青氷の祠-44

もういらない

「そっか」と珠生は雑音に押される声に戻り、瞳もふっと空虚に沈ませる。
「子持ちか。ほんとお前は、俺が知ってた頃の碧織じゃないな」
「お前のおかげでいっちゃったんだよ」
「俺も変わったよな」
「そうだね」
「………、変わってないよ。俺は昔からこうだった。あんなの、全部皮かぶってたんだ」
 明かりに目を細めて珠生を見つめた。珠生はうなだれ、伸びた髪の毛先や長い睫毛を失調気味に揺らす。髭とかはないな、とふと気づいた。僕も少ないほうで、週に一度処理する程度だ。いつもは光をしなやかにすべらせる髪も、今日はくすんでまとまりがなかった。
「俺、ほんとに元のところに行ってないんだ」
「……うん」
「あそこに行けば、また重たい皮着て、いろいろ満たされてるようにしなきゃいけない」
「満たされてなかったの」
「なかったよ。あの頃は満たされてると思いこもうとして、余計あんなだった。でも、俺は空っぽだった」
 僕は無言で瞳も冷やしている。見なくても僕の無関心を感知したのか、「ごめん」と珠生は小さく詫びた。
「この街に来たら、何かあるかなと思った。ますます底が抜けてくばっかだな」
「お前、どっかに部屋借りてないのか」
「そんな金ないよ。連れこみに連れてってくれる男と逢えなかったときは、そのへんで」
「悪戯されないのか」
「されるに決まってんじゃん。まわされもしたよ」
「………、何できちんとした店に行かないんだ」
「行ったって雇ってもらえないよ」
「もらえるよ」
「昔の俺だったらな。ほんとの売春は容姿だけじゃダメだ。それぐらい俺も知ってる。俺は悪戯されるみたいに、容姿だけで測られる立ちんぼしかできないんだ」
 記憶の中の珠生がどうも胡乱を誘発しても、それを押しのけるほど実際珠生の雰囲気はみじめだった。今、こいつは嘘はついていない。僕も淫売なのでそれは分かる。それが客観的事実かどうかはともかく、珠生が自分をそう思いこんでいるのは確かだ。昔、自分は神だと思いこんでいたみたいに、今、珠生は自分をクズだと思いこんでいる。
「お前はさ、客の欲しいものとか透視して奉仕するんだろ」
「ん、まあね」
「俺は客の心を読んだりしなかった。客を強引に従わせてただけ。客を良くさせたことなんか一度もない。良くさせてるって錯覚させてた。俺は淫売じゃなくて詐欺師だったんだ」
 髪を揺らした風に僕の香水が舞う。そういえば豹さんも、希水に焦る僕を戒めるとき、珠生の仕事は外面的だと言っていた。
「……目が覚めた男にそう言われたんだけどな」
 僕は無言で毬音をおぶりなおした。珠生はまた謝った。そして睫毛を伏せて息をつくと、靴底を引きずって右足を引いた。
「何か用あったのか」
「え」
「呼び止めて」
「こいつのこと説明しておこうかなと」
「女の子だよな」
「うん」
「かわいい?」
「どういう意味。顔が」
「お前が」
「………、僕は蛍華さんにそっくりだよ」
 珠生は視線をおろし、「そっか」とフラスコが割れる地面につぶやいた。かすかずつ散っていく雑音が沈黙に流れ、毬音の息遣いが寝息ではなくなっているのに気づいた。
 頬には淡い橙々の電燈が当たり、額には蒼い空気が触れている。珠生にはあの臭いがするけど、強烈すぎて慣れたのか、僕は今、珠生といてもそう不快ではない。あるいは、あんなところに行った直後で麻痺しているのか。
 珠生と話し、むしゃくしゃと燻ぶっていた気分が紛れていた。毬音を説明したかったというより、僕はこの際、珠生でもいいので気を取りなしたかったのだろう。「じゃあ」と珠生は前触れなくさらに一歩引き、僕は何も考えずにうなずく。
「殺さない程度にな」
 珠生は精一杯色艶のある言葉を引き攣った笑みと残すと、急いで部屋に帰ろうとする人間と、間に合うのをあきらめて緩慢になっている人間のあいだに消えていった。
 僕は息をつぐんでたたずみ、水たまりみたいな小さな息をつくと歩き出した。
「……あの人、誰?」
 冷えた空気にわずかに頭痛を感じ、蒼ざめていく景色を瞳孔に映して無造作に人をよけていると、何気なく毬音の声がうなじに聞こえた。僕は少し首を背中に捻じ曲げると、「弟だよ」と言う。
