回想【14】
光樹も僕とおしゃべりにしにきたわけではない。豹さんが光樹を部屋に通したのは、自分の代わりに不安定な僕を介護してもらうためだ。もちろん会話も心の紛らしながら、光樹は全身の傷を消毒してくれたり、ベッドを降りるのを助けてくれたりした。ちなみに何も詮索しない家政婦が来るので、家事はしなくていい。
僕は家政婦とは顔を合わせなかったが、彼女は豹さんの注文で、僕のために栄養がありつつ重くない料理をこしらえてくれた。そのリゾットやスープを光樹は寝室に運んできて、僕はそれをそろそろと口にした。
吐きたくなっても、こらえたり、トイレまで我慢できるようになった。着替えも入浴もひとりでできる。フラッシュバックは来て、僕は突然わけが分からなくなって泣き出したりふとんにもぐったりした。
包容力は豹さんほどではなくも、代わりに光樹は、どんなに壊れた僕とも対等に向き合ってくれた。そうして自分を見捨てない人がいる確信が牽制になり、僕は自己の制御も取り返していった。
光樹には光樹の生活もあるので、さすがに二十四時間つきっきりではいられない。僕はずいぶんひとりで落ち着けるようになった。窓際で風にあたり、ネオンが灯って光の海となった街並みを見おろしたりする。
光樹が貸してくれた映画のビデオを観たり、音楽を聴いたりもした。薬が欲しくてたまらないことはなくなり、薬を断ち切りたいという意志が通用するようになってきた。豹さんと光樹のおかげだ。ふたりが僕が僕であることに執着してくれるから、僕は僕であることに執着できる。
たっぷり二ヵ月を経て、僕はふたり以外の人の前にも顔を出せる状態に落ちついた。
六月のなかばの小雨が続く夜、僕は豹さんと食卓で普通の食事をとっていた。ホワイトソースのかかったハンバーグで、立ちのぼる匂いに吐き気を催さないのにほっとする。これも例の家政婦が作ったものだが、彼女は調理師の資格があるとかで味は申しぶんない。こういうものを「おいしい」と飲みこめることにも、新鮮に喜びを感じた。
僕は髪を切って頬にふくらみを取り戻し、顔色に艶もあった。全身の傷や痣も引きつつあるものの、当面も行動範囲はこの部屋に限定している。このあいだ豹さんが部屋に闇医者を呼び、僕は徹底的に検査された。病気になっていて当然だと思ったが、奇跡的に僕の軆に命に関わるほどの影はなかった。ただし、まだ部屋で休んでいるようには言われた。「来月頃には散歩ぐらいできそうだな」と豹さんはハンバーグを口に運び、かりっとしたフライドポテトをかじる僕はうなずいた。
正直、僕は全回復が怖かった。そうなれば、この部屋とはお別れだ。新しく住む部屋は豹さんが用意してくれるだろうし、仕事の口も考えてくれるだろう。だが、豹さんの部屋に暮らせる格別の身分もおしまいだ。
無論、豹さんに養ってほしいとは思わない。あんな状態をここまで立ち直らせてくれた上、僕の面倒にかかる費用は惜しみなくはたいてくれた。これ以上、迷惑はかけたくない。回復すれば自分の足を頼りたいとは思っている。けれど、豹さんの特別な存在であるのを堪能できるこの状況も失くしたくなくて──わがままだと分かっているので、抑えこもうとしているのだけど。
食事のあとは、食器は自動炊事機に入り、僕と豹さんはリビングのソファに移った。ふっくらしたソファで、明かりのついた室内にはクーラーがかかっている。静かなもので、豹さんが僕の短くなった髪を梳く音も鼓膜に通った。
