朝のベランダ
珠生の駈け落ちを、僕はリアルタイムでは知らない。珠生が駈け落ちをしたのは彼が十三だった秋で、僕はその数ヵ月前の夏に消息を絶っていた。かくて僕が知る珠生の駈け落ちに関する情報は、すべて人に聞いたことに等しい。
念のため言っておくと、僕が最後に見た珠生には何の変化もなかった。上の空だとか、物憂げだとか、幸せだとか、誰かに夢中になっている感はいっさいなかった。いつも通り、不快にトゲっぽい珠生だった。
だいたい、彼がゲイだとも知らなかった。自分と同様に、男に抱かれるのが好きなだけで、それが指向に根ざしているとは思いもしてなかった。そんな先入観を抜きにしても、あの蝉も鳴き出した暑い日の珠生は孤高に立って僕を見下していた。
「分かんないのかよ。いくらやっても進歩がないってことは、才能がないってことなんだ」
それが、珠生の僕への最後の言葉だ。僕は珠生を押しのけ、息切れを飲んで走り、到着した店にぶつかるように駆けこんだ。珠生の言う通り、その日も相変わらずの仕事内容なのが悔しかった。客と別れると、トイレで泣いた。シーナさんに見つかってあやされたけれど、僕の限界はひりひりに腫れあがって、もう、はじけそうだった。
僕を豹さんへの裏切りに踏みきらせた直接のきっかけは、その実、珠生ではない。けれど、やはり誰より僕にそうするよう圧力をかけたのは珠生だ。珠生のさまざまな非難が溜めこまれ、降りつもり、あることがついに鬱積を爆発させ、僕は爆風に駆り立てられるまま悪夢に身を投じた。
僕が保護されたのは翌年の春にもなり、その頃には珠生が消えた衝撃も余波もなくなっていた。僕は本当に珠生の駈け落ちを肌で知らない。僕はそのことについて、すべて豹さんか、光樹か、うわさをくりかえしてくれた人の話で知った。
珠生の駈け落ちは、交通事故死より突然だった。周りの人間の大半も、彼がゲイだとは思い設けていなかった。大半、というのは、ひとり、彼が男を好きになると睨んでいた人を知っている。豹さんだ。その洞察ばかりは僕も信じられずにいたが、このあいだ本人が語ったところによると、珠生はゲイだった。
豹さんも駈け落ち相手の存在は知らなかったそうだ。正確には、その相手と駈け落ちする仲にあるとは知らなかった。豹さんの眼にそうだったのだから、周囲にはますます珠生とその男の私的な糸は突拍子なかっただろう。
相手の男は客で、ふたりが接しているのは周知されていた。特別な仲になっている様子はなかった。そののち立ったうわさによると、駈け落ち相手の男の部屋に誰か訪ねているときはあったという。
「変装して行ってたんだね」と回復して豹さんが会うのを許した僕に挨拶しにきたシーナさんは言った。挨拶というのは、シーナさんはその後、まとまった金と共に外国に行ってしまったのだ。変装。確かに、かの希水様が一客と無料で密会しているというのはスキャンダルだ。
逃げたお相手は、法外な資産を持つ人物ではなかった。むしろ、バイト代を珠生につぎこみ、すかすかになっている男だった。大学時代に珠生にハマり、卒業後に親の仕送りがなくなると金がなくなり、珠生を買いつづけるためマンションを手放してアパート暮らしに移った。
豹さんの情報だ。療養中でヒマな僕の読み物にと、僕の好奇心のまま豹さんはいろんな真実を調べてきてくれた。そんな男なので、希水は脅迫されてさらわれたのではという見方も当時は強かった。実際、駈け落ちか誘拐か、はっきりしないままうわさは立ち消えになったという。
豹さんは駈け落ちだと言い切っていた。理由は簡単だ。逃げた先のふたりの甘い生活も、豹さんなら調べられたからだ。深追いはせず、現在では豹さんも珠生の現状に白紙状態になっていただろう。調べようと思えば、すぐ調べられただろうけれど。
僕はあらかたの疑問を豹さんにぶつけ、常に答えをもらえていた。ひとつだけ、訊きたくても訊けなかったことがある。豹さんも僕が訊きたいのは知っていたのだろうが、訊かれないならと黙っていた。
蛍華さんの反応だ。珠生が誘拐されたかもしれなくて、蛍華さんはどうしたのだろう。取り乱したのは訊かなくても分かるが、訴えたり捜したりはしなかったのだろうか。
蛍華さんも、豹さんに捜し出してくれとすがりつくことができただろう。誘拐かどうか僕が訊いたとき、豹さんは即座に珠生の甘い生活について口にした。蛍華さんに頼まれて調べていたのかもしれない。珠生は今、五年を経て自分でこの街に帰ってきた。豹さんに新婚生活を聞かされた蛍華さんは、珠生を取り返そうとはしなかったのか。愛しあった男とならとあきらめたのか、行くだけ行ったが割りこめなかったのか、珠生か男に拒絶されたのか、そもそも豹さんに珠生の自由だと止められたのか、あるいは豹さんは事実を教えなかったのか。
豹さんに頼らなかった可能性もある。家出して八年、同じ街にいるというのに僕は蛍華さんに一度も会わない。もしかすると、蛍華さんは、珠生を捜しにとっくにこの街を出ているのではないか。
珠生と男が並んで逃げるすがたを誰かが目撃したわけでもないので、ごく数日は珠生は失踪ということになっていた。店がすぐさま客のひとりも同日に消えているのを判明させた。店はしばらく、珠生の崇拝者が押し寄せて混乱状態にあったらしい。
