青氷の祠-57

回想【12】

 僕は五月生まれだから、豹さんに悪夢から助けてもらったのは十五になる直前だったことになる。四月のなかばで、僕が失踪して実に九ヵ月が過ぎていた。豹さんが裏切った僕を忘れずにいてくれたのはいまだに不思議だし、そのぶん僕は豹さんに一生かけても返しきれない感謝を抱いている。
 僕は薬物中毒の末期だった。ヤクが体内をめぐっていないと、血がめぐっていないより非常事態だった。頭は錯乱し、心は腐爛し、小枝染みた手足は震えていた。舌や喉が痙攣にもつれ、しょっちゅう血や泡で咳きこんでしまう。剥かれた瞳はでたらめにぶれながらも、結晶のきらめきだけにはぎょろりと光った。
 薬が体内に入ったほうが冷静で、僕は間隔も何もなく立て続けに打ちまくった。薬がめぐっているときに急いで客を取る。切れたら商売にならなかった。薬でも打たないとやる気にならないというより、切れたら追加を探し求めることしかできなくなるのだ。僕は金を稼ぐためにヤクを打ち、ヤクを打つために金を稼いだ。
 薬が効いているときは、ほとんど客に犯されていたけど、たまに何もせずに路地裏に座りこんでいるときもあった。僕は老人のごとく骨が浮き彫りになった膝にあごをうずめ、壁の苔がうぞうぞとするのを見ていた。
 昔を想うこともあった。しかし、もはや後悔も感じなかった。もうどうでもいい。このまま死ぬ。どうだっていい。みんな僕なんか忘れている。このまま死んでちょうどいい──客は突然現れ、無言で僕を地面に押し倒してのしかかってくる。
 その日も僕は路地裏に座りこんでいた。やけに軆に力が入らなかった。さっき打った奴に混ぜ物があったか、バッドトリップになってしまったようだ。気分はよくても、反面、何やら臓物をまるごと嘔吐したくもある。膝に傷だらけの顔をうずめ、貧乏揺すりをすると背中に伸びた髪ががさがさいった。立ち上がって男漁りに出ないといけないのに、どうしてもこめた力が関節や筋肉を痺れされるだけで軆を素通りする。
 本当に素通りしているのかもしれない。幽霊となった僕の意思は、もう軆をすりぬける。そんな気もする。僕は今、死んでいる。いつのまに死んだのだろう。気づかなかった。死んだ。死んだのか。そっか──喉にしなびた笑いをもらしたとき、突如右腕を鷲掴まれた。
 反動でぐにゃりと首が反れ、僕はどうにかまぶたを押し上げた。混濁した視覚には見下ろしてくる影しか見取れなかった。よっつぐらいが重なっていて、「何」と僕は音節が溶けたろれつで言う。
「したいの」
「ああ」
「みんなと」
「俺に連れがいる?」
「三人、いるじゃん。そこに、ゆらゆらって」
 影は僕のかたわらに腰をかがめた。すると残りの三人も同じようにしゃがんだ。
「いくら」
「いくらでも」
「名前は」
「ないよ」
「じゃあ作れよ」
「ないってば」
「昔は何て名乗ってた」
「昔なんかないよっ。何だよ、やりたいんだろ。とっととやれよ」
「ここで?」
「ほかにどこがあるんだよ」
「外じゃ落ち着かないんだ」
「ふん、気取りやがって。じゃあもういいよ。動けないんだ。失せろ」
「ついてきてくれたら、これをやろうと思ったんだけど」
 影は目の前に銀色の包みをちらつかせた。その柔らかな光沢に僕は目を剥いた。コカインだ。飛びつこうとすると、影はひょいと包みを上にやった。僕は壁を這う蔦をたぐるように手をかかげる。けれど、爪が剥げた指が届きそうになると、影は立ちあがってさらに包みを遠ざけた。僕は唸り声をあげて地面を殴りつけ、影のごわごわした脚にすがりつく。
「お願い。ちょうだい。欲しいんだ。何でもする。何してもいいよ。お願い。させて。しゃぶってあげる。ね。だから」
 ジーンズの股間に手を伸ばすとすげなくはらわれ、「どうして」と取りついてよだれと涙をなする脚を揺すぶる。
「お願い。ください。欲しいんです。それくれたら殺してもいい。ねえお願いっ」
「俺についてきてよ」
「いくよ。どこ行くの。友達のとこ?」
「モーテル」
