うわさ
僕は男の胸の中にいる。こうしてぎゅっと抱きしめられると、懐かしい陶酔がよみがえってくる。蛍華さんの恋人や旦那に抱かれたときのような、初めて客をとったときのような──わりとうぶな恍惚だ。
個人的にはあまり好きな客ではないけれど、彼の背中に腕をまわして胸板に頬を押しつぶす。
高級ホテルのスイートルームだった。ふかふかの大きなベッドにしか用がない僕は、冷蔵庫やテレビ、リビングのような別室があるのは気恥ずかしい。絞った明かりに室内は薄暗く、ごく静かで、冷房はかかっていなかった。十月に入ったこの日、こんな真夜中ならじゅうぶん涼しい。
左のバルコニーのむこうの夜景は、星に色彩があるみたいに綺麗だった。豹さんと蛍華さんもこんなところで抱きあっていたのだろうか。漠然と思って、彼の肩に頭を出していると、彼は僕の首筋に鼻を突っこんでくる。
「香水つけてるの」
「え」
「匂いがする」
「ああ、まあ。知らなかった?」
「そういう匂いがするなとは思ってた」
「嫌い?」
「いや。いい匂いだ」
「よかった」
僕は再び彼の胸にもぐりこんだ。三十代なかばのこの彼は俳優で、端正と魅力が入り混じった顔立ちをしている。彼はいつも偽名で僕を買い、偽名でチェックインし、直接部屋に呼びつけて落ち合う。僕はテレビも映画も観ないが、彼が芸能人なのは甘ったるくナルシストっぽいにおいですぐ分かった。そのにおいが、いまいち僕の執着心を呼び覚まさない。
寝たのは数回ながら、彼は僕をお気に入りのひとりに加えつつある。ほかにもお気に入りがいるのは何となく分かる。蹴落として独占したい客でもない。彼のチップは目をみはるものがあるが、それも彼が金銭感覚が狂っているだけで、僕への評価が高いぶんの金額ではない。でも金は金だし、と一応素直ににっこり受け取っている。
有名人を客に取ったことは何度もある。彼らは自分の技術や体力を自慢したがる。淫売にそんなものを披露してもしょうがないと思うが、僕は憧れの有名人に抱かれた一般人を演じて驚いておく。彼は中学生の頃に芸能界入りし、演技づけの日々で主体性がなくなっていた。妙に振る舞いが嘘臭い腕で、僕をベッドに寝かせると、瞳を見つめておおいかぶさってくる。
「俺は十代の頃、ゲイだってことをかき消そうと、俳優って立場を利用して女をたらしまくってた」
前回の密会で、彼は僕の頭を肩にもたれさせながら言った。
「でもダメだった」
彼は脇のチェストに放っていた煙草を取って、火をつけた。その銘柄は僕、ひいては豹さんと同じで居心地が悪い。
「十九のとき、ドラマで共演した俳優にゲイだって見破られて言い寄られた。応えないうちに押し倒されて、俺は彼に男同士のやりかたを仕込まれた」
沈黙が置かれ、彼は灰皿に灰を落とした。僕はミルク色の絨毯を爪先でつついている。
「それから俺は男の味を知ってしまって、ここに通うようになったんだ」
そんなわけで、彼は普段はゲイであることを抑えこんでいるのだが、手つきは荒っぽくなく、濃い。クリームをなじますように全身を愛撫し、そのクリームを舐め取るようにくまなく口づけてくる。
彼は結合を欲しがらない。例の初体験で、自分の尻からはみでた白とか茶とか赤のものにいい想い出がないらしい。彼は僕をしゃぶり、僕も彼をしゃぶる。
自分の脚のあいだで動く僕の頭に、彼は認めたくない、つらいような瞳をちらつかせるときがある。でも僕は気づかないふりで反りかえるものに舌を巻きつけ、喉まで飲みこんで唇で根元を抱きしめる。
「水鳥」
シャワーを浴びてきた僕は、「ん」と濡れた髪に白いタオルをかぶりながら隣に座った。彼は終わったあとの余韻の時間も好きで、制限時間まで一時間もある。愛をたぎらせたせいか、明かりのついた部屋には冷房もかかっていた。僕はTシャツもジーンズも身につけていても、彼はスラックス一枚だ。
「君はここに暮らして何年になる?」
彼に眼光を走らせた。素姓は不用意に話すものではない。彼の幻想のためでも、僕の私生活の保護のためでもある。ここは害はなさそうだと判断すると、「十九年だよ」と素直に言った。
「え、今いくつだ」
「十九」
「ここが生まれ」
「まあね」
「そうか。じゃあ、ちょうどよかった。希水って知ってるか」
頬をかちんと硬直させかけ、一秒で柔らかな頬に訂正する。
「知ってるよ」
「最近、彼が帰ってきたってうわさを聞いたんだが」
