青氷の祠-4

幼なじみ

 八月に入って一週間が過ぎた日、僕はその日も勤めに家を出ていた。
 僕は二週間に一度ぐらい休日を入れても、体力に支障がなければ仕事に出かける。休みを申請しなくても、弓弦が体力をはかって適度に休みを入れてもくれる。はっきり言って、弓弦が入れる予約のままやっていたら、いい感じだ。僕は仕事に関して、弓弦にケチをつけられない。それでも僕は、しばしば弓弦の厚意を無視して、何の予約もない日に出勤したりする。
 僕は単純にこの仕事が好きだった。もちろん、中には生活費と小遣いが稼げればいいと、根つめて働かないのもいる。ごく純粋に、金のために売春をしている輩だ。僕は報酬をもらうのは大好きでも、それに換算される自分への評価が楽しいわけで、たぶん金のための売春とは性質がちがう。僕の知り合いの淫売は、おおかたそうして金額に比例して内含される自分の価値がこころよく、大金や贅沢を欲しがる。
 いつまでもやっていられる仕事ではない。女は得だ。才覚さえあれば、年寄りになっても買ってくれる男がいる。子供の頃、母親が働く店を経営する女主人がそうだった。でも、人生を半分も過ぎた男娼なんて聞いたことがないし、聞きたくもない。男の売春は若いうちだ。男相手だろうと、女相手だろうと──
 このへんの男娼は、潮時を過ぎると裏方にまわるのが多い。弟分を連れて店を出したり、ポン引きになったり、堅気になるのもいても、僕は裏方に移ると思う。
 夕町を出ると、慣れた道のりをてくてく歩く。ビル街を抜け、宿屋街に隣接した飲食街に〈neve〉はある。
 十九時をまわったばかりで、蝉の声は落ち着いても、空は水色の明るさを残していた。端々には桃色が溶けはじめ、気の早いイルミネーションもあれ、だいたいは灯るのを躊躇っている。人通りも太陽の影に押され、あふれかえるのをこらえていた。空気は蒸して重く、動作が生温くなりかける。
 せっかく浴びてきたシャワーも汗にまみれ、いいことなんて、香水に僕なりの深みができることぐらいだ。にじんだ湿り気に前髪をかきあげ、アダルトビデオショップの前を通り過ぎたときだった。
碧織あおりっ」
 死の名残にひかえめな雑音を縫い、そんな呼びかけと駆け足が近づいてきた。足を止めて振り向いた僕は、「あ」と目を開く。
光樹みつぎ
 迷彩柄のシャツにジーンズを着た彼は、立ち止まった僕に手を振った。僕は自然と笑みをこぼして彼を待つ。僕に追いついた彼は、いったんくすんだ橙色の頭を垂れて息を整えると、顔を上げてにっこりとした。
「へへ、よかった。こっちの通りちらっと見なきゃ、部屋に行っちゃうとこだった」
「よく分かったね、背中で」
「分かるよ。人も少ないし」
「二週間振りかな」
「だね。ひと通り片づいたんで」
「歩いてきたの。タクシー」
「途中まで七夏ななつに車で送ってもらった」
「ん、いないね」
「女の子に会いにいくっつうんで、ついでに」
「そっか。僕、今、頼さんとこ行こうとしてて」
「すぐ仕事」
「ううん。約束は二十一時」
「そ。じゃ、一緒していい?」
「もちろん」と僕は足を踏み出し、光樹は並行する。
 髪を橙色に染め、左耳に小さな黒曜石のピアスを刺したこの彼は、僕の幼なじみだ。ひとつ年上で、男娼ではない。普段はこの街の中間層の北側、彩雪あやゆきに暮らして音楽をやっている。豹さんの次ぐらいに僕が信頼する、大切な存在だ。
 繊細なまぶたや豊かな瞳、頬やあごの線が描がく顔立ちはあくなく、軆も筋骨のつりあいがしなやかだ。幼なじみ、というだけあり、以前は光樹も陽桜に暮らしていた。何やかやがなければ、彼も男娼をしていたかもしれない。
 肩の茶色のリュックをかけなおした光樹は、「最近どう」と悪戯な色合いを浮かべて僕に目を向ける。
「んー、別に。相変わらずかな」
「夏乃さんと別れたり」
「どうなんだろうね。すでに別れてんのかな。よく分かんない」
「毬音ちゃんは」
「かわいくないよ、僕そっくりで。光樹は」
「僕は新曲に取りかかってた。デモ持ってきたんで、あとで聴いてよ。昨日録ったばっか」
「どういう感じ」
「おとなしめかな。教室にいたときの奴。暗いよ」
 光樹は私生児で、父親を知らない。母親の陽香ようかさんはこの街の娼婦で、それで僕たちは幼なじみなのだ。光樹が十歳のとき、陽香さんはある男と結婚して、娼妓をやめた。
 陽香さんは外で平穏を手に入れたものの、光樹はいきなりたたきこまれた学校や常識になじめずに孤立した。しょっちゅうここに遊びにきては、男娼になったほうがいいとこぼしていた。中学に上がって、疎外は強まったが、似たような学校の落ちこぼれと出逢ってバンドを組み、この街に舞い戻ってきた。
