青氷の祠-30

映りはじめる彼

 淫売、〈neve〉、毬音、暴力──そんな僕の日常のそこかしこに、珠生のすがたがちらつくようになった。夏乃より多いのはともかく、光樹より多いのは不快だ。
 言葉は交わさなくても、すれちがったり見かけたりする。僕が彼を無視することはあれ、珠生が僕を無視することはなかった。
 彼は、元の居場所に行くのは躊躇っているらしい。珠生は売り物になるし、愛されているひいきもあるので、すがたを見せれば男娼として丸めこまれる可能性はある。ほかの店に声をかけられるのもありうる。しかし、珠生に男娼に復帰する気がなさそうなのは僕も感じた。
 彼は外面的には申し分なくも、内面的に男娼としての色気や挑発はすっかりくたびれさせている。蛍華さんに会えばいくらか充電されるだろうに──開き直った嫌味をこめて僕はそう思う。
 しかし、元の場所に帰っていないとなれば、彼はどこに暮らしているのだろう。路地裏暮らしをしたら強姦されるだけなので、モーテル暮らしをしているのか。早くも自分で部屋を借りたのか。金はどうしたのか、と思っても、彼は法外な料金で客を取るのに事足りる。旦那を見つけてもいい。そうこうしているうちに男娼に戻るのでは、とも僕は危懼している。
 だとしたら、危険が迫るのは僕だ。僕は、当面信用が置けないながら、なじみに取りたいと思っている客を引き留められるよう、仕事に身を入れた。
 珠生の人の男の寝盗り方といったら、蛍華さんぐらい鮮やかだ。僕は珠生に打ち勝つ魅力を自分に探しまくるが、見つからなくてあきらめるしかなくなる。あんなみじめさを再び体験するのは嫌だった。
 僕は気に入った客の僕への執着をしっかりさせ、目移りしないように首ったけまで蠱惑した。
 それでも、珠生に男娼に戻る気配はない。なったとしても、狡賢く人の客を寝盗りそうなふうもない。
 男との恋愛がそうとう悪影響をもたらしたのか、珠生は疲れていた。ときどきの笑みや揶揄は、空元気のようだ。以前が以前だっただけに、僕は同情するより気味が悪かった。いつどんな方向に爆発するかと怖くもある。
 珠生は穏やかで、必要以上に人を魅惑も刺激もしなかった。歳をとって角が取れたみたいに、一線をわきまえてこちらの心をそっとしている。
 男とのごたごただけだったのかな、と別れた珠生の後ろすがたを振り返って思う。あいつはどうも、不幸に何かをもがれてああなったらしい。しかし、僕には珠生が男とのいざこざだけでああなるとは思えない。暴力を振るわれようが、玩具に貶められようが、それだけであの珠生が光のトゲを失うとは思えないのだ。
 何やってたんだろうな、とポケットに指を引っかけて歩き出す。まあ別にいいか、とも正直思うけれど。
 夏乃はずっと帰ってきていない。快適なことだ。その快適に免じて、先週のうちに家賃を全額はらってやった。
 このまま夏乃が帰ってこなければ、引っ越しの手間も省けるというものだ。やっぱ僕はあいつを愛してないな、とひとりうなずき、朝陽を横目に夕食の食器を洗っている。
 考えてみれば、僕はひと月も女とやっていない。仕事が仕事なので、手淫などして精力を徒費するヒマはないし、仕事での射精はあくまで仕事で興奮はない。それでも僕は、女とやりたいと本能が盛ってくるのを感じない。
 ホモになっちまったんじゃないだろうな、と自分でもふと思っても、僕が男と恋愛をするのはやはり何か焦点がずれている。しょせん僕が本当に求めるものは、膣に男根をぶちこんで引っかきまわすことなのだろう。
 食器を片づけるとふとんを敷き、煙草を吸って、その匂いに豹さんを思い出した。僕が心から寝たいと思ったことがあるのは、豹さんだけだ。やはり僕はゲイなのか。分からない。豹さんはストレートだと思う。蛍華さんを抱いていたという簡単な理由でなく、何となく、そうなのだ。
 崇高に聞こえてしまいそうだけど、僕と豹さんは性別を超越しているのだと思う。僕も豹さんもストレートなのだが、相手だけはちょっと深めに受け入れられるというか──珠生の目には、それがホモっぽく見えたのだろう。
 背中に光を当てて目を細めていると、毬音がバスルームから出てきた。痣がようやく引いた彼女は、僕似の目尻が切れこんだ目をぱっちりできるようになっていた。乾かした髪をふたつに縛り、夏用の薄手のパジャマを着ている。
 彼女はぼんやりする僕に目を留め、何も言わずに自分のふとんを敷いた。ふとんの皺を伸ばし、ぽん、と仕上げにまくらを乗せると、かけぶとんの上に座ってこちらを仰ぐ。
「寝ないの」
「寝るよ」
「エアコン消す?」
「うん」
 毬音はリモコンを取り、空調の除湿を消した。時刻は七時前で、外は静かだった。鏡台は依然として破壊されている。僕は灰皿に煙草をつぶすと、毬音と顔を合わせた。
「夏乃、ずっと帰ってきてないな」
「うん」
「どう?」
「いいんじゃない。パパは?」
「僕も悪くない」
「このまま帰ってこないといいね」
「うん」
 毬音の潤いのある焦げ茶の髪に触れた。「ずっと女とやってないや」とつぶやくと、毬音は僕を見つめる。
「お前、ここで僕が服脱げって言ったら脱ぐ?」
「ママに言ってろよ」
「帰ってこなかったら」
「未都さんとかいるじゃん」
 僕は笑って手を引き、「僕はロリコンじゃないんで大丈夫だよ」とふとんに仰向けになった。
「強姦するときぐらいしか、ガキなんか相手にしない」
「強姦は子供にもするの」
「お前、強姦って知ってんのかよ」
「たたきながらあれをするんでしょ」
「……ま、似たようなもんかな。強姦するときの頭には、見境ないだろうしね」
「パパは怒ったら、たたくばっかりでしょ」
「まあね。たぶん」
「たぶん」と毬音は不気味そうに僕を見て、ふとんにもぐりこんだ。僕はからからと笑って、燻らす煙草の匂いを嗅ぐ。
「パパにされるのは嫌」と毬音はこちらに背を向けるまま言う。「僕もお前にするのは嫌」と朝陽の映る天井を向くまま返す。
 僕と毬音と一度空で視線を重ねると、ひとまずほっとして、眠りにつくことにした。

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