うわさもめちゃくちゃだった。駈け落ち、誘拐に限らず、それは建前だと言い張る余興味たっぷりの流言が散々飛びかった。誰かがかごの中に買い取った、女と結婚して引退した、ストーカーから保護されている、妬んだほかの淫売に呪いをかけられて奇病に倒れた、おなじく妬んだ淫売のイジメに耐えかねて自殺した、愛しすぎた男に独占のため殺された、多すぎる客の重みに薬物に逃げこんだ、跳ねあがった名前の重圧に発狂した──
その事件から引っ張り出せるものは引っ張り出して、ふくらませていた。「すごかったよー」と僕を通して豹さんが調べた事実を知った光樹は苦笑した。ちなみに、光樹だけは僕が保護された直後のぼろぼろの状態でも豹さんに面会を許されていた。
消える前日、珠生に変わったそぶりはなかった。いつも通り出勤し、いつも通り奉仕し、いつも通り帰宅した。突発的な逃亡ではないのは、周到な逃げ方が物語っていた。追っ手がつかないよう、ついてもまけるよう、珠生は完璧に男と逃げおおせた。豹さんは特別なのだ。
そんな綿密な計画を組めるほど長いこと密通していた、と認めたくない崇拝者が、誘拐だからそんなに狡猾なのに違いない、とわめきたて、いよいよ真実は埋もれてしまった。希水を生きがいにしていた男たちの中には、飲んだくれたり、どこかに消えたり、彼の死を信じて追いかけた者までいるという。
街一番の花形だった希水の消失は、誰が思っていたより人々にとどろいた。一応、街にいた僕はそれでも知らなかったのかというと、知らなかった。あの頃、僕は死にかけていて、耳に入ってくるのは耳鳴りか荒い息遣いだけだった。目の前にあるもの以外は無で、地球がふたつに割れたって気づかなかっただろう。
衝撃も混乱も、いつまでもは続かなかった。珠生が消えたのは十月の末で、年明けには沈下のきざしがあった。僕が保護された春には跡形もなくなっていた。珠生が帰ってきて返り咲くこともなく、うわさは枯れて乾からび、みんな珠生のことなんて忘れてしまった。ずいぶん遅れて驚いた僕も、やがて忘れてしまった。
珠生が駈け落ちをして、一時期は甘い生活を送っていたのは事実だ。僕はそれを続けていると信じきっていた。珠生にはそれが可能だと思っていた。珠生はすべてを味方につけ、何もかも自分に都合よくさせることができる。痛みとは縁がない。珠生は淫売で愛をふりまくのはやめ、まじめにひとりの男を愛し、穏やかに暮らしている──忘れながらも、無意識に彼についてはそう片づけていた。
違ったのか。珠生は幸福を転落していた。彼は神ではなかった。予想以上に深く、無数の傷をその身にたたきつけられていた。そうでなくて、あんなことになるわけがない。珠生は今、珠生に追いつめられた僕のように心を傷めている。
左手に昇る朝陽を横目に、僕は部屋のベランダで煙草をふかしている。汚れた手すりにかまわず剥き出しの腕を預け、立ち並ぶアパートの蒼然とした景色を眺めている。蝉は死に絶えて周囲も寝静まりつつあり、鳥が飛びまわって甲高く鳴いていた。朝の冷えた風が頬や髪を撫で、流れに寄り添った紫煙や香水が嗅覚から精神を慰撫する。
今日一日、昨日の打撃が焼きついて仕事が今にも浮わつきそうだった。珠生なんか大嫌いだ。どうなっても知ったことではない。心配しているのではない。とはいえ、いい気味だという感懐もない。今は衝撃が大きくて真っ白だ。
足の早い蜜月だったのか。何か事件が起きたのか。珠生は男が変わったと言った。自分が変えたのかもしれないとも言った。恵まれた結婚生活は腐敗に破綻し、珠生は男の元を逃げ出した。幸福な光を満たしていくはずだった駈け落ちは、挫折へと黒血に爛れた。その侵蝕が、珠生をあんなみじめな状態へと深化させたのだろうか。
不謹慎な好奇心かもしれない。けれど思う。珠生はそこでどんな腐臭を嗅いできたのだろう。
「パパ」
ふと背後でガラス戸がひらき、毬音の声が腰のあたりにかかった。「ん」と振り向かずに言うと、「ごはん炊けたよ」と毬音は言う。「ふうん」と僕は煙を吹いて手すりに体重を寄せかける。
「パパ」
「ひとりで食えるだろ」
「振られたみたい」
振り返った。毬音はガラス戸を閉めて中に行った。振られた。苦い顔で舌打ちし、「処女がそんな指摘すんな」と低く毒づく。
まあ、近いだろうか。珠生に想いを寄せていたというわけではない。振られたように唐突なショックは受けた。僕は珠生は不遜だと信じていた。その固定観念を、前触れなく裏切られた。
鳥が戯れる空は、次第に昇る太陽に明るく切り開かれている。西の空には闇が降りていても、東の空では濃い桃色の雲が紺色にたなびいている。それがやがてうすらいで金色っぽい橙色になり、色合いは太陽の白い光にどんどん淡く突き抜けていく。蒼い景色も暖かい陽射しに目覚めていき、今日は晴れそうだな、と澄んだ風に前髪と煙を揺らし、右腕を起こしてくわえ煙草で頬杖をついた。
路地裏を見つめて感じた吐き気が、喉でもやもやしている。さしあたり、この吐き気は、肉体的なものでなく精神的なものだ。
希水が帰ってきたとうわさが立ち、珠生は道端で客を取り、彼にしか害がなければこんなのは発生しない。だが、僕があいつと密接な関係にあるのは、しょせん事実なのだ。
僕にまで面倒が振りかかってこなければいいけれど──強くなっていく光に睫毛を伏せて透かし、その空のようには明るくならない心に煙たい息をつくと、部屋に戻った。
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