青氷の祠-45

残念な語り草

 ベッドに仰向けになった僕にかぶさり、彼は僕の頬を手のひらで包む。瞳が瞳にそそぎ、僕がはにかむように咲うと、彼も微笑んで僕の頬を撫でた。僕は上半身剥き出しで、彼もそうだ。彼は僕と肌を重ね、「夢みたいだ」といつも通りにささやいた。
 四十過ぎのこの客は好きだけど、ちょっと苦手でもある。この人は昔、店にいた頃の僕も買っていた。僕が店を蒸発し、捜して捜して、ようやくここで淫売をしているのを突き止めた。
 再会したときはそれは顔が引き攣ったが、彼はそんな僕はおかまいなしに感動して抱きしめた。彼は過去を蒸し返すことはせず、今の僕のやり方で僕をかわいがってくれる。その実、彼は昔だって八割方こらえて僕に接していたという。彼は僕の軆がむさぼれるのを単純に喜び、僕も昔を知られているばつの悪さを消化させつつはある。
 夢みたい、と僕を抱いて彼はいつも言うが、あのどんなに金を積んでも口づけが相場だった天海を買っていた人間には、水鳥の手軽さは確かに夢みたいだろう。
 この彼は外からやってくる客でなく、この街に暮らす人間だ。美形ではなくも、歳のわりにはつぶれていない。西通りでゲイ専用本屋を経営している。ポルノや雑誌に限らず、同性愛についての一般書も並べているらしい。
 彼は中学生のとき、信頼する親友にゲイだと打ち明けたことから学校中に変態あつかいされ、両親には治療すれば治ると精神科に連れていかれた。かくして彼は高校卒業後、もはや住民総出で軽蔑してくる町を離れてここに行き着き、しばらく金を貯めるとゲイについて正しい知識を持てる場としてその本屋を開業した。
 僕は行ったことはないけれど、そこには喫茶店も併設していて、外から相談に来る人も多いという。そこまでプライドあるならきちんと恋愛したらいいのに、と思っても、彼は本屋を営む自信もゲイとしての自信もあやふやで売春宿にしけこむしかなかった頃、僕に出逢ってすっかり惚れこんでしまった。何か悪いなあ、という気持ちもあり、それも彼がちょっと苦手な理由のひとつになっている。
 そんなこんなで、彼とはごくごく正統に恋人同士みたいに愛しあう。彼は僕を大切にあつかい、僕は彼にたっぷり甘える。もろもろをさしひけば、彼は僕の大好きな客ではあるわけだ。
 頬や額を撫でていた彼は、そっと唇を重ねて、僕はぶあつい背中に手をまわす。僕は目を閉じ、舌が絡みあう響きを聴いた。彼は僕の軆を愛撫し、手を背中にまわすとぎゅっと抱きしめてくれる。こうすると僕の瞳が蕩けるので、彼は僕を抱きしめるのが好きだ。
 全身に口づけをくれて、その頃には常温の室内でふたりとも汗ばんできている。彼は僕の内腿に口をつけ、当時は拝めずじまいだった性器に頬擦りをする。僕は彼の凝りかたまった性器に口をつけ、彼が僕の唇に瞳を浮かせている隙にコンドームをかぶせた。そしてゴムの感触に気づかれないうちに体内に導くと、僕たちはしっくり結ばれるかたちになるまでシーツで戯れあう。
 僕が下になるかたちに落ち着くと、湿ったシーツの上で律動をかたちづくった。反った頭を揺すぶりに合わせて上下に揺らしていた僕は、荒くなった息を唇を噛んで抑え、代わりに喉でうめきをこぼしながら彼の首にきつくしがみつく。
 ベッドがかすかにきしみ、つけっぱなしの天井の明かりが薄目の視界にぶれた。首筋や耳たぶが奥からほてり、香水がふわりと立ちのぼって熱を高める。僕は焦れったい唸りをもらし、彼も深い咆哮に似た息遣いで僕を突き上げた。僕は目をつぶってそれをあまさず受け止める。動きが早く正確になり、彼が僕にもいってほしいのは知っているので、僕たちは共に絶頂に達した。
「このあいだ、よくうちに相談に来てた高校生の子に、告白されたんだ」
 全裸のまま、僕を抱きしめて髪を撫でてくれながら彼は言った。うっとりとその胸に頬を預けていた僕は、顔をあげてまばたきをする。彼は僕の頭に顎に乗せ、向こう側の窓を見ていた。
「僕と親しくなって、もっとゲイってことに誇りを持ちたいって」
「好きなの」
「嫌いじゃないが」
「つきあってみれば」
「僕は年寄りだ」
「すぐ飽きられそう?」
「……まあ。君は若いからって一度は断ったんだ。それでもいい、って」
「嫌なの」
「釣り合わないだろ」
「そんなこともないんじゃない。釣り合わないって見えるなら、そのぶん外面に囚われずに、内面的に好きってことだし」
 彼は僕を見た。「分かんないけど」と僕は照れ咲って彼の腕に身を丸める。彼は僕の髪を寝かしつけるみたいに優しく撫でている。僕は睫毛を狭めた。
「僕がいるの?」
「………、あの子は、僕が男娼を買ってるなんて知らない」
「僕との関係、打ち切ってもいいんじゃないかな。やっぱりあなたには、淫売を買うなんて似合わないよ」
「でも、水鳥が好きなんだ。プライベートでは応えてくれないだろう」
「……まあね」
「彼と、もしかしたらもあるかもしれない」
「うん」
「いいかな」
「僕が文句つけることじゃないよ。ふふ、捨てるのを断ってきた人なんて初めて」
「何も言わずに失せて、飽きられたとは思われたくなくて」
「うん。まあ、僕はここにいるよ。男娼辞めてたとしても、欲しいって言ってくれる人なら寝たっていいし。いつでもそばにいるよ」
 彼は僕を愛おしく見つめると、ぎゅっと抱きしめ、そんなのを言い出す時点でこれが最後なのだろうと、僕も汗をかく彼の軆に強く抱きついた。
 彼と別れた二十二時過ぎ、零時までゆとりのある僕は、いささかしんみりと〈neve〉に戻った。
 頼さんにたたきだされた次の日は入りにくかったが、ここの鉄則として誰も掘り返して揶揄ったりはしなかった。自分がたたきだされたとき、そうされたら嫌なのでしないのだ。頼さんも変わりなかったものの、やっぱり僕は笑みをぎこちなくさせてしまった。あれから三日は経ち、さすがに僕も気にせず店内へと入れる。
「あ、碧織」
 冷たくなってきた風を逃れ、自動ドアを抜けた途端、そんな声が届いて顔をあげた。すると、手前から三番めの四人がけのテーブルに、光樹だけでなくファントムリムの面々が揃っていた。僕は一瞬しばたいても、「どうしたの」と笑みになって駆け寄る。
「今月なかなか来ないんで心配してた」
「はは、みんなと予定合うの待ってたんだ」
「ん、何かあんの」
「別に。碧織がみんなで来たらって拓音に誘ったんでしょ」
 光樹の正面の席にいる拓音がピアスを刺した目元でにっとして、「そっか」と僕は微笑む。光樹と拓音がカウンター側の席で、光樹の隣に美静、拓音の隣に七夏だ。本棚から取ってきたらしい雑誌を覗きこんでいたふたりは、いったん顔をあげて笑みをくれる。
「勝手に押しかけたけど、碧織、時間大丈夫?」
「うん。零時にここのそばの喫茶店で待ち合わせしてる」
 僕は隣のふたりがけのテーブルに腰かけ、頼さんに紅茶とホットドッグを注文した。「紅茶ホットか」と頼さんはこの季節なので確認を取り、僕はうなずく。
 十月もなかばに入り、店内にいる人は大半が長袖だった。麻痺するほどでなくも指先は冷えこみ、ここにも暖かい空気が保たれている。白いコーヒーカップに口をつけていた光樹は、「聞いたよ」と僕ににやりとした。
「ん、何を」
「来夢くんに突っかかって頼さんにたたきだされたの」
 僕はどさっと緞帳がおりたように仏頂面になり、「誰に」と無愛想に言う。
「誰ってわけでも。みんなが教えてくれた」
 残念ながら、本人がいないところで一週間ほど語り草にはされる。「いろいろと事情がね」と僕は来たお冷やを無造作に飲み、氷のきいた冷たさに眉を顰める。
「来夢くん、何で突っかかられたのかは話さなかったって」
「僕が悪かったんだよ」
「あれ、認めてるの」
「僕が頭悪くて何にも分かってなかったんだ。ははは。おもしろいね」
「怒らないでよ」
「怒ってないよ」
 しかし、不機嫌だった。あれが自分が全面的に間抜けだったと分かっているぶん、認めて開き直るには妙な自尊心が角ばる。「仲違い」と七夏が赤いメッシュを揺らして光樹に笑い、むくれた光樹は席を立って僕を覗きこむ。
「そんなに嫌なことだったの」
「思い出したくはない」
「そうなの。ごめん」
 僕はわざと疑る色で光樹に上目をする。光樹は泣きそうに反省していて、「怒ってないよ」と僕は噴き出しかけて言った。
「頼さんにたたきだされるのは、ここでは不名誉なことなんだ」
「そうなの」
「そうだよ。ださいの」
「恥ずかしい?」
「うん。ここんとこごたごた多くてね、光樹に会いたいとは思ってた」
「そっか。ごめん、ひとりでも来てたらよかったね」
 首を振り、「光樹が来れるときでいいよ」という。光樹は咲い、「ほんとに会いたいときは遠慮するなよ」と僕の引けめをやわらげると、三人に断って香りをひくコーヒーと僕の正面に移った。
「店に入ってきたとき、何か哀しそうだったね」
「ん、ああ。あれはね──」
 僕はさっきの客のことを話し、「いろんなお客さんがいるんだねえ」と光樹もしみじみと言った。確かに、と僕はやってきた甘い湯気を立てる紅茶にスティックシュガーを落とし、金のスプーンでかきまぜる。
 淫売の客は飢えた男、という感じだが、僕の客はそうでもない。恋愛みたいに、僕が好きだからと買ってくれる。飢えた客は低級淫売に行く。心はおろか、軆にも構わず、突っこむ穴があればいいと──珠生がよぎって、渋い思いで紅茶に口をつける。

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