
「頼さんって、この街に来て何年ぐらいなんですか」
「二十年ぐらいだな」
「そうなんですか」と弓弦は頼さんに顔を上げ、「今のお前ぐらいのときに流れてきたんだ」と頼さんは肩をすくめる。
「それが」
「じゃあ、希水知ってますよね」
「マレミ」
「陽桜の希水。ほら、五年前に人気絶頂の最中、男と駈け落ちした男娼いたじゃないですか。憶えてません?」
頼さんは伊達眼鏡越しに僕を見た。僕が怯まずに見つめ返すと、「そりゃあ」と頼さんは細目になってがっちりとした肩を揉む。
「当時、この街に暮らしてりゃ、大半が知ってるだろう」
「あいつ、帰ってきたんですよ」
「は?」
「帰ってきたんです。こないだそこで逢っちゃいました」
「マジで」
「マジです。自分でも冗談だったらなあと思います」
「うわさは聞かないな」
「ほんとに数日前に帰ってきたみたいです」
「ほう」と頼さんは興味深そうに椅子に体重をおろし、弓弦と来夢は目を交わす。
「俺、彼の話は聞いたことあっても、実物は見たことないんだよな」
「そうなんですか」
「客になれるのも稀だったんだろ」
「みたいですね。外からも客が押し寄せて」
「詳しいな」
「知り合いなんですよ」
「そうなのか」
「僕、あいつと兄弟なんです」
頼さんは、何かふくんでいたら噴き出していそうな顔になった。その反応で、こちらに移って以来、珠生のことなんて口にしたくなくて、彼とつながりがあるのを誰にも話していなかったのに気づく。でも、頼さんは豹さんから知っているかと思った。
「知りませんでした?」
「知らん。揶揄ってんじゃないだろうな」
「ないです。血はつながってないですよ。育ての親が同じで、そういうことになってるんです」
「そうなのか」
「豹さんも、僕とあいつが一緒に育ったのは肯定しますよ。光樹も知ってます」
頼さんはこまねいて息を吹き、「お前は玉手箱だな」と顔つきを渋くする。
「やっとお前に関して驚く事実がなくなってきたと思ったら。いつ何が出てくるか知れん」
「はは。顔見知りなのは意外でもないんじゃないですか。僕も昔はあっちにいたんですし」
「そうか。そうだったな、豹の下で」
「希水と店は違いましたよ。あいつは豹さんじゃなくて、自分を育てた娼婦の系列の店でした」
水滴の浮かんできたグラスを引き寄せ、澄んだ味を舌に乗せる。僕と頼さんの会話に、弓弦と来夢はきょとんとしていた。「弓弦たちは、彼のこと知らないか」と頼さんがその表情を拾う。
「んー、まあ。みたいですね」
「五年前だよな。おまえらが十二のときか」
「あ、まだ、……外にいましたね」
弓弦は僕を気にして声を低め、僕は彼をちらりとしてかすかに鼻で嗤う。
「駆け落ち、をしたんですか」
「俺はさらわれたって聞いたぞ」
「豹さんは僕に駈け落ちって教えましたよ。希水も男とは切れたって言ってましたし。で、帰ってきたと」
「彼ってゲイだったのか」
「さあ。そのへんは謎です」
「駈け落ちなんかして、ごたごたなかったんですか」
「そのへんは俺は知らん。水鳥に訊け」
「僕もよく知らないですよ。──駈け落ちが起きた直後に知ったんじゃないんだよね。その頃、僕って切れてて、豹さんに保護されて知ったんだ。騒動の半年後ぐらいだね。あの希水を失うなんて、店にはつぶれるより損失だったと思うよ。どんな手を使ってでも捜しただろうね、それでも捕まらなかった」
自分が属さなかった頃の街の大きな事件に、弓弦と来夢は複雑そうにする。「あのことはけっこう臆測飛びかっておもしろがられたよなあ」と頼さんは腕を組み、「ですね」と僕も頬杖をつく。
「でもあいつ、客の前ではかわいらしくても、性格はめちゃくちゃ悪かったんですよね。僕なんか、さんざんコケにされました」
僕はふうっと息をつくと、「あー、やだなあ」と天井を仰いでしまう。
「僕、あいつ嫌いなんですよ。今頃、元のとこに顔出してんのかな。歓迎されてるんだろうなあ」
「そうか?」
「そうですよ」
「五年だろ。そんなにこの街は生易しくないんじゃないか」
「蛍華さんがいますし。あ、蛍華さんって僕たち育てた人です。高級娼婦。あいつはかわいがられてたからなあ」
ぶつぶつする僕に、頼さんと弓弦と来夢は顔を合わせる。
その後、弓弦は仕事を思い出して席を立った。頼さんは弓弦の代金はその場で受け取っても、客に連れていかれる男娼の会計には立ち上がる。
来夢と残された僕は、何となく弓弦がいた席に移った。椅子に弓弦の体温が残っていて、変な感じだ。グラスも引き寄せるとひと口飲んで、「来夢と弓弦って親友なんだよね」と訊いてみる。
「え、知らなかった?」
「聞いたことはあった」
「わりと有名じゃない?」
「あんたたちに否定的じゃない人間にはね」