「弟」
「血はつながってないけど。育てた母親はおんなじなんだ」
「……ふうん」
 毬音は身動きして僕の背中にしがみついた。虚脱状態でなくなり、気持ち腕が軽くなったものの、重いのは重い。しきりにかかえなおすので、「降りようか」と毬音は言ったが僕は無視した。毬音は僕の首に腕をまわす。
「綺麗な人だね」
「タイプ?」
「別に」
「あいつは男が好きなんでダメだよ」
「パパみたいね」
「あいつはほんとに男が好きなんだ。何つうか、趣味じゃなくてね。僕は趣味だよ」
「変な趣味」
「お前も男に抱かれるようになれば分かるさ」
 毬音は僕のうなじに顔をあてた。振動のたび、毬音の長い髪が手首にくすぐったい。肩に光があたってかえりみると、隙間が目立ちはじめた人通りに淡い朝陽がさしこんでいた。
「毬音」
「ん」
「お前、弓弦に僕に殴られてるってしゃべったのか」
「水鳥に殴られてるのかって訊かれて、うなずいただけだよ」
 考えれば、話すも何も毬音は痣だらけだった。
「どうして」
「あいつにしかられたよ。子供に暴力は振るっちゃいけません」
「お節介だね」
 僕は笑い、毬音は首をかたむけて僕を窺う。
「怒ってない?」
「別に」
「いまさらパパが優しくなるのも怖い」
「ほんとに? あいつ、お前を引き取ってもよさそうだったよ。引き取らないまでも、安全なとこに保護する気はありそうだった。そっちがいいなら行ってもいいよ」
「………、」
「お前の人生だし。僕でも弓弦でもなくて、お前が決めなきゃいけないんだ」
「パパは行ってほしい?」
「一緒に暮らすのが嫌ってのはないよ。つっても、お前が出ていきたければ、すがりはしないさ」
 毬音は僕の左肩に乗り出させていた頭を引き、僕のうなじに寄せかせた。
「僕はお前を部屋に持って帰ろうと思った。弓弦の善意に乗っかってもよかったのに、そもそもあんな遥か彼方になんか行きたくなかったのに。弓弦に唾を吐きたいのもあったか」
「吐いたの」
「言葉でね。あいつを敵にまわすとやばいんだけど」
「パパは弓弦くんが嫌いなんだね」
「お前好き?」
「分かんない。いい人だとは思う。ごはんくれたり、ホテルに泊めてくれたりした」
「手え出された?」
「されてないよ」
 こいつと弓弦が、僕と豹さんに近い関係になったらどうしよう。僕には関係ないか。弓弦の関心が毬音にかたむいても、僕には嫉妬したり焦慮したりする原料はない。
「弓弦くんには恋人いるんでしょ」
「続いてんの」
「見たよ」
「マジ。どんなだった」
「暗かった」
「暗い」
「弓弦くん以外の人は怖いみたい」
「弓弦にしか心を開けないとかなんだろ」
「お姫様だね」
「お前もな」
 毬音は黙りこみ、何やらため息をついた。朝陽と入れ違いにネオンは消え、引いていく物音に鳥の声が聞き取れるようになっている。通りは閑散とはしていなくても、熟睡に向かって活気を細くはしていた。「パパは迎えにくるかなと思ったの」と毬音は視線を僕の肩越しに地面に放る。
「うん」
「ママは来ないと思った」
「うん」
「迎えにきてもらえなければ、そのまま縁がなかったことにしようって」
「迎えにきてほしくなかった?」
「あたしが弓弦くんに、パパには連絡していいよって言ったの」
「………、」
「ママはもういらない」
 ビル街を抜け、夕町に入っていた。薄暗く陰っていたアパートが、無数のベランダに日の出を浴びている。冷たい空気の中で陽光に肌を温め、「新しい部屋いくつか検討してるよ」と言った。毬音はうなずいて僕の背中に抱きつき、僕はずりかけた彼女を背負い直した。
 結局、僕が頭の悪い捻くれ者か。まあもうどうでもいい。今、僕がしたいのは、とっとと部屋に到着してこのガキを降ろし、腕を休めることだ。「部屋帰ったらマッサージしろよな」と言うと、「踏みつけてね」と毬音は返し、僕は顰め面で舌打ちした。

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