回想【10】
僕が豹さんを裏切ったのは、十四の夏だった。七月の末で、毎日寝がけを蝉しぐれが邪魔していた。数日前に言われた、珠生の言葉が頭に垂れこめていた。
進歩しないということは、才能がないということ──
男娼になって二年半が過ぎていた。初期の客と現在の客、比較しても何も変化はない。僕の仕事は、横断歩道どころか歩道橋だ。車、すなわち危険と接触すらしない。危険は遠くに眺めるだけだ。どう考えても、ある程度の危険はひらりとかわせる経験は積んだのに、安全に丁重にガキあつかいされている。
客に抱かれたかった。肌を感じ、棹に顔をうずめ、乱暴につらぬかれたかった。荒々しい愛情に目を剥き、揺すぶりにしがみつき、共にのぼりつめたかった。撫でて舐めて服越しの密着なんて、いい加減うんざりだ。飽きたし、つまらないし、僕はそんな生易しい仕事で才能を生殺しにしたくない。
一度、客に深い仲になるのを誘ったことがある。信頼のおける客だった。彼には、僕と深くなるのを頭ごなしに拒絶する根強いこだわりもない。なれるものなら深くなりたいのが分かった。
冷房のきいた密室にはふたりきりだ。彼は僕をベッドで抱きしめていた。僕は成長期に入って骨が痛む軆を身じろがせ、彼と顔を合わせた。
「あのね」
「ん」
「触ってもいいよ」
「え」
「服脱いで、肌とか、もっと、下も」
彼は僕の髪を撫でながらぽかんとして、「ダメだよ」と真に受けていないように咲った。
「そこまではらってない」
「はらわなくていい」
僕の即答に彼は喜ぶより困惑し、「どうしたんだ」と僕の頬骨に親指を這わせる。
「お金はいらない。誰にも言わない。代わりにあなたも誰にも言わないでね。だから触ってもいいよ。……していいよ」
彼は僕をじっと見つめた。頬を染めて睫毛を伏せていた僕は、心を決めるとまっすぐ見返して、彼に口づけようとした。が、彼はとっさに身を引いて僕の唇をよける。
「あ……、」
「だ、ダメだ」
「どうして」
「それは、僕だってできるものならしたくても」
「していいよ。お金はほんとにいらない」
「金じゃない」
「じゃあ──」
「君は銀のピアスをしてる」
僕は右耳を感じた。銀のピアス。刺している。豹さんがくれた、僕を危険から遠ざけるお守り──
「ばれないわけがない」
「僕たちが黙ってれば、」
「そんな簡単なものじゃない」
「………、」
「僕はこれでいい。深く味わって一度で君を失くすより」
彼は僕を腕の中に戻した。僕はぐったりと肩を落としていた。
「ごめん」
僕は彼に上目をし、のろくかぶりを振ると彼に抱きつきかえした。
右耳がずきずきとしていた。これのせいなのか。これが僕を危険から遠ざけているのか。このピアスが、成長期の軆のようにきしんでは骨格を広げる痛みを妨げている。淫売としての僕を、発育不良にしている。ならば、このピアスをはずせば、豹さんの元を逃れれば、一流への軌道に乗れるのだろうか。
売春の訓練は逸品のものを受けたし、浅いやりとりとはいえ経験も摘んだ。豹さんの名前がなくても、僕はひとりでやっていけるのではないか。自由に成長したい。珠生や蛍華さんを追い越し、見返してやれる一流の淫売になりたい。
柵なんか立てられなければ、僕の才能はいっぱいに広がっていける。この銀色のしがらみさえなければ、絶品の淫売も珠生の打破も、あらゆる理想を現実のものにできる。
その夜、僕は洗面所の鏡で右耳のピアスを見ていた。白い肌が鮮明だ。銀のピアスをもらったときの有頂天の幸福を思い出した。今それを感じようとしても、嗤笑するしかない虚脱した哀しさしか流れてこない。何であのままでいられなかったんだろう、と豹さんの愛情を逃げ出したがっている自分に泣きそうになる。
豹さんが嫌いになったわけではない。それでも、豹さんの心配や愛情が重たくなりつつあった。豹さんが僕を閉塞させているのだ。危険なことをさせたくないと、僕をかわいがってくれているのは分かる。ありがたいと思うし、できれば応えてこの仕事に甘んじていたいとも思う。
でも、限界だ。僕はもっとまともに客と接したい。珠生にバカにされない仕事をしたい。誇りを持って満足したい。僕はもっと僕を試し、立派な淫売として向こう傷を受けたい。
翌日は休みだったので、僕は光樹に電話をした。光樹がすっかり昼夜正常になったので、夜に生きる僕は彼と時間を合わせにくくなり、僕たちは何ヵ月も会っていなかった。二週間に一度ぐらい、電話のやりとりはしている。光樹は中学三年生になっていて、やっと気の合う友人を数人見つけられたらしい。
久しぶりに明るい光樹の声に、僕は微笑みながらも彼を遠く感じて涙をこぼしそうになった。「碧織はどうなの」と光樹は訊いてきて、僕は本当は彼にぐらいさよならを言おうと電話をかけたのを思い出したけど、「何にもないよ」と声にならない本音に嘘しか言えず、当たり障りない話のまま、電話を切ってしまった。
再び洗面所に立っていた。電燈に光るピアスに触れる。しんと冷たい銀の雫は、僕の指先の熱を受けるとすぐその熱に染まった。僕の瞳は、ごく客観的に僕を憐れんでいる。大切な人を裏切ろうとしている僕を。
躊躇いがピアスに触れたまま動作を停止させる。だが、明日にもあの単調な淫売が待っている。このままでは、乾からびて引退するまで客につらぬいてもらえない。客を取れなくなったが最後、華やかに愛された珠生には生涯蔑まれる──僕はぎゅっと唇を噛みしめると、あいつなんか蹴落としてやるんだ、と思い切って銀のピアスをはずした。
荷物をまとめ、以降その部屋には帰らなかった。もちろん出勤もしなかった。しばらくは誰かが動いてくるかと警戒し、身をひそめていた。初めは別の店に移ればいいと思っていたが、あれだけ僕を徹底して保護していた豹さんだから、陽桜すべての売春宿に僕が来たら連絡するようお触れを出していそうでもある。
豹さんには見つかりたくなかった。自立したいのも、すでに合わせる顔がないのもあった。二週間ほど息を殺したあと、ストリートで上位になるしかない、と決意を固めた僕は、陰った道端に初めて立った。
なぜ道端で客引きをして一流になれると信じこんだのか、現在の僕には謎だ。僕はきちんと、立ちんぼなんてけして這いあがれない泥沼淫売だと知っていたはずなのだ。ぬくぬくした高級宿で知識がにぶっていたのか。単に淫乱につらぬかれたかったのか。軆を開き、淫売失格という珠生に与えられた汚名をたたきかえしたかったのか。いや、僕は客に抱いてもらえないあまり、抱かれさえすれば一流になれると短絡的になっていたのだ。
初めて道端で取れた客がいくらかまともだったのが、現実を悟らせるのを妨害した。僕たちは路地裏の奥深くで抱きあった。彼の口づけは強くて息苦しかったけど、それこそが僕の求める荒々しさだった。ひんやりした空気に唾液のねばついた音を響かせ、僕は彼の首に腕をまわして夢中で応えた。
僕の腰に、ジーンズの中でくっきりふくらんだ彼の性器が当たる。僕はホモみたいにそのふくらみに興奮し、腰をこすりつけかえして彼のかたちをもっと鮮やかにした。そして心置きなくそこに手をすべらせ、指でかたちを確かめられるのにどきどきした。
彼は僕のTシャツをめくりあげると、鎖骨に咬みついて乳首を舐めまわした。僕は息遣いを震わせながら彼の頭を抱き、喉を剥いて天に定まらない視線を泳がせた。舌のざらつきが肌を這いまわり、折ってしまいそうに腰を強く抱かれている。苔の生えた壁に背中を押し当て、僕はここがみじめな路地裏なのも忘れて格別の陶酔に浸っていた。
【第五十章へ】