「分かった。行く。行こう。そしたらくれる? ライター持ってる? 注射は?」
「行った先にあるよ」
「そっ。じゃあ行こう。早く。絶対だよ。それ僕のだからね」
 彼は無言でつかんでいた僕の右腕を引き、僕は膝の関節が崩れたおぼつかない脚で立ち上がった。僕は彼の肩にぐったりともたれ、足を引きずってついていく。朦朧とする頭に、自分の乱れた息遣いと鼓膜でくねる雑音が響いていた。
 彼が包みをしまった尻ポケットに手を伸ばそうとすると、ぴしゃりとされてしまう。焦れったさに何とか甘ったるい声を作っても、彼は毅然と僕を引っ張っていった。
 僕は膝の震えにまともに歩けず、転びそうになると、彼は支えてはくれる。
「なあ」
「ん」
「その穴、何」
「え」
「耳たぶの」
「ん、あ、前ピアス刺してたんだ」
「ピアス」
「残ってる」
「少しね」
「そう。銀色のね、綺麗なのだった。そのアルミみたいに。落としてない? ちゃんと持ってる?」
「持ってるよ」
 僕はほっとして彼に寄りかかった。
 もうすぐコカインを嗅げる。いますぐむしゃぶりつきたいのが頭にぎっしりとして、鼻は煙を求めてひくついていた。あるいは静脈が疼く。
 気づくと、僕はモーテルの一室にいて、広いベッドに仰向けにされていた。
「……ヤクは」
 しわがれた声を出しても、返事はない。身を起こそうとしても、脱力が全身にのしかかってまるで動けない。明かりが眼球をつらぬくようにまぶしく、飢えた嗅覚がシーツの糊の臭いを嗅ぎ分けた。静けさに神経をかきむしられた僕は、焦れたうめきをもらし、ついでかすれた咆哮をあげた。
「どこだよ、どこ行ったんだクソ野郎っ。くれるって言ったじゃん、約束だろ。守ってよ。ちょうだい。どこ。切れちゃうよ。早くしてよ。ちょうだい。切れる前にやって、ちゃんとしゃぶるから、ねえっ。どこっ。嘘つき、何でだよっ。ちきしょう聞こえてんだろっ。早くっ。あれがなきゃ死んじゃうんだよっ。欲しいんだ、お願い、ねえ、頭が変になるんだ、お願い助けてよっ」
 甲高く叫んでも天井にはねかえるだけで、僕はからまわりの言葉をくりかえして泣きわめいた。手足をばたばたさせようとしてもシーツに食いこんで動かず、僕はかたちをなさない声をあげて泣きじゃくった。
 罵り倒してしゃくりあげ、なぜ自分が泣いているのか途中で分からなくなってきた。ただ胸が空っぽで、その虚空がたまらなく恐ろしかった。それを埋めたかった。白い粉で。知らないうちにうつぶせになっていた僕は、髪やまくらを涙や唾液や鼻水にべたつかせ、不意にかたわらに止まった足音を聞いた。
「てめえ、早くよこせっ──」
 がばっと起きあがって相手を睨みつけた僕は、はっと息を飲んだ。そこにいたのは、ジーンズを穿いた男ではなかった。きちんと品のいいスラックス、スーツを着た──豹さん、だった。
 豹さん。嘘だ。何で。そんなわけない。幻覚か。いや、もしかしてここは天国──
 とっさに混乱する僕を見つめ、豹さんは耐えがたそうな息をついて目を伏せた。僕は豹さんの鋭利な顎の線を見つめた。
 信じられない。夢に違いない。さもなくば幻だ。豹さんなんて、過去の人だ。僕のことなんか忘れている。目の前に現れるはずがない。
 あのジーンズの男は、すでにコカインを打っておいてくれたのだろうか。腕を見ても、それらしい新しい傷はないけれど──
 ふと頬に熱を帯びたものがすべりこみ、びくんと顔をあげた。
 豹さんが腰をかがめ、僕の頬にはりついた髪を剥がしていた。すぐ近くに豹さんの鋭い瞳がある。鋭いけど、僕を見つめるときはいつもぐっと優しくなる瞳が。
 でも、今日は優しくなかった。哀しく、つらそうだった。今にも壊れそうで、僕を見つめるのに死力を尽くしている。そこに映る僕の瞳は、驚きに穴が空いていた。
「碧織……」
「……豹さん?」
 僕の嗄れた声に豹さんは瞳をぎゅっと傷め、耐えかねて僕のぼろぼろの顔を自分の胸に伏せさせた。豹さんの匂いがした。煙草と、背広と、豹さん自身の、あの匂いだ。薬を嗅ぐしか能がないと思っていた嗅覚は、その匂いをはっきり覚えていた。