 音楽をやるなら、陽桜よりライヴハウスやクラブが密集する彩雪がいいとそちらに暮らしているわけだ。それでも、光樹はまめにこちらを尋ね、僕を初めとする男娼や娼婦の友人と親交を続けている。
 バンドはファントムリムといって、光樹はヴォーカリストだ。僕が客への眼識を高めるのを支えにしているように、光樹は歌うことを心のはけ口にしている。一時期の外での生活はもちろん、幼い頃、ここでの不安定だった生活についても光樹は歌う。学校のような不快感はなくても、気紛れな危うさがつきまとう日々ではあった。
 光樹は子供の頃から溜めこんだ不安や、学校で知った不愉快を詩に表し、ステージで声として昇華させる。幼少期の痛みをさらす詩は、僕は見ないようにしてきたところをさしだされるようで、ぎくりとするときもある。
「次のライヴ、いつ?」
「また月末。来てくれる?」
「うん。日づけ、はっきり決まってないの」
「三十日だよ。土曜の夜」
「出世しましたねえ」
「ねえ」
「休み入れとくよ。さっさと入れとかないと」
「売れっこみたい」と光樹は咲って僕を肘で突き、「売れっこなの」と僕はふくれて突き返す。
「しかし、彩雪って行くたび思うけど、すごいよね。南と北で、何であんなに違うかな」
「僕は外のものすごい空気知ってるんで、贅沢言えないな」
「僕も嫌ってわけじゃないよ。でも、すごいよ」
 彩雪の空気は、陽桜とはずいぶん違う。遊び場なのは同様でも、自暴自棄に何でもありで、半端でない熱気に生気がない。喧嘩も薬物も日常で、その日暮らしのような地区だ。
 落ちていく空色にネオンが生き返る中、僕たちは二週間のあいだの出来事を交換する。光樹はメンバーのことや先月末のライヴの裏話、僕は客のことや弓弦に恋人ができたといううわさを流す。「恋人」と増殖していく物音になじんだ声量で光樹は言う。
「弓弦くんって、たらしじゃなかった?」
「何か、くつがえしたらしいよ」
「ふうん。弓弦くんといえば、思うよりすごいみたいだね。前、スタジオのスタッフで友達になったナナイくんってのがいてね、彼の親友が弓弦くんと知り合いだって言ってたよ。ナナイくんも見たことあるって」
「あいつ、向こうでも強いの?」
「こっちほどじゃなくてもね。名前は通ってる」
「そんなすごいのかなあ」
 首をかしげていると、足は自然と宿屋街をそれて、飲食街に出ていた。何階建かの雑居料理店の合間に、個建の喫茶店やファーストフードもちらほらしている。ちなみに〈neve〉は個建だ。
 夜が降りて、すれちがう店のショウウィンドウに道路は明るく、街はすっかり目覚めていた。やがて左手に現れる、ひときわ店内を見通させる店が〈neve〉だ。入口は通りに面しておらず、右の広めの路地に入った少し先にある。
「あ、光樹くんだ」
 店内に踏みこみ、一番手前の四人がけのテーブルにいた香果かぐみが声をあげた。くせ毛と飴玉のような瞳が愛らしいこの子は十五歳で、父も母も分からず、悪戯するために拾った男に育てられた。自我が芽生えると、性的虐待はとっとと逃げ出し、ヤケで始めた男娼が五年近くも続いている。自分を追ってきた男のことは、客として丸めこんでしまったのだから、無邪気な風貌に騙されてはいけないつわものだ。
 香果の声に、涼しい店内の男娼たちはだいたい振り返る。光樹はこの店で、売春に無関係なめずらしい客として有名だ。「やっほー」と光樹は自分に注目したみんなに笑みを作り、僕は香果のいるテーブルの隣、ふたりがけのテーブルに腰かける。光樹は僕の正面に座り、カウンターの頼さんにも橙色の頭を下げた。
「お久しぶりです」
「です。お前はどんどんロック野郎になってくな」
「ロック野郎ですから。新曲のデモ持ってきたんですよ。置いてくれません?」
「聴いてからな。光樹の歌詞はときどき営業妨害だ」
「悪かったですね」
 笑いを噛んでいると、ウェイトレスの果樹さんが注文を取りにくる。二十台なかばの彼女は後れ毛のまじった髪を背中に伸ばし、大きな瞳と大きな口で快活な印象を与える。
 毬音は彼女の匂いが好きだと言ったわけだが、飲食業ゆえ、仕事中にその匂いはしない。ならば毬音は香りをどこで嗅いだかというと、僕にここに置き去りにされ、戻るまでシフトを上がった果樹さんに相手をしてもらったときだろう。
 その匂いに惹かれたかどうかは謎でも、彼女には男がいて、それはファントムリムのドラマーだったりする。僕はレモンティーを、光樹はホットドッグとコーヒーを注文した。
