子を愛すること
トートバッグを肩に引っかけた僕と、陽射しに目を細めた光樹は同時に息をつき、顔を合わせて笑ってしまう。
「びっくりしちゃって」
「言わないほうがよかった?」
「ううん」
「光樹しか分かってくれる人いなくてさ。みんな珠生のことは知ってても、遠いアイドルみたいにしか思ってない。珠生が帰ってきたって言っても、ゴシップにしか感じられないんだよね。光樹は違うでしょ」
「まあね。でも、僕は珠生が帰ってきて困ることはないな。碧織は違うよね」
「うん」
「変わってなかった?」
僕は肩のトートバッグをおろし、あの穏やかだった珠生を想った。売春はプライドが必要な仕事。確かに珠生はプライドが高く、絶品の男娼だった。そして、あの日触れた限りでは、珠生には淫売的な挑発が丸められていた。
「変わってたよ」
「ほんと」
「見ためは納得できるよ。性格が、何か、落ち着いてた」
「高飛車じゃなかったの」
「うん。あの日はね。ほんとにそうなったのかは分かんないよ。心の中ではバカにしてたのかも」
光樹は僕の頑固な猜疑に少し睫毛をさげて咲い、「珠生が消えたのって何年前かな」とにぶい風にくすんだ橙色を揺らす。
「五年前だよ。僕が切れてたとき」
「もうそんなになるんだ。そうだよね、珠生が消えたのって僕がバンド始めた頃でもあるし」
「うん」
「バンド始めて、時間経つの早いもんな。珠生なんて忘れちゃってた。碧織の顔見ても思い出さなくなってた」
「僕も、忘れてはなくても、だいぶあいつへの感情に血が通わなくなってた。それがいきなり」
光樹は僕に、陽射しに細めるような直視がつらい目をした。
光樹は、誰より僕の珠生への憎悪を知っている。光樹が僕に学校を嘆いたように、あの頃、僕も光樹に珠生を罵った。光樹は僕の誹謗を皮相はしなかった。僕の心が珠生の侮辱に傷んでいるのを理解し、どんな汚い言葉もたしなめずに言わせてくれた。
光樹は僕のために自分まで珠生を憎むことはしなくても、僕の憎悪は認め、ここまで僕に気力を浪費させる珠生に複雑な想いは持っていた。
「逢った瞬間、どうだった?」
「心臓引っくりかえったよ。明け方だったんで、眠たくて幻覚見てんのかとも思ったし。信じられなくて、茶店で話もしてさ。話しながら胡散臭かった。こいつ本物の珠生だろうなとか。感触変わってるんで余計にね」
「そんなに変わってたんだ」
「あの笑いも眼つきもしなかった。ひかえめなぐらいなんだ。疲れてる感じだった」
「男の人とは別れたんだね」
「って言ってた。別れてふらふらして、ここしか思いつかなくて帰ってきたって」
僕たちは十字路を横切る。いつのまにか蝉の声はなくなっていても、地上を焼く熱気の匂いはする。
「光樹は珠生、嫌いではなかったよね」
「まあね。碧織が珠生を嫌うのは分かってたよ」
「うん」
「僕だって、自分がそんなふうにされたら憎んでたろうし。珠生、碧織にはひどかったもん」
トートバッグの持ち手を握り、瞳を遠くする。安っぽいアパートに混じり、商店がちらほらしてくる。
「じゃ、珠生は今もここにいるの」
「蛍華さんとこに行ってると思う」
「またここに住むのかな」
「その気みたい。やだな。帰ってこなくてよかったのに」
「みんな歓迎してるかな」
「してんじゃない? 男娼もやれそうだったし。また客を寝盗られて言われるのかな。『お前なんか、一流に出会えるまでのつなぎだ』って」
光樹は哀しそうに僕を見つめた。僕は光樹を見返し、力なく微笑む。
「ごめん」
「ううん。怖いんだね」
「……うん」
「変わってはいるんでしょ」
「分かんないよ。ここでの感覚思い出せば、戻るかも」
「碧織は一流だと思うよ。お世辞じゃない。碧織は男娼としてほんとに強い。珠生に何言われても、口つぐむ必要はないよ」
僕は光樹に笑みを浮かべ、光樹も僕の笑みに豊かな瞳をやわらげた。
光樹は僕の味方でいてくれる。その事実は、あの頃よりずっと分かっている。豹さんの想いも、この白鳥に宿っている。珠生のように無数に愛されることはできなくても、僕には深く想ってくれる人がいる。それを忘れなければ、僕はあの悪魔と相対しても、昔ほど不利ではないのかもしれない。
スーパーに到着すると、ジーンズのポケットにねじこんできた金と冷蔵庫の中身を考え、必要なものをかごに入れていった。音楽のために切りつめがちの光樹にしたら、ぽんぽん選んでいるように見えるらしい。