その日、豹さんは片づけなくてはならない仕事を持ち帰っていたが、出かける必要はなかった。指定された場所である必要がなければ、仕事はオフィスでやるのだけど、今は僕が部屋にいる。僕は煙草を吸う豹さんの肩にもたれ、その匂いを嗅ぎながら、あの頃のことを冷静に語れていた。
薬物、暴力、強姦──そのうちそんなのに落ちぶれた理由に話はさかのぼった。根本的に悪かったのは、豹さんの束縛ではなかった。僕の一流になりたい願望でもなかった。それらも僕を転落へと煽動はしたが、煽動をあおったのはやはり珠生だった。僕を焦らせ、落ちこませ、見境なくさせた。僕は豹さんに珠生に追いつめられているのは話していなかったが、例によって豹さんは僕が珠生に圧力をかけられているのは感じ取っていた。だが僕が助けを求めないので、出しゃばれなかったそうだ。
蓄積の爆発が客に銀のピアスに臆されたのを話すと、豹さんは僕が消えた知らせを受けて部屋に行き、洗面台に置き去りにされた銀のピアスに愕然としたのを語った。「ごめん」とその腕に顔を伏せると、豹さんは温かい指で僕の右の耳たぶに触れ、「もうふさがったな」と咲う。
「珠生って今でも一流なんだろうね」と彼にバカにされる要素を増やしたのに自嘲気味になると、豹さんは眉をひそめて口を閉ざした。「何?」と僕が首をかしげると、「光樹くんに聞いてないのか」と豹さんは僕の頭を撫でる。僕の珠生への嫌悪を解してか、彼には触れない光樹を思い返し、僕は曖昧にうなずく。
「うわさも耳にしてないか」
「ん、うん」
「そうか。珠生はもうこの街にいないんだ」
「えっ」
「男と駈け落ちした。碧織が消えた直後だ。半年以上前になる」
「駈け落ち」
「客の男とな」
「どんな男」
「平凡な男だ。あいつに入れこんで、わざわざ貧乏な暮らしをしていた」
「そんなのと駆け落ち」
「ああ。みんな珠生のことは忘れてる。蒸し返さないほうがいいぐらいだ」
「……そう、なんだ」
視線が正面のローテーブル越しの暗いテレビ画面に泳ぐ。唐突すぎて、受容どころか理解もできなかった。珠生が駈け落ち。しかも貧乏男と。あの超絶な名声を捨てて。もうこの街にはいない。
歓喜を制して、胡乱が湧きあがる。豹さんが僕を揶揄っているとは思わない。しかし、珠生がそうあっさりあの栄光を破棄するだろうか。そもそもあいつが誰かを愛するだろうか。「ほんとに駈け落ちなの?」と疑うと、「誘拐された見方も強かったな」と豹さんは煙草をふかす。
「豹さんは誘拐とは思わないの」
「珠生は逃げた先で男と仲良くやってる」
「……何で知ってんの」
「足をたどったんだ。店や客はつかめずにあきらめたけどな」
煙草の匂いの中、豹さんの肩にもたれた。「珠生が誰かを好きになるなんて信じられないよ」とつぶやくと、「そんなこともないさ」と豹さんは明かりからかばうように僕の頭を腕に抱く。
「あいつは愛に飢えてるからな。愛と名がつくものにはすぐ飛びつくんだ」
豹さんを見あげた。豹さんは微笑んで僕の頭をやすんじる。「僕は豹さんにもらえればいいよ」と僕がその慰撫に甘えると、「光樹くんにもな」と豹さんは煙草をつぶして咲った。
保護から三ヵ月後、失踪からほぼ一年後に僕はようやく外も歩けるようになった。取り留めもなく街を歩き、僕はこの時期に愛用する香水に出逢った。豹さんの部屋を出る日が近いと分かっていたので、あの部屋で嗅げる匂いに似た匂いを見つけようと思ったのだ。
ベッドの匂いに、少し花が入り混じったような匂いを見つけた。豹さんも気に入ってくれると、僕はこの匂いを精神安定剤にすることにした。その実、現在僕が豹さんと同じ煙草を吸うのも、この頃の匂いを忘れたくないからなのだ。香水が肌になじんできた頃、豹さんはとうとう僕の仕事について切り出した。