うわさ。うわさになっているのか。まあ、案の定ではあるか。
「聞かない?」
「知らない」
事実じゃなくてうわさはね、と内心で続ける。
「……デマかな」
「どうして。希水に何かあるの」
「いや、昔、彼を買ったこともあるんだ」
今度は瞳を陰険に冷えこませかけ、慌ててぱっちりと無垢に戻す。
「すごいね。拝めたんだ」
「ずいぶん金を積んでね」
「どうだった? よかった?」
「あの頃はな。今は分からない。水鳥みたいな熟練した子のほうがいいって知ったしな」
彼を見つめ、髪を拭くタオルを膝におろしてがっしりした肩にもたれた。彼は僕の焦げ茶の髪を撫でる。
「彼は綺麗な黒髪をしてた」
知ってる、と思っても、「聞いたことある」に変換する。
「僕の髪、ダメ?」
「水鳥も綺麗だよ。綿毛みたいに柔らかくて」
「へへ。また希水に会いたい?」
「興味はあるな。まあ、どうしてもってわけじゃない」
無関心を装う口振りで、会いたいのは察せた。グレて舌打ちしたくても、僕はその言葉にほっとしたように彼に寄りかかる。彼は僕の焦げ茶の綿毛を撫でていた。
うわさになってきてるのか、と彼が目を離した隙に、半眼の冷ややかな眼をもらす。厄介だ。元の店や蛍華さんが聞きつけ、いざこざが起こって僕に届かないといいけれど──
実際、珠生の帰還はうわさになりつつあるようだった。そのあと〈neve〉にひと休みしにいき、希水のことを訊かれたのを愚痴ると、自分も訊かれたという男娼が数人いた。
元希水の客というのは、この街には散在している。あいつは当時この街にいたゲイとは、ことごとく寝ていた──金がなかった男は除いて。
何だかんだ、珠生が戻ってきて一ヵ月になる。そのわりにどこかの部屋や職に安定したという話は聞かなくも、僕があいつに聞く耳を貸さないだけで、とりあえずどこかに腰は据えたのだろう。昔ほどつきまとわれない上、嫌におとなしくなっているので、何やら印象が希薄であれ、僕にも珠生の帰還は認識されつつあった。
珠生は、男娼に腰を据えたのではなさそうだ。だとしたら、あんな不安定なうわさでなく、復帰したという明確なニュースが駆け抜けて、ゲイたちの目の色を塗りかえているだろう。
淫売でなければ、あいつは何で生計を立てているのだろう。この地区も、淫売ばかりがうごめいているわけではない。コンビニもあるし、喫茶店、モーテルもある。いえども、珠生がそんな使用人じみた仕事をするとは思えない。
いや、それは僕の主観なのか。珠生がレジを打ったり、メニューを持って注文を取りにきたり、まして愛しあったふたりの汗が染みこんだシーツを取り換えたり──いや、僕でなくても想像できない。だったら、窃盗でもやっているほうがマシだ。そうなのかな、と僕はこむずかしい顔になり、ピンと来なくて首を捻る。
もし盗みだとしたら、それで部屋を借りるのはむずかしい。食事は取っているようだし、入浴もしているようだ。手荷物はなくても、服装は変わっている。部屋がないとしたら、モーテル──連れこみ宿にひとり寝暮らしなのか。
野宿ではないと思う。たぶん。あんな美形が道端で眠っていたら、たかられて犯されるのがオチだ。この街には、金がないあまり浮浪者をあさって性欲を発散する輩もいる。珠生にそういう行為を受けた傷痕などは見当たらない。
ひとつも解けない珠生の生活に、疑問と同時に気味悪さも覚える。幽霊じゃないだろうな、と思っても、引っぱたいたときすりぬけなかった。どうだっていいと放ってきたが、じっくり考えると、珠生のここでの暮らしは不透明だ。街中で僕と遭遇する時間帯もまちまちだし、出没する場所にも一貫性がない。実は同行人がいるとかでもなさそうだし──おばけみたいだな、と非現実な印象を持ってしまう。
依然として、珠生を人混みには見かける。あの平手と暴言がきいたのか、珠生は僕にみずから声をかけるのは逃げるようになっていた。もはや喜ぶ余裕もなく、不気味だ。
あんなことを仕出かせば、以前の珠生は高度な仕返しとして僕をつけねらい、目をかけてやってんのに何様だ、とか、口が未熟で手に頼るって最低、とか皮肉を浴びせていたに違いないのだ。変わったというより、別種の精神に乗っ取られたと言ってもいい。あいつの内部構造は、いったいどうなってしまったのだろう。
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