「………、水鳥が俺に嫌がらせをしたのは、俺が素人だからかと思ってた」
来夢の繊細な顔を見つめた。彼が男娼になったのは三年ほど前だ。僕は弓弦の傘下に移っていて、彼に頼まれて来夢に入れこみをした。僕ひとりが入れこんだわけでもなかったので、彼に技術のすべては公開しなかった。そして、嫌がらせも人並みにやっておいた。
「単なる洗礼だよ」
「……ほんとに?」
「みんなにもされたでしょ」
「まあ、うん」
「個人的な嫌悪を感じるほどひどかった?」
「地味なほうだった。いつのまにかポケットにゴキブリがいたこともある」
「幼稚だね。僕が子供の頃やった悪戯だ」
来夢は僕を見て、「もし俺が街で生まれてたら、そんなに嫌がらなかったのか」と訊いてくる。来夢の瞳も大きいけれど、珠生とは違って愛らしい感だ。
「もしこの街で育ってたら、そういう感覚じゃなかったろうしね」
「感覚」
「僕はお前たちの感覚が嫌いなんだよ。この街の天国みたいに見てさ。ここって地獄だと思うな」
「外が天国」
「外は異世界。僕だってこの街にしかいられないよ」
「外に較べたら、ここはずっと調和があるんだ。精神的にな」
それは光樹も言っていた。とはいえ光樹も、外よりこの街がマシだという言い方をしていた。ここが極上の場所だとは言わない。
「外とは較べものにならない分裂もあるよ」
「……まあな。そうだよな、子供なんかが紛れこんだらきついとこだよな。俺たちはこの街に都合のいい歳になって入ってきた。調子いいよな」
それでも、僕は弓弦よりは来夢を受け入れていると思う。豹さんのことが差し引かれるせいでなく、来夢はこの街でむごい経験をした。彼はこの街が必ずしも天国ではないとは分かっているのだ。
「来夢も僕のことはっきり知らないでしょ」
「ん、まあ」
「あの小娘が僕の娘だったとかさ」
「あー、うん。親戚の子かと思ってた」
「来夢の娘も、あれぐらいなってるはずだったんだよね」
来夢は僕を見、僕は無神経に肩をすくめた。珠生の駈け落ちにはおよばずとも、父親に娘を殺された彼の事件は、この街の住人を振り返らせた。来夢は事件後、半年以上もすがたを見せなかったものの、不意に現れて男娼稼業を再開した。
「それって悪意?」
「日常会話だよ」
「俺はまだ、あのことを日常にはできないよ」
「娘に会いたい?」
「……すごい質問だな」
「来夢は娘を愛してたんだよね」
「愛してる、だよ。水鳥は?」
「愛の結晶ではないな。僕はあいつの母親とさっき言った通りだし」
「……タチ悪くて殴る」
「うん」
「水鳥が暴力って想像つかないな」
「僕も僕なりにごちゃごちゃあったんだよ。先制攻撃しないと怖いんだ」
来夢はカップを取り、紅茶を小さくすすった。僕は紅茶をストローでかきまぜ、氷の涼しい音に耳を休める。
男娼たちは買われていき、店内は落ち着きつつあった。時刻は二十時半をまわり、僕も来夢とおなじく二十一時に約束がある。
「来夢、二十一時に約束あんでしょ」
「ここでな」
「僕はモーテルで約束してるんで。行かなきゃ」
「………、あのさ」
「ん」
「子供の目はできるだけ覗いて、咲いかけてやっといたほうがいいよ」
「……え」
「その子が肉体を持って、触れられる状態にあるっていうのは、存在してそばにいるっていうのは、すごく貴重なことなんだ」
来夢を見つめ、「そういう感覚が嫌い」と僕は言った。来夢は下を向いて咲い、「俺はそう思う」とカウンターに向き直る。僕は戻ってきた頼さんに紅茶代を渡すと、時間を気にしながら、高まっていく夜の色彩と喧騒を縫っていった。
存在しているのは貴重なこと。愛してればね、と思う。僕は毬音を愛していない。生まれてこないほうがよかった。殺したいほど憎くはない。しかし、いないほうが便利だった。
それでも、彼女の瞳を覗いて咲いかけてやるのは、僕の義務であり、責任なのだろう。夏乃の中に出すくせに避妊をしなかったのは僕だ。あいつを作ったのが僕なのは変えられない。
僕には親の才能がないのだ。その上、作りたくて作ったわけでもないのが、責任や義務を疎ませる。僕はこれからも毬音を愛せないだろうし、おもしろくもないのに笑顔など向けられない。
愛すべきなのは分かっている。でも、できない。したくないわけではなくも、できない。来夢の神聖な愛には、僕は引き攣った笑い声をあげるか、唾を吐く。そういうふうに育った。本人の眼前で毒づいた通り、僕は毬音が死んだって何も哀しまない。
やな親だよな、と思う。だけど毬音も、僕が死んだって泣かないに決まっている。腫れあがって見えやしない目さえ、毬音は僕に覗かせない。その溝を言い訳にして、僕はやっぱり毬音に残酷でいつづけるのだと思う。
【第二十五章へ】
