吐きそうな静穏
自動ドアを抜け、ビルを出て、空っぽに歩いた。何も考えず、眠りに虚脱する毬音をずりおとさないのに神経をそそぎ、意識的に放心して歩行した。
知覚が飛んでいた。脳は乾き、心はうがたれ、思考は光暈していた。機械じみた無表情で歩き、せめて環状線を渡って陽桜地区に踏みこんだ途端、そばにあった段差にへたりこんでしまった。
軆が震えていた。喉に穴が空いたようにずきずきし、わけも分からず泣き出しそうだった。痛かった。いろんな意味で。めちゃくちゃだ。最低だったのは分かっている。でもああやって虚勢を張っておかないと、負けて圧倒されそうだった。でも、そうなるわけにはいかない自尊心が必要以上に昂ぶり、無恥に達してしまった。僕は毬音を抱きしめ、彼女より子供みたいに息をひくつかせる。
僕はずっと、この街のイカれた暴風の中にいた。あんなに正常で、穏やかな空気はあまりに耐えがたいのだ。嵐の中で釣り合いを取ることを覚えた僕は、水平だとかえってめまいがする。
光樹の気持ちが分かる。拓音は光樹は学校で好き勝手やっているように見えていたと言った。光樹もこんな気持ちで、恥知らずに徹していたのだ。この街に来てやっと恐怖が消えた。あんなに涙にかたくなだった光樹が、僕の前では涙を許したのも当然だ。
僕も泣きたかった。いたたまれなさがこんなに怖くて、脊髄を圧迫するなんて──僕はバカ正直なほど、属さない場所とは合わないのだ。
弓弦も悪いと思う。お節介なのは、嫌味でなく事実だ。彼は僕の嫌悪を解し、僕とはさしさわりない距離を保っていた。毬音の保護はともかく、豹さんの許可はあるとはいえ僕を試すなんて、何だというのだ。あいつは僕の毬音への愛情を測る立場じゃない。僕と毬音の関係において、あいつは何様でもない。夏乃がこうしたほうが正当なぐらいだ。あいつは他人の家庭に土足で踏みこんだ。弓弦の冷徹さは知っている。ならば、幼い頃の私情で冷静さが狂ったとしか思えない。残酷だったけど、言ってやってよかったとは思う。僕は弓弦と私生活まで関わるなんてごめんだ。
豹さんへの信頼もぐらついた。これがある程度の覚悟を決壊させ、僕を無感覚にさせた。豹さんなら分かってくれると思った。別に、分かるとか分からないとかの問題ではないと。
豹さんとしては、毬音を受け入れる切っかけが欲しかったのかもしれない。豹さんは、僕が毬音を愛していないので、どうも毬音を疎ましく感じるのだ。僕が少しでも愛していると分かれば、そこを糸口に自分も毬音の存在を理解できる。こじつけかもしれなくも、そう一理が立つのならそう思っておこう。ならば豹さんは、いつも通り僕を想ってくれていたとなる。僕はなるべく豹さんを信じていたかった。
僕の胸に頬をあて、毬音はやすらかな寝息で眠っている。あそこでは寝たふりではないかとも踏んでいたが、本当に眠っているようだ。洗いたての柔らかな匂いがする髪は、そろそろ切ってやらないと鬱陶しい。しかし、どこで洗ったのだろう。やはり弓弦の部屋に持っていかれたのか。
引きずるときは薄っぺらく軽いのに、こう膝に乗せて抱いていると重い。高い体温を現す首筋の肌を見つめ、僕の細胞があってできてる肌なんだよな、と漠然と思う。変な感じだ。心はまったく通じていないのに、軆は通じている。軆を切断できないのなら、心を接続させてやるのが愛なのだろうが──息をつくと毬音を膝からおろし、背中におぶりなおすと立ち上がった。
南東あたりはともかく、中央地区を毬音の重みで早足を抜けられないのは歯がゆかった。子連れだなんて、当時の知り合いに見られたらどんな顔をされるか分からない。しかし、こそこそしていたら逆に目を引くかと顔は上げ、街並みになじんで地味でいるのを努めた。それでも子供をおぶって歩くなんてこの街では実に異様で、結局裏道に逃げこんだ。
