青氷の祠-25

コインランドリー

 光樹が僕に会いにきたのは、九月に入って一週間が過ぎた月曜日だった。
 太陽がぎらつく蒸した昼下がりで、どこかで生き残りの蝉が独唱している。
 コインランドリーに洗濯物を放りこみ、ヒマな時間を買い物にあてようとしていた。衣類にふくらんだトートバッグをかかえ、冷蔵庫に何を補充しようか悩む。所帯染みてるな、と自己嫌悪になっていると、「碧織」とあの通る声がして足を止めた。
 顔を上げると、茶色と白の切りかえTシャツに黒いパンツを合わせた光樹がいた。自転車に乗って、左右にアパートが並ぶ通りをタイヤですべってくる。髪やピアスも相変わらずで、けれど、アクセサリーはなかった。
 ブレーキのきしる音は少なく、僕の隣に停まった光樹はにっとする。僕は咲い返し、「今日は自転車なんだ」とトートバッグを抱え直す。
「うん。誰も送ってくれなかったんで」
 光樹はかごにリュックが入ったメタルブラックの自転車を降り、ハンドルを握って倒れるのを防ぐ。ちなみに光樹は、子供の頃に僕の自転車を借りたりして、きちんと自転車で均衡を取れる。
「碧織の部屋に行こうとしてたんだ。この時間ならいるかなって」
「そうなんだ。うん、仕事はまだだよ」
「よかった。それ、洗濯物」
 光樹はトートバッグを覗き、「うん」と僕もTシャツが覗くそれを見下ろす。
「これコインランドリーにやってるあいだに、買い物に行こうかなと」
「碧織でもそういうことやるんだね」
「やらなきゃ生活できないよ」
「はは。じゃあ、つきあっていい? 荷物持つのも手伝うし。あ、そしたらこいつ邪魔だな。どうしよ」
 光樹は陽射しを白くすべらせる自転車を動かし、「僕んちの前に置いてたら」と僕は向こうに覗ける三階建てのアパートを振り返る。
「ここ夕町でしょ」
「うん」
「盗まれるよ」
「かもね」
「困ります」
「こんな昼間じゃ、コソ泥も手足動かないでしょ」
「そうかなあ」
「何時間も置いとくわけじゃないし。堂々と置いとけば、盗みの醍醐味もないよ」
 光樹は豊かな瞳を胡乱そうにさせても、どのみち僕の部屋に上がるあいだは自転車を放置する。彼は僕の暮らすアパートの前に自転車を置き、こもった空気の道を僕と歩きはじめた。
「碧織、今日休みってわけじゃないよね」
 茶色のリュックを肩にかける光樹は、左手首の腕時計を見る。
「うん。十八時半にひとりめ」
「早いね」
「日が短くなってきたしね。暗ければ何時でもいいんだよ」
「今、十五時過ぎだよ。時間、平気?」
「ごはんは食べたし、十八時前に部屋を出れば」
「じゃあ、僕どうしよ。洗濯物取ったら帰ろうか」
「部屋寄ってかないの」
「寄っていいの」
「寄ってよ。毬音も光樹なら喜ぶし」
「じゃあ、出勤のときに別れようか。僕も二十時にはバイトあるんで」
 僕は幼なじみの光樹やヴォーカリストの光樹しか知らなくて、働く光樹はピンと来ない。働くということ自体、僕には遠い。男娼は喜んで飛びついたことなので、仕事という感覚が希薄だ。
「碧織は好きなことを仕事にできてるんだよね」
 そのへんを言うと、こめかみの汗をはらう光樹はそう咲った。
「そうかなあ」
「売春、好きでしょ」
「売春っつうか、たくさんの男にかわいがられるのは好き。僕、その反面の陰の努力とかしてないよ。楽しいばっか」
「そう?」
「嫌な客はいてもね。好きな客と接するときが僕の中では勝ってる」
「強いね」と光樹は微笑み、「ずぶといんだよ」と僕は本音と謙遜を半々にして言う。
「僕は碧織はすごいなと思うよ。売春って仕事で、そういうふうに胸を張れるのは希少だよ。好きなことを仕事って、クリエイターとかスポーツ選手でしょ。そういう仕事でも、夢がかなった光の楽しさより、夢をかなえた影の責任が重い。碧織は売春で光を満喫できてる」