カレンダーは八月になろうとしていて、毎日体温をかきたてる蒸し暑い日が続いていた。クーラーをつけて眠れない僕は、昼下がりに目覚めるとまずシャワーを浴びる。
リビングにクーラーをかけてダイニングで朝食を食べていると、ここのところ帰宅していなかった豹さんがやや疲れた様子で帰ってきた。僕のすがたを見ると笑みになり、僕も咲う。僕が朝食を中断して淹れたコーヒーを受け取った豹さんは、椅子に腰かけてカップに口をつけた。「いそがしかったの」と訊くと豹さんはうなずき、「八月前には片づいたな」と僕の背後のリビングにかかるカレンダーを見やった。
「早いな。碧織をここに連れてきたのが四月のなかばだ」
「三ヵ月半だね」
「だいぶ良くなったな。戻るか心配だった」
「僕も。豹さんと光樹がいてくれたおかげだね」
はにかむ僕に豹さんは感慨をこめて微笑み、湯気と香りを立てるコーヒーをすする。
「そろそろ、俺や光樹くんの助けも必要ないかもな」
「え」
「まだ休んでおきたければいいんだが。ひとつ訊いておきたいんだ。いつかは自活に戻るだろう」
「ん、うん。まあ」
「じゃあ、仕事がいるしな。男娼に復帰するか」
「………、」
「それとも何か別の仕事がいいか。堅気になるか」
「堅気」とうつむきかけていた僕は、慮外に顔をあげる。
「そうしてもいい。裏の仕事じゃなくても」
「……無理だよ。分かんないもん。学校も行ってないし」
「学歴のことか」
「ていうか、僕、漢字とか知らないし。計算とかは勘定に必要なんで、自分でしてたけど。裏で生きてくのに必要な勉強しか身につけてないよ」
「身につけたければつけさせてもいい」
僕は首を振った。「そうか」と豹さんは無理強いはせず、「じゃあ裏では生きていくんだな」とカップを置く。僕はうなずいた。
「じゃあどうする。裏方になるか、売春とは離れるか。もちろん、男娼をしてもいい」
「あのお店で」
「まさか」と含み咲った豹さんに僕はまばたく。
「お前の好きなようにさせるさ。ほかの店を紹介しても、店に縛られるのが苦痛なら周旋屋をつけてもいい。安全を保障はしても、安全で束縛はしない。客に抱かれてもいい」
「いいの」
「碧織の仕事だ」
「そっか。じゃ、男娼やる。ぎりぎりまで続けたい」
つい張り切るように言って、「じゃあ来月には手筈を整えておこう」と勢いのまま豹さんに決定させてしまった。
まだここにいたい、と思ったものの、ここにいる限り、まだいたいと思い続けるだろう。回復しているし、本当はここにいる必要もない。豹さんに甘ったれていいほどみじめでもない。豹さんへの感謝は本物だから、その恩返しにも自立しないと。その気持ちで、僕はこの部屋に這いつくばっていたい想いを断ち切った。
一年も真っ当な売春をやっていなかった僕は、復帰にそなえて、あの低級生活で切り捨てた様々な技術を取り戻すことにした。頭の中に書きこむのもあれば、実際訓練して軆に思い出させるのもある。記憶も肉体もさっぱり忘れてはいなくて、集中して奪回すれば技術はほどなく僕に溶けこんだ。
八月の中旬、豹さんは僕を食事に連れ出した。来月の頭には、男娼として復帰することになっていた。てっきり豹さんが周旋してくれると思っていたのだが、その食事の場でそうではないのを知った。いつもはふたりがけのテーブルで食事をするのに、この日は四人がけのテーブルだった。何で、と首をかしげていると、その理由がテーブルにやってきた。
【第六十章へ】