「七夏は恋人のとこ行ってんだよね」
 七夏はベーシストで、ファントムリムは全員同い年ながら、僕は自然とみんな呼び捨てにしている。
「うん」
美静よしず拓音たくとは」
「さあ。美静は弦買いに行ってるかも。昨日切れてたんで。拓音はどうだろ。果樹さんとデート、ではないね。いるし」
「四人で遊んだりしないの」
「えっ。す、するかなあ。昔はしたよ。今は、友達っていうよりバンド。みんなといると落ち着くのは変わんないよ」
「そんなもん?」
「そんなもんです」
 僕は果樹さんが置いていったグラスの水をすすり、冷たさで喉を癒す。
「光樹は恋人できた? 何とかって子と切れて、一ヵ月ぐらいになるよね」
「新しいのは、いい子と出逢えたときでいいよ」
「未練あるの?」
「ないよ。よりによって、あんな野郎と浮気する女」
「こないだのライヴで、そんな歌なかった?」
「歌いました。あー、何で僕って女の子の選び方下手なんだろ。変なのばっか好きになる」
「僕も女の趣味悪いよ」
「え、一応、夏乃さんって趣味なの」
「趣味じゃない」
「娼婦だよね」と光樹は首をかたむけ、黒曜石を鋭く光らせる。
「うん」
「男娼と娼婦の取り合わせって、ありそうでないよね。合わなそう」
「合わないよ」
「別れないの」
「別れてるようなもんだよ。あいつ、今もほかの男のとこにしけこんで帰ってこない。家賃滞納してんだよ。あと三日で帰ってこなかったら、あいつのサファイアのイヤリングを質に出すんだ。帰ってきたら、引っぱがすので許す」
「許すって、引っぱがす時点ですでに罰してるのでは」
「金取るだけだよ」
「碧織ってギャップあるよね。淑やかに色っぽいのが似合うのに」
 碧織、というのは僕の本名だ。淑やかに色っぽい──「客の前ではそうだよ」と頬杖をつくと、「だろうね」と光樹は咲って、グラスの水滴を指先に遊ばせる。
「昔から、碧織は男娼になるだろうなあって感じあったよ」
「光樹もあったよ。昔はね。だんだんなくなった」
「僕はほんとにそうかなって思ってた。なってもよくても、どうしてもなりたいものでもないなって。僕には歌だったんだね」
「陽香さんは、やっぱ反対してる?」
「うん。自分が堅気になったんで、僕にもそうなって安定してほしいみたい。おじさんのほうが、したいようにやれって言ってくれる」
 僕は母親が大嫌いだ。光樹は陽香さんを母親として愛し、頻繁ではなくも外への嫌悪をおして会いにいっている。義理の父親とも確執はなく、友達みたいだという。「今落ち着いてるんで、気持ちを冷静に見れるのかもね」と光樹は創作活動についていつか語っていた。
「陽香さんも、本心では理解してんじゃない?」
「たぶんね。でも、心配なんだよ。僕はプロになって、それで安定するのを目指してるわけでもない。ふらふらバイトできなくなる前に、適当な定職は持たないと」
「プロにならないの」
「ならないよ。プロになるほど強くないし。売り上げとかリスナーのために、吐き出したいことを加工するなんてできない。そんなのしたら、音楽してる意味自体がなくなるよ」
「今のままで、聴いてくれる人はいるんだよね」
「そういうファンを大切にしたいと思う。そのままの僕に共感してくれる。お金のために言葉を変えたら、みんなをがっかりさせるよ」
 自己満足を突きつめているようで、自分自身でいることでリスナーを尊重している。確かに売れているという理由で追いかけてくるファンより、そうしたファンのほうがずっと価値のある支えだ。
「碧織はすっかりプロだね」
「まあね。いろいろありましたが」
「そうなんだよね。この頃、ほんと大丈夫? 穏やかなんで、何か起こるんじゃないかって思う」
「何にもないよ。まあ、もう十九なんだなあって。十年後には男娼やってないよね」
「何やってる?」
「光樹んとこのマネージャーしてようかな」
 光樹は笑い、「それでもいいよ」と水を飲む。
 そこに果樹さんがそれぞれ品物を持ってきて、「歩くのって運動になるよね」と光樹はホットドッグにぱくつく。湯気をたてるウィンナーも香ばしく、そんなにおいしそうに食べられたら、こちらも欲しくなってしまう。
 しかし、仕事前に食べすぎて胃がふくらんだら情けないと自制し、僕はレモンを絞った紅茶にストローをさした。共通の想い出に脱線したりしつつ、僕と光樹は現在はまったく異なる生活に尽きない話題を提供しあった。

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