青氷の祠-35

血か、水か

 二十八日の日曜日に、ひと月ぶりの彩雪におもむいた。季節が秋に生まれ変わろうとしているのか、昨日降った雨に道路は濡れている。普段は乗らない自転車で転んでも何なので、今日は徒歩で行くことにした。
 今日も彩雪のイルミネーションは元気にけばけばしい。週末で騒がしさもひとしおで、思わずまばたきをしてしまいそうな人たちが自由を満喫していた。静かな自然を好む人には、ここは地獄だろう。でも、原始時代のような秩序はある。野蛮なんだね、とけして罵るでなく思う。
 彩雪の人間が、風流好みの陽桜をきどっていると取るのもうなずけなくはない。でも陽桜も優雅ばっかじゃないよ、と陽桜で切れたことのある僕は思った。
 今日のライヴも観客は満入りで、あますところなく熱気が立ちのぼっていた。両腕を掲げたり唱和をしたり、僕ははずれて隅っこにいないと頭がくらくらする。壁に背中を預けて歓声を遊離し、紺色の光に陰る光樹をじっと見守った。
 歌いはじめて光樹が変わったとは思わなくても、やはりステージの彼は知悉した幼なじみとは何か違う。マイクスタンドを荒っぽく揺らす光樹に、男っぽいんだよな、と僕は思う。光樹は本質的にはおっとりと楽しい。なので、つい男らしさが蓄積され、だが音楽で本能を解き放てる。
 蓄積が心身に悪いのは僕も知っている。あんな部分が光樹にあるとは、という新鮮な驚きは、人が僕の暴力を想像できないというのに近いのだろう。清婉だろうと粗暴だろうと僕は僕だと思っているので、幼なじみの光樹とヴォーカリストの光樹がかけはなれていても、僕は受け入れられる。
 光樹は最後に、“平衡感覚”という曲を歌った。これは恋愛の歌に聞き取れるが、実は光樹が陽香さんにあてた歌で、僕は息を硬くして心臓を守る。
 そうしないと、何かが喉に刺さるのだ。歌詞がぎくりとしそうに的確で、自分でもつかめなかった奥底をすくわれる。痛い詩を通し、自分と光樹の魂の種類が同じなのを知る。
 息切れが混じってよけい傷んだ声で、麻酔をかけるように光樹の詩は僕の胸を穿ち、真っ白に凄涼な静謐でしばし動けなくさせる。

  手のひらをすりぬけそうなしっぽ
  僕にとってあなたはそんな感じ
  あなたが弱いのは知ってるけど
  僕だって弱いんだ
  たたかないで
  抱きしめてくれたら
  僕は救われて咲えるんだけど