細くて暗く、湿っぽく肌寒いここは何があるか知れない。事に励むふたりがいようが、昏倒する人間の残骸があろうが、毅然と黙殺を決めこんで進む。散らかるゴミも、血がついた避妊具だの針先の折れた注射器だのといかがわしい。這いずる死体に足をつかまれそうになっても、こういうのを避けるコツは子供の頃に身につけている。やがていつもの縄張りに着くと、きらびやかな表通りに戻った。
陰気な道を黙々と抜けているうち、空には朝の気配がただよっていた。頬を撫でる風はだいぶ冷えこんでいる。夜明けが遅くなったな、と夏はこの頃には明るくなりはじめ、ネオンや喧騒がかすれていたのを思い出す。今のところ、灰になろうと振り絞る狂騒がまだ広がっている。
苔生してみすぼらしい暗闇で抱きあっていたのは、だいたい淫売と客のようだった。こもった喘ぎ声が耳に残り、僕は苦い気持ちで珠生を思い出す。珠生もあんな声を上げ、あの行きずりの男にしがみついたのだろう。あれ以来逢ってないな、と毬音を背負いなおしていると、僕はゆくりなく珠生に遭遇した。
何となく視線を感じて顔をあげた。そこには珠生が目を開いてたたずんでいた。僕も足を止め、何驚いてんだ、と思い、すぐこの背中に乗っけているもののせいかと察する。
珠生は僕に気づかれたのに気づくと、気まずく視線をさげ、そばの店の明かりに映る真紅の唇をきゅっと縛った。そして、顔をそむけて向こうへと歩き出す。あの立ちんぼが後ろめたいのなら無視しようと思ったが、単に相変わらず僕の平手がきいているようだ。
僕は黄色いチラシを踏む足元を向くと、珠生が人混みに紛れる前に再度顔をあげた。
「珠生っ」
珠生は足を止めた。だが無視か、空耳と思い直したのかすぐに歩き出す。
「珠生っ!」
今度は振り返り、僕は人混みを縫ってそちらに駆け寄った。こちらにそそがれる珠生の瞳は水底のように暗く、傷んでいる。僕は道端の彼の正面にたどりつくと、同じ店先の光に包まれて彼と顔を合わせた。
「久しぶりだね」
「……そうか?」
「一週間見なかった」
「……そっか」
「元気ないね」
「病気うつされたかな」
珠生は自嘲気味に嗤い、僕は無表情にそれを見つめる。彼にそれほど似合わない咲い方もない──そう思ったのだが、今の珠生にはそれしか残されていない感じがした。
彼はここに来て、どんどん弱ってきている気がする。突然再会したときには、幾許か昔の影も垣間見れた。それとも、僕の彼への印象が風化して視界が変わっているのだろうか。
「それ、人形?」
「ん」
「後ろの」
「人間だよ」
「お前、子供とか嫌いそうだけど」
「嫌いだよ」
「なのにベビーシッター」
「これ、僕の子供だよ」
珠生はほつれた前髪がかかる瞳を驚きに生き返らせた。「子供」と雨音のようにかすんでいた声も色を取り戻し、けれど頬や鎖骨はもろげにやつれている。
「いたのか」
「知らなかった?」
「知らない。恋人がいるとは聞いた」
「恋人じゃないよ。ま、こいつの母親と腐れ縁はあってもね」
「いくつ」
「四歳。十五のときの子。毬音っていうんだ」
「マリネ」
「女がつけたんだ」
「……蛍華さんは知らないよな」
「そりゃね」
「豹って奴は」
「知ってるよ。嫌いみたい」
珠生は僕の肩に顔を伏せる毬音の頭を見て、曖昧にうなずいた。納得する感じで、「何で」と僕は寝息を耳元に響かせる毬音をおぶりなおす。腕が疲れに痺れ、気を抜くと取り落としそうだ。
「え」
「豹さんが毬音を嫌うの、そんなにうなずける?」
「……そりゃ、あいつはお前には自分だけを見ててほしいだろうし。成長させずに手元に取っときたいだろうし」
珠生はまだ僕と豹さんは怪しい仲にあると思いこんでいるらしい。まあ豹さんは僕をかわいがっていたし、僕も蛍華さんがああなぶん豹さんに甘えていたが──
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