青氷の祠-41

血痕を残して

 三日間、モーテル暮らしをした。甘ったるい嬌声を遠くに聞き、ベッドに腹這いになって、住宅情報をめくった。
 本屋で購入した雑誌から不動産屋でかきあつめたチラシまで、ダブルベッドに散らかして気むずかしく検討する。この場合、家賃や間取り以上に場所だ。こんなモーテル暮らしに追いこまれない部屋でないといけない。
 つまり、夏乃があっさり見つけて押しかけてこない部屋だ。あいつは何と言って転居先にもやってくるか分からない。毬音を持っていけば、そのガキはあたしの娘よ、とか言うに違いない。ならば毬音を捨てていくのも手だが、なるべく持っていく方針で、この際夏乃に見つからない部屋が手っ取り早いのだった。
 が、夕町南寄りの部屋なのは変えられない。東側の陽桜は、ここを中心に張った根がふいになる。中央はそれ以上にダメだ。豹さんか弓弦に相談し、近所の穴場を見つけてもらおうか。
 豹さんに相談すると、部屋より夏乃を片づけられるかもしれない。それもまた有りだが。何せ僕は、あの女の絡みついてくる縁をすっぱり切らなくてはならない。彼女の忠告ではないが、実際やばいことになる。そのへんのプロに見てもらって決めよ、と僕は三日間でいくつかページを折り、何枚かチラシを捨てずに取っておいた。
 ここんとこいそがしいな、と十月の中旬に入った涼しい明け方、部屋への道のりを歩きながら僕は思った。毎日男の腕でぬくぬくしていた日々が恋しい。夏乃はこのリュックに入った住宅情報で片をつけようと思うが、珠生はどうなることか──
 珠生は、本当にこの街に腰を据えるのだろうか。意地悪でなくそう思う。それにしては、しっくり落ち着かず、頼りなく浮わついている。今にもどこかに飛ばされ、消え失せそうだ。ここに来る前はしばらくふらついていたと言っていた。ここだろうとどこだろうと、珠生に行くあてがないのは変わりないのか。
 けれど、元のところに行けば、おそらく蛍華さんもルミコねえさんもいる。行ってみたのだが、わりと邪慳にされたとか。それとも、知った顔がいなくなっていた? いや、引き取ってくれる元客はいる。失望させない容姿もある。救われる道はあるのに、何をわざわざ不幸に突っこんでいるのか。
 追いこまれて手立てがなくなったとき、しょせん中枢に逃げこむ可能性はある。可能性があるとしたら、そうなる日は近そうでもある。そうなったら珠生の帰還は確定で、僕への問題は──けっこう、消えるだろうか。ならさっさと逃げこめよな、と地面を蹴る。
 さしあたり、夏乃だ。たった三日しか経っていなくても、夏乃はいないと思う。めためたにやっつけたし、脚が動かせるようになるが早いか逃げ出していると思う。三日も床に伏せれば、脚を引きずれるようにはなっているだろう。僕は脚に攻撃はしなかったので、あいつは歩行に問題がある骨折や捻挫はしていない。いたら最悪だな、とも思いながら帰ってみると、さいわいブーツはなくなっていた。
 部屋は日常の状態ではなかった。荒らされていたわけではない。鏡台はとっくに粗大ゴミに出している。何もなくて静かなのだ。
 そう、何もいない──毬音も、いない。
「毬音?」
 あいつが僕の呼びかけに応えるはずがない。隠れているのか。今、彼女を殴ろうとは思わない。敷きっぱなしに出ていったふとんは片づけられ、押し入れを見るとそこにおさまっていた。空き部屋、物置、浴室にも毬音のすがたはない。僕は爪をかじり、夏乃に殺されて生ゴミに出されたのかな、と物騒な推測を立てる。
 玄関を覗くと、ホコリをかぶっていた毬音の靴がなくなっていた。まさか夏乃が連れていったのか。そんなの、殺したという一理のほうがマシだ。しかし、あのボロ切れ状態の夏乃にやつあたりする体力があったかどうか。回復して、なおも消えない屈辱をぶつけたのか。やだなあ、と僕は殺人があったのかもしれない部屋を見まわし、まあいいか、と荷物をおろすと夕食を作った。
 鮭を焼いて味噌汁をこしらえると、ごはんが炊けるまでシャワーを浴びることにした。服を脱ぎ、白鳥に触れながらバスルームに踏みこむ。立てかけられたシャワーヘッドを取り、ふたのかからないからのバスタブに水を出した。湯気が立ちのぼるあいだ、さしこむ陽射しに冷たく光るタイルを何気なく振り向く。
 一点で目をとめた。足元近くのタイルに、赤いものがこびりついているのだ。え、としゃがんで目をこらすと、どうも、血──タイルに映る自分の影と顔を合わせる。
「……マジ」
 ついしゃがんだため、シャワーがバスタブをずれて、流し場のタイルにそそいでいた。素足にすうっと温まりかけた水が触れ、慌ててシャワーをバスタブに向け直す。今度は鏡に映る自分と顔を合わせ、そこで、目尻の切れこんだ目をやや参らせる。
 血。これは要するに──
「あーあ」とため息混じりにつぶやき、ちょっと胸を悪くした。まあ殺されたものはしょうがない。僕は関係ない。モーテルにいた証拠もある。どちらにせよ、夏乃が証拠湮滅してくれたようだ。
 何の根拠もなく、あの小娘は生き延びて大人になると思っていた。あっけなかったな、と湯気をのぼらせはじめたシャワーを黒い白鳥にかけ、水温に慣れると頭からかぶった。
 服を着たり乾かした髪に香水をふきつけたりしていると、ごはんはいつしか炊けていた。ひとりで胃に食べものをつめこんだ僕は、片づけをしたりトイレに行ったりする。カーテンを閉めるとふとんを敷き、そこにゆっくりと仰向けになった。
 カーテン越しの陰った光が顔にあたり、細目になる。隣に毬音のふとんや気配がないのは、変な感じだった。どうでもいいとか言いつつ、あいつの存在はずいぶん僕の日常に組みこまれていたようだ。あの減らず口もきけないんだな、と多少しみじみと胸を重くしてしまう。けだるい半眼に完全に睫毛をおろすと、僕はからっぽの隣に背を向けて眠りについた。

第四十二章へ

error: