傷を吐き捨てること
夏乃がいたら面倒だなと危懼したが、さいわい、それはなかった。ちなみに珠生は僕の帰宅を見かけてここを知ったそうだ。真実かは分からない。でも、珠生が僕を尾行する理由も思いあたらない。
珠生は玄関に置いて先に部屋にあがった。カーテンがひかれて暖房がかかったリビングで、毬音は腹這いになって絵を描いていた。珠生を連れてきたのを言うと、彼女は表情にたっぷりと嫌悪を含む。
「『今度』って言ってたじゃん」
「いきなりすぎるよ」
「お前が嫌なら帰すよ。でも、そうしたら次は自分で珠生を捜しにいくんだな」
「……パパはどうしたほうがいいと思うの」
「知るかよ。こないだも言ったけど、性的なショックは大人になったときにきついよ」
「男とつきあうか分かんないよ」
「お前、自分でまともな家庭持って、こんな家庭コケにしたいとか思ってんじゃないのか」
毬音は僕に似た瞳をすねさせ、赤いクレヨンを人のかたちの喉ににじりつける。
「ま、お前の勝手だな。じゃあ帰ってもらうよ」
「パパもいるの?」
「ん」
「話すの、パパも見てるの?」
「邪魔ならシャワーでも浴びてるよ」
毬音は起き上がり、肩に流れた髪をはらってスケッチブックをたたんだ。いい度胸だ。一対一を選択するとは。
かくして僕は、珠生を部屋に通すと、着替えを連れてバスルームに退散した。僕が消えるのに珠生は不安げにしたが、「お姫様の命令なんだ」と僕は請け合わずに板張りのドアを閉める。服を脱ぐとひやりとしたタイルに踏みこみ、取りあげたシャワーヘッドを空の浴槽に向けた。
湯気がのぼるのを待つあいだ、黒い白鳥に目をとめて瞳を傷ませた。心音が深くひそみ、窓に差す朝陽にきらめくシャワーに視線を投げかける。
わがままなのだろうか。ちっとも会ってくれないのは、縛られるぐらい息が苦しい。でも、仲をこういうふうに追いこんだのは僕だし──
熱くなったシャワーを頭にかぶると、水音に圧迫された鼓膜にいじけた思索は切り捨てた。
リビングにゆとりを持たせようと、普段以上に髪や軆を泡立てた。念入りな入浴は出勤前でも、時間があればなるべく軆を綺麗にしておく。何せ、これが飯の種だ。バスルームをあがると、タオルに水滴をふくませ、服を着て髪も乾かした。香水を吹きつけて仕上げると、腹減ったな、と胃をさすって洗面所を出る。
リビングには、フローリングに所在なく座る毬音しかいなかった。「珠生は」と腕にさげる脱いだ服を放って訊くと、「帰ったよ」と彼女は膝にかかる髪をいじる。
「何で」
「話終わったもん」
「いつ」
「今。出てった音はしてないよ」
僕は廊下を覗き、玄関でうつむきがちにスニーカーに足をさしこむ珠生を見つけた。声をかけると彼はこちらを向き、僕は香水を引いて玄関に駆け寄る。
「挨拶もなし?」
「いや、待ってた」
「そ。帰るんだよね」
「帰る、というか。まあ」
「外まで送るよ」
「寒いよ」
「じゃ、上着取ってくる」
僕はリビングに上着を取りにいき、毬音に先に夕食を取っていいのを言い置くと、玄関に戻った。珠生は僕の行動に怪訝を浮かべている。「毬音との聞きたいんだ」と言うと、珠生はあやふやにうなずいてドアノブをおろし、僕はスニーカーを履いて続いた。
外は朝に目覚めて静まり返り、青空にも分厚くも白い雲がたなびいていた。ここのところ雨続きだったが、今日は晴天のようだ。それでも風はしんと冷えこみ、湯上がりの肌や水気を残す髪に針を刺す。珠生を包む黒いレインコートの裾もめくれ、変な臭いの中に僕の香水が香った。
「毬音、どうだった」
「え、いや──唾とか吐かれた」
僕は噴き出し、「あいつは好きなんだよね」と水分にまとまりのある自分の髪を指で梳く。
「僕もあいつには、ときどき唾を吐かれる」
「あの子、いくつだっけ」
「よっつ」
「何か、語彙が豊富だな。ホモとか、意味分かってんの」
「僕の仕事がこれだよ」
珠生は僕を見直し、「そっか」と納得して咲う。
「言いたいこと言わせろって、ほとんどあの子が一方的に俺を罵った。俺は黙って聞いてて、あれでよかったのか分かんないけど」
「反抗できるのを知っとくのは重要だよ。犯そうとした奴には、唾吐いても悪くないってね」
「そういうことあの子に教えてんの」
「何で」
「どんな教育してんだろって感じだったし」
「どんな教育もしてないよ」
珠生は足元に微笑んでうなずき、僕は目を細めて朝陽に睫毛を透かす。
「ホモって言われたの」
「ん、うん。『ホモのくせにあたしに手を出すな』って」
「………、僕も思うよ。何であいつに手を出した?」
珠生は笑みを止めてこちらを見、けれど僕と瞳がぶつかると後ろめたく長い睫毛をおろした。僕はドアに背中を預け、寒さもあって深くこまねく。
「だいたい、何しにここに来たわけ。ほんとに雨宿り」
「……そうだよ」
「雨宿りなら、今日逢った軒下でもできるじゃん」
風に前髪を揺らす珠生は反論せず、思いつめた肩で階段へと踏み出したがっている。静けさがまばたきも耳に障らせ、僕は光が当たるスニーカーに渋い目を落とした。
「僕に用があったのか」
珠生はわずかに顔を上げ、思いのほかはっきり首を横に振った。僕は彼の漆黒の髪に目線を上げる。
「じゃあ何」
「………、」
「僕の部屋が見たかったのか」
「……いや」
「女を見たかった」
「……別に」
「毬音に手出しにきたのか」
笑いを混ぜて投げやりに推測すると、珠生は押し黙って息もうずめた。僕は頬にもれていた笑いをさしとめ、視線の角度を変えて彼を見つめる。蒼ざめた頬が、こわばりすぎてかすかに震えていて、僕は信じがたさに生唾と息を飲みこんだ。
「手出しにきたのか」
「……お前はまだ帰ってこないだろうと思って」
「何で。お前、男が好きなんだろ」
「……うん」
「あいつ女だよ。しかもガキじゃないか。誰でもよかったのか」
「………、」
「だったら、客とやってりゃいいじゃん。タチしたかったとか」
「……別に」
「女がよかったのか」
珠生はかぶりを振った。
「子供がよかったのか」
珠生はかぶりを振った。
「───、僕の子供だからか」
珠生はかぶりを躊躇い、結局首を胸へと垂らした。汚れたスニーカーに迷う彼の視線に、僕は腕に指を食いこませて唇を噛む。僕の子供だから、手を出した。それはすなわち──。
とっさに罵倒もなく、ただ重たい吐息が溢れる。珠生がそれを予想したのなら、大はずれだ。毬音を傷つけても、僕に痛みは共鳴しない。それでも、幼い頃、彼に侮辱されたときの悔しさが胸に群がった。つまりこいつは、何も変わらずやっぱり僕を──
そのとき、見たくないものを眼前に突き出されたように顔を背けていた珠生が、緩くかぶりを振った。僕は「何だよ」と不機嫌にしゃがれた声を発する。
「違う」
「何が」
「お前の子供なのは関係ない」
「いいよ、言い訳なんか」
「ほんとに関係ない。あの子だから手を出したんだ」
「どういう意味」
「意味なんかないよ。ただ、あの子を犯そうと思った」
「僕の子供だからだろ」
「お前の子供じゃなくても、犯そうと思ってた。あの子を犯したいと思ったんだ。意味なんかない。こんなことに」
「………、」
「別に、好きになったとか、そんなんでもない。はけ口でもない。ぜんぜん、動機もない。ただ、あの子が欲しくなった」
僕は瞳を虚ろに冷やし、「むごいな」と毒づいた。珠生はうなずいた。心から首肯していた。僕はドアに力を抜くと、風の流れに瞳を任せる。
「何で」
「え」
「何でお前、わざわざドブに顔突っこんでんの」
「ドブ──」
「お前は僕とは違うだろ。店があるし、客がいるし、蛍華さんも待ってる。僕は愛なんか知らないんで、しょせん毬音を意味もなく殴るとかしかできない。お前はあいつを意味もなく犯すとか、そんなのやらなくてもすむようになれるのに」
「………、」
「お前には愛情くれる人がいっぱいいるだろ。なのに、何でいちいちクズの道をふらついてんだよ」
珠生は張りつめさせていた肩の力を抜き、だるそうなまぶたに揺るぐ眸子をおおった。「幸せだからこそ、余裕の好奇心?」と僕がとがった口調で訊くと、「そう見える?」と珠生は自嘲に陰った声を返す。
「男にもぎとられたなら、蛍華さんとこに行けばいいじゃないか。満たしてくれるよ」
「満たされてほしいのか」