 豹さんだ。この匂いは豹さんだ。間違いない。覚えている。豹さんだ。この腕も、胸も、体温も──確信した途端、僕の瞳はわっと濡れ、その軆に強くしがみついて激しく泣き出していた。
 喉が穿たれるようにずきずきして、熱い雫に何も見えなくなった。息ができないぐらい哭す僕を、豹さんは黙ってしっかり抱きしめてくれた。やがて頭を撫で、背中をさすってくれた。僕は落ち着きかけても、また何かがせまってきて涙がぶりかえしてきた。
 そんなのを何度も続け、頬や呼吸がひりひりしてきた。それでも泣いて、長いこと幼く泣きじゃくっていた。豹さんは最後まで受け入れてくれた。びしょ濡れになった豹さんの胸に頬をあて、鼻をすすりあげる。豹さんは僕の頭を撫でる手をそっと止め、軆を離した。
 僕の頬の涙を豹さんは指でぬぐい、ついでベッドスタンドのティッシュボックスを取った。僕はされるままティッシュに涙を含ませ、豹さんの湿ったモスグリーンのネクタイを見つめていた。僕の浮き出た頬の線に触れると、豹さんの指はわずかに動きをひそめて傷つく。僕に洟をかませ、山盛りになったティッシュをゴミ箱にやると、豹さんはベッドサイドに腰かけた。
 しばらくは、僕も豹さんもうつむいていた。冷静になってみると、ここはモーテルでなくシティホテルのようだった。スイートルームではなさそうだが、情交より宿泊に重点を置いた造りになっている。
 アイスブルーの絨毯の上で、豹さんはきっちりした革靴を履いていた。僕は素足で、スニーカーは脇に脱がされている。
 喉の痛みや呼吸のひくつきがなくなると、豹さんの横顔を見た。豹さんは僕の視線には気づいたようでも、張りつめて視線をおろしている。
「……豹さん」
「ん」
「どうして、僕なんか」
「………、」
「僕、豹さんを裏切ったのに」
「……裏切らせたのは俺だ。そうだろう」
「でも」
「俺にはお前は“なんか”じゃない。裏切られてもな」
 豹さんは口をつぐんだ僕を向き、やっぱり見ていられないように瞳を苦しませた。「ずっと捜してた」と豹さんは僕の長い髪を撫で、僕は久しくされていなかった穏やかな愛撫にまた泣きそうになる。
「ここまで来ているとは思わなくて、裏通りの店ばかり捜してたんだ。どうしても見つからなくて、まさかと思って道端の淫売を洗ってみたら」
「……一流になりたくて」
「ああ」
「抱かれたかったんだ。抱かれたら、もう誰にもバカにされないって」
「……ああ」
「豹さんが嫌いになったわけじゃないよ。あの店になじもうって頑張ったんだ。けど──」
「いいんだ、分かってる。確かに俺が碧織を縛りすぎた」
「………、今は一流とか忘れてた。どうでもいいって。このまま死ねばいいって」
 豹さんは喉を震わす僕の頭を肩に抱きよせ、「悪かった」と抑えた声を絞り出した。僕はとまどって豹さんを見上げる。
「そんなに思いつめさせるとは思わなかったんだ。頭からよかれと思ってたわけでもない。厳しすぎるのは分かっていた。お前を危険な目に合わせたくなかったんだ。変なことも見せたくなかった」
「豹さん……」
「苦しめる気はなかったんだ。それは本当だ。ただ、そう思いすぎて、過保護だったな。俺が悪い。執着しすぎて、お前の成長の機会も摘み取った」
 僕は息を抑え、豹さんの肩に頬をすりよせた。細い指でスーツをつかむと、豹さんは僕を見下ろす。
「僕が豹さんを離れられるわけないのに」
「………、」
「豹さんがいないと、僕はこんなになっちゃうんだ」
「碧織……」
「ごめんなさい。自分にこんなに豹さんが必要だとは知らなくて。ほんとにごめんなさい。そばにいさせてください」
 豹さんは唇を噛み、強く僕を腕の中に抱きこんだ。僕は豹さんの胸に抱きついた。豹さんは何も言わなかった。けど、頭に当てられた頬や背骨を撫でる手が、何より僕の望みに応えてくれていた。

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