「まともな仕事じゃないんで、プレッシャーがないんじゃない?」
「そうかな」と光樹は首をかたむけ、橙色の毛先の色を陽射しに溶かす。
「プライド保つのが、堅気よりむずかしいよ。僕なんかプライド軟弱なんで、音楽を仕事にする勇気もないんだ。音楽でこれだよ。やっぱ僕は、売春なんて気高いことはできなかっただろうなって思う」
「気高いかな」
「穢れてくだけなら簡単だけどね。ほんとの売春は、客ごとにまっさらに戻んなきゃいけない。でも経験はリセットしちゃいけない。その才能がなきゃ、二流止まりなんじゃない」
 僕は男娼の自分を気高いとは思わなくても、みじめだとも思わない。みじめな売春も知っている。自分のはそれとは違う、と思う。ある種の人間には、淫売なんてどれも泥水稼業なのだろうが。
「僕も音楽は好きなんだ。好きなんだけど、仕事っていう周りも関わってくる中に放って、変わらずに楽しんでるかは分からない。碧織は楽しんでる。売春をプロにする才能があるんだ。いいなあって思うよ」
「光樹は、音楽を仕事にしてみたいの」
「できる強さがあるなら目指してるよ。周りが何と言おうと、音楽を自分をセラピーとしてつらぬけるならね。きっとできない。壊されて失くすぐらいなら、守っておいたほうがいい。弱いんだ」
 正面の十字路を眺めやり、僕にとっても売春はセラピーだなと思う。誰にも愛されなかったのを、もしくは愛されないという認識を、男たちの愛撫でなぐさめている。
 しかし若い肉体を利用したことだし、療法というより、気休めだろうか。僕は寂しくて男たちに抱かれているわけではない。だが男たちに愛をさばくことを、心に作用はさせている。
 僕はたくさんの人間と愛を共有するのが楽しいのだ。
「ねえ光樹」
 虫や植物に食われる木造住宅街も、昼日中にどろどろに眠っていて静かだ。音を立てれば騒音となって、何が来るか分からない。僕は声を低めにして呼びかけ、「ん」という光樹も足音をひそめている。
「珠生って憶えてる?」
 光樹は刹那表情を止め、驚きが滲んだ瞳で僕を見た。僕は無表情を意識して見返す。たっぷり数秒のあと、「そりゃあ」と光樹は息を吐いて、ゾンビがまばらにうろつく通りに向き直る。
「あの悪魔くんでしょ」
「……うん」
「どうしたの。碧織から珠生の名前聞くなんて数年ぶり」
「僕、珠生に逢ったんだ」
「えっ」
 光樹は凪ぎかけた瞳を再度開いて僕に向ける。僕はトートバッグを抱きしめ、ゴミに汚れたアスファルトを進むスニーカーに睫毛をさげる。
「逢った、って」
「先週ね」
「ほんとに」
「うん。偶然」
「ほんとに珠生?」
「見ため変わってなかったし。僕のこと本名でも呼んだ」
 僕は本名をかたくなには隠してはいないが、流通させているのは源氏名だ。僕を普段から本名で呼ぶのは、光樹とか豹さんとか、ごく私的な人たちだ。
「逢った、って言っても、碧織がこの街出るわけないよね」
「うん。陽桜でね。帰ってきたって」
「帰ってきた」
「男とは、切れたって」
 光樹は珠生と再会したときの僕のように、まばたきの落ちた瞳を持てあます。
 右手にコインランドリーが見えてきて、僕たちは黙ってそこに入った。無人で、自動販売機の機械音が不機嫌に流れている。光樹は設置されたベンチに腰かけ、予期しなかった動揺をどうにか手懐けていた。僕は洗濯物を投げこんだ洗濯機のスイッチを入れ、その足で光樹とコインランドリーを出た。

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