「好きこのんで化膿してるお前が不可解なんだよ」
「好きこのんでるわけじゃない。俺は誰にも愛されてないよ」
「愛されてるよ」
「愛されてない。言っただろ、昔の俺は皮かぶってたって。皮を愛されたって虚しいだけだよ。深いとこの俺は誰も愛してくれない。彼がそうだった。皮の俺はすごく愛してくれた。中身は鬱陶しがって、受け入れてくれなかった」
「蛍華さんたちは──」
「蛍華さんたちだって、そうだよ。俺が戻ってきたって喜ばない。俺にはドブがお似合いなんだ」
焦れったい卑下にしか聞こえなかった。僕は蛍華さんが珠生を愛しているのを知っているし、彼に絶大な客がついていたのも知っている。明確な事実なのに、珠生は眼界をゆがませてでも自分の孤立を信じこんでいる。
男に本質を拒否され、自信を持つ勇気を掠奪されたのがそうもこたえたのか。それだけ珠生は、その男を初めは愛していたということなのか──。
「珠生」
「……ん」
「僕、愛は氷みたいなもんだと思うんだ」
「氷」
「僕はいつかは冷めるあったかい愛を売ってる。ほんとの愛は、たぶんもっと保存がむずかしい。氷みたいに」
「……氷なら、寒いとこに置いとけばいいじゃないか」
「うん。だから愛をあつかおうとすると、痛かったり傷ついたりするんだ。で、ついぬくぬくした孤独に逃げこむ」
「孤独は寒いよ」
「狂った心地よさがある。お前も愛されるのが怖いみたいだな。愛してくれるとこを逃げて」
珠生は口をつぐみ、僕は腕組みをほどく。
「僕は毬音に対して孤独を選んでる。あいつを愛するのが怖いんだ。やったって失敗しそうで」
「お前は、俺より愛を知ってるよ。光樹とか、豹って奴とかで」
「愛を知らない僕の愛はまずいって言ったくせに」
「負け惜しみだよ」
珠生の視線は、右手から朝陽が忍びこむ床に抑えられている。ささやかな風が頬をすべり、食いこんだ頭痛に眉を寄せる。
「僕は愛を知らないと思うな。豹さんと光樹は好きだよ。恋愛じゃない。僕は誰かを愛したことはない。お前は男を一時的にでも愛したんだろ。あんなガキをレイプしなくても、メイクラブの素質はあるんだ」
珠生はコートのナイロン生地を衣擦れさせ、僕に正視をはばかる細目を向けた。「励ましてんじゃないよ」と僕が脚に体重を戻してあごをそらすと、彼は弱く咲ってうなずく。
「お前が落ちぶれるのはお前の勝手だし。ただ、落ちぶれてくのなんかどうせ自然と加速してくんだ」
「うん」
「自分で腐っていくのはどうかと思って」
「うん」
「じゃあ、僕、腹減ってるし」
「……シチューありがと」
「話のついでだよ。男のこと──一応、気にしとけよな」
珠生がこくんとすると、僕は低迷していた表情を吹っ切ってきびすを返した。珠生は僕の背中を見つめ、僕は振り向かずに暖かいドアの中に入る。
鍵を締め、ドアにもたれて息をつくと、立ち去る足音が聞こえた。あいつも変わったが、僕もあいつに対して変わったものだ──そう苦笑し、スニーカーを脱いでリビングに戻る。
毬音はインスタントのうどんを食べていて、いずれにしろ材料がないのを知った僕は、シチューは明日にして、同じくインスタントのうどんを食べた。安っぽい味と匂いでも、空腹だと食えれば幸せだ。珠生にどんな雑言をたたきつけたのか、毬音に詳しいことは訊かなかった。「もやもや残ってないか」と尋ね、毬音がうなずいたので納得した。先に食べ終えた毬音は、着替えを抱えてシャワーを浴びにいった。
吐き出し、溜めこまずにいるのは大切だ。僕が蛍華さんにいくら殴られても現在傷ついていないのは、言い返したり睨みつけたりしていたからだ。従順に受けていると、やばいことになる。ゆえに僕は、毬音を無意味に殴りはしても、彼女に唾を吐かせる自由は与える。
満腹になるとあくびがもれ、時計を見ると針は七時過ぎに飛んでいた。休みでもないのにいろいろやっちゃったな、と筋肉が分解する感覚に居心地悪く身動ぎする。片づけが手軽だったのは都合がよかった。毬音が目をこすりながら帰ってくると、暖房とうどんのおかげで温かい体温があるうち、僕たちはふとんにもぐりこんで真っ暗な熟睡にさらわれた。
【第五十七章へ】