  平衡感覚が狂いそう
  ぐらぐらして
  分かってるはずなのに分からなくなる
  崩れてへたりこみたくない
  しっかりさせて
  僕だってあなたを愛してるから

 ライヴ終了後は打ち上げ場所に向かった。今回も陽桜者ではずれるかと思ったら、光樹が今回チケットを流せた陽桜の人間は僕ひとりだけだった。カウンターで週刊誌なんかをめくることになっていると、「アウトローだね」と含み咲った声が隣に聞こえた。
 横目で相手を見て、ドラムスの拓音なのを確認すると顔も上げた。ライトオレンジのシャツにジーンズを合わせ、耳はともかく目元のピアスがいつまで経っても見慣れない。それでも、軽薄な感じが気兼ねない印象には似合っている。「ここいい?」と左隣のスツールをしめした彼に、「拓音がよければ」と週刊誌を閉じた。拓音は骨張る痩躯を身軽にスツールに預けると、手にしていたグラスをテーブルに置いて週刊誌を覗く。
「熱愛発覚。意外。碧織くんこういうの読むんだ」
「読まないよ。今、ヒマだし」
「あっちに加われば」
「週刊誌もあの輪も低俗なら、もうどっちでもいい」
「低俗か。きついな」
 拓音は笑ってグラスに口をつける。酒ではなさそうだ。
「それ、お茶」
「ん、ああ。烏龍茶。俺、酒ダメなんだ」
「えっ、そうなの」
「飲めても、好きこのんでは飲まない。俺たちの中で一番飲むのって光樹だし」
「そうなんだ」と向こうのソファで友人とやりあう光樹を見やる。
「光樹は、僕と子供の頃からワインとかあおってたしなあ」
「マジ」
「マジ。光樹はあれで悪趣味なとこあるよ。僕と淫売ごっことか虐待ごっことかしてたし」
「……虐待ごっこって。いくつのとき」
「五歳か六歳」
「すげ」
「どっちも、コツは母親にがんがん提供されてたしね」
 拓音は理解しがたいような曖昧な笑みを浮かべ、僕はカクテルグラスの赤いカクテルを飲んだ。アルコールは軆をぼんやり熱くさせるけれど、店内は熱気のためか涼風が流れていてちょうどいい。
「光樹って、マジかよってとこあるよな。テレビで悲劇の過去とか感動の再会とかあると、鼻で嗤ったり不機嫌になったりするし」
「あれは僕もムカつく。人の不幸も幸福も知ったこっちゃないよ」
「光樹も言ってた。コンビニ行ったあと、気づくとリュックから買ってた記憶がないものを取り出したりするし」
「手くせ悪いね。僕は万引きはしないよ。引ったくりはしても」
「………、学校でもそうだったな。その先公が嫌いだって理由で授業抜け出したり、今日は飽きたって理由で早退したり」
「光樹は光樹なりに、学校に屈伏してたみたいだよ」
「光樹にはそうなのかな。一般生徒が見たら、好き勝手やってるほうだったよ」
「ふうん」ともう一度光樹を見ると、今度は彼はこちらを伺っていた。僕が笑みを作って平気なのを知らせると、光樹も笑みで安堵を表わして輪に戻った。
「拓音たちって、学校で逢ったんだよね」
「まあ。落ちこぼれで共鳴」
「拓音と七夏が仲よくて、光樹と美静が仲よかったんだっけ」
「俺と七夏は共育ちだし。光樹と美静は同じクラスで、教室になじめないってので自然と合流したらしい。で、光樹の例のアウトローぶりが俺たちを引き寄せたと」
「拓音も不良だったんだよね」
「光樹よりタチ悪かった。七夏とコンビで、不良のフルコース攻め。夜遊びに喧嘩に恐喝に女に薬」
 拓音は優しく咲い、その笑みにはどこか無感覚な空洞がある。咲った身動ぎに茶髪が揺れ、首の金の鎖が暗い明かりをすべらせた。
「俺にとっては、光樹と碧織くんの感覚って不思議だよ。何でそういうふうに思えるんだろって。そう思えたら楽なのかなとか」
「イカれた感覚だよ」
「麻痺したら何にも感じないよな。痛いぐらいなら、麻痺のほうがいいかも」
「痛いの?」
「そりゃあ、ま、痛いっつうより理不尽かな。怒り。両親のことは怨んでない。おじさんは憎いよ」
 たまごのサンドイッチをかじった。単なる落ちこぼれ同士で、この街を居場所にする光樹が、外に生まれた人間を許し入れるはずがない。美静、拓音や七夏も精神に虚ろを抱いている。傷から壊死に、壊死から空洞になった、吹き抜ける不気味な虚ろを。ただみんな、絶対絶命でなく他面で愛も知っていたので、仲間と音楽に出逢う前に破滅はせずに済んだ。
「俺が酒ダメなのって、そのにおいなんだよな」
「におい」
「七夏も酒を飲まないのは、そのせいなんだ。おじさんはアル中だったから。酒を飲んで、いつも俺たちを殴った」
「酒ね」
「そのにおいを嗅ぐと、思い出すんだ。殴られてもないのに、痛くなる。グレてたときはヤケで飲んでたよ。更生したら、麻痺がなくなってて、飲めなくなった」
「何となく分かるよ。僕も甘ったるいにおいの香水つけてる女はダメなんだ」
「香水」と拓音は僕を見て、たまごサンドイッチを飲みこんだ僕はうなずく。
「母親がそうだったんで。安ワインみたいなにおい。きちんとした匂いはいいんだよ。ま、僕は痛いってよりムカつくんだ」
「俺もムカつくよ。っていっても、どっかに怯えも混じってる。憎くても、実際目の前に立たれたら動けないだろうなって」
「外っぽいね」
「碧織くんは言い返せてたんだよな」
「僕はあの人に殴られるの、たいして理不尽じゃなかったよ。あの人が僕を憎んでるの知ってたもん。そんなに憎けりゃ殴りたくもなるだろうなって。僕もあっちが憎たらしかったんで、失うものはないって感じで言い返せてた」
「俺もおじさんに失くすもんはなくても、言い返せなかったな。反抗して殺されるのが怖かった」
「僕はこの女に僕を殺す勇気はないって分かってたし。やれるなら、動物より簡単にやれる赤ん坊のときにやってたよ。僕はあの女が怖いことは一度もなかった。バカにしてただけ」
「割り切り方が男らしいよな」と拓音は半袖に魚のタトゥーが隠れる左腕で頬杖をつく。
「俺なんかじめじめ引きずってさ。やっぱ碧織くんと光樹はかっこいいなって思うよ」
「光樹は単に愛されてたんだよ」
「普通分かるかな、殴られて罵られて。子供って何にも知らないんで、見た通りに直結するじゃん」
「けど、子供って見ためより直感で事を見抜くし」
「……ま、そうか。俺も少し分かるかな。俺だってやろうと思えば両親を憎める。でも憎まない。光があるなら、どんなに弱くてもそっちに賭ける。俺は血を信じてるよ」
 僕は赤いカクテルに唇を浸した。僕は血は信じない。だから忘れている。この血管に蛍華さんから受け継いだ血が流れているなんて、僕はいつもは知らない。

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