僕は金を見て家賃を振りこんでいないのを思い出し、それが夏乃のぶんが欠けているせいなのも思い出す。僕は購入したものをビニールぶくろに詰めつつ、夏乃との別居も検討しつつあるのを光樹に話した。
「やっと?」と光樹はふくろをひとつ預かってくれて、「やっとです」と僕もふくろを持つ。そして僕と光樹は、並んでスーパーをあとにした。
空気は依然ふやけていても、陽射しは緩んできている。商店街なので、人通りもそう虚ろではなかった。僕は毬音の光樹のような親がいいという発言を語り、「自分の子供だったらかわいがれるか分かんないよ」と光樹は曖昧に咲う。
「そう?」
「うん。自分の子供をまっすぐに愛してあげるのは、むずかしい」
うなずきつつ、「普通は自分の子供こそ無条件に愛せるっていうよね」と牛乳パックが重たいふくろを持ち直す。
「精神が健康で、ひとりぼっちじゃなきゃね。碧織みたいな環境だったら、僕はたぶん子供を愛せてない」
「僕みたいな」
「相手の女はほとんどいなくて、ひとりでその子の未来を担うわけでしょ。まともに取り合うだけ疲れそうで、こんなもん死んだっていいやとかなるよ」
「光樹でも」
「僕は弱いし。自分の子供にそうなりたくないとは思うんで、僕が子供を作るとしたら、きちんと愛しあえた女とだね。彼女を支えにして、子供を支える」
僕は夏乃とまともではないので、毬音をうまく愛せないのだろうか。違和感がある気がしても、そういうところもあるかもしれない。
「自分の子供には責任がいるんだよね。相当の愛がなきゃ重いよ。僕は虐待とか理解できる。自分の精神が安定してなきゃ、子供への愛なんて逃げ出したくなって当然だよ」
「陽香さんも、今にも逃げ出しそうだったもんね」
「うん。でも、かあさんは僕を捨てなかった。殴ったけど、それはどうやって僕を受け止めようかっていう葛藤だった。見捨てたんで何したっていいやって、そんなんではなかった」
「蛍華さんは僕を捨ててたよ。で、珠生を拾った」
卑屈にならないように言ったけど、「うん」と光樹は瞳を傷める。
「それは、きついよね。選別してる。碧織にも珠生にも、未来はあったのに」
「簡単だよ。蛍華さんは僕を精神安定以前で殴ってたんだ。ただ嫌いだって。それで、好きになれた珠生は大切にできた」
「蛍華さんに愛されたかった?」
「別に。あんな女の愛情なんか、がつがつ求めたくなかった。珠生がひけらかしたのはムカつくけど」
「あれは悪趣味な嫌がらせだったね」
「あの頃はつらかったかな。光樹も遠くて、豹さんのことも分かんなくて。味方がなくて、敵ばっかりだった。楽しいのは、蛍華さんの恋人に抱かれることだけ」
光樹は荷物の重みに肩を下げ、「心配だな」とつぶやく。「心配?」と僕がきょとんとすると、「碧織がね」と光樹はお節介は承知した瞳で咲う。
「珠生がいると、碧織って元気なくなるし」
「………、大丈夫だよ。珠生に蛍華さんがいるみたいに、僕にも光樹がいる。でしょ」
「……うん」
「僕自身、あいつにコケにされたくないって、プライドあるしね。あの頃の復讐なんてバカなことはしなくても、今はやられっぱなしにはならないって、それは思う。大丈夫だよ」
「そう」と光樹の深い瞳は微笑み、僕も微笑んだ。
本音では、蛍華さんと再会して充電した珠生に勝てるか自信はなかった。僕が成長したということは、珠生も成長したということなのだ。
だが、僕はあの屈辱でずいぶん伸びた。あの頃みたいに、珠生の下敷きにはなりたくない。それは鮮明に思う。
十字路で光樹に腕時計を覗いてもらうと、時刻は十六時過ぎだった。かたむいた陽にアスファルトに影が伸びはじめている。大気のほてりが風の流れを帯びて、ときおり食事の匂いがした。
自分のことのみ愚痴っているのに気づき、僕は光樹の近況を訊く。このあいだのライヴで知り合った女の子と、一度寝たらしい。「つきあうかは分かんなくても」と口ごもった光樹の吐息に、起床しはじめた周辺の物音が重なる。「光樹なら、いつかいい子できるよ」と僕が言うと、「うん」と光樹は口元を綻ばせた。やがて僕の暮らすアパートが現れ、メタルブラックの自転車があるのにほっとしつつ、僕と光樹は脇道に入った。
【第二十七章へ】
