回想【15】
「弓弦」
こちらに歩いてくる人影に豹さんが声をかけ、僕は振り返った。弓弦は今思うと信じがたい服装をしていた。黒のスーツにきちんと革靴を合わせていたのだ。彼が好むTシャツにジーンズにスニーカーでは、踏みこめないレストランであったせいだろうが。それはそれで似合いはしていた。
かなり端正な顔立ちはこの頃からで、僕と変わらないぐらいに見えた。テーブルのかたわらに彼が立ち止まると、せっかくの料理の匂いを殺す外っぽい臭いがした。僕は彼に空目をし、彼も僕を見た。このときが僕たちは初対面だった。
「誰?」
豹さんに眉を寄せると、「俺の知り合いだ」と豹さんは彼を自分の隣にまわした。弓弦は豹さんの隣にあまり洗練されていない所作で腰かけ、涼しい店内のやや堅苦しい空気に窮屈そうにする。
「知り合い」
「ああ。顔を合わせておいたほうがいいと思ってな」
「誰が」
「お前が」
「誰と」
「彼と」
僕は斜め右の弓弦を見た。弓弦はひとまず笑みを作ったものの、僕は咲い返さずに豹さんに向き直った。
「何で」
「彼にお前を任せようと思うんだ」
「へ」
「来月には復帰するんだろう」
「ん、まあ」
「彼にお前を管理してもらおうと思う」
僕はまぶたを押しあげ、もう一度弓弦を見た。笑みを無視されたせいか、今度は弓弦はどんな表情をすべきか迷った顔をした。「何で」と豹さんに焦りの混じった目を戻す。
「豹さんがしてくれるんじゃないの」
「俺が管理しても、お前には不本意な客しか流れてこないだろう」
「でも、したいならしろって」
「俺の目に入らないところでしろ。目に入ると、やっぱり妙な客はさしとめたくなる」
僕は口をつぐみ、ひんやりとトマトが香るラタトゥイユに目を落とした。僕はこのとき初めて、豹さんは裏切りを怒っていて僕と距離をおきたいのでは、という邪推をした。「お前の安全は彼に保障させる」とウェイトレスが持ってきたメニューを豹さんは弓弦に渡す。
「若いし、経験もほとんどないが、俺の知り合いの中では信頼できるほうだ」
「いくつ」
豹さんは弓弦に目をやり、長い指でメニューを開きかけていた弓弦は、「十一月で十三」と声変わりするかしないかの声で答えた。
「ガキじゃん」
「お前は十一で働いてただろう」
「………、」
「周旋屋に管理されるのがどんな具合かは知ってるな」
「ん、まあ」
「俺の知り合いがやってる店に口はきいておいた。予約がないときは、そこに溜まっておけばいいだろう。初めはそこで自分でも客を取って、名前を売っていかないとな。予約の仕方を訊かれれば、彼のケータイの番号を言えばいい」
「……店、って」
「普通の喫茶店だ。西側に近いな」
「光樹と遊びにいったことある」と口の中で言い、僕はセロリをかぶったなすを口に入れた。冷たいトマトの味を噛み、何だかおいしいものをおいしいと思えない気分のまま飲みこむ。
豹さんの心配が僕に合わないのは事実だ。豹さんなりに僕の願望を想い、そんなガキに僕を任せようと言うのだろう。自分の元から手放して──うなだれる僕に、「気に入らないか」と豹さんはけして飽き飽きしたりはしない口調で話しかける。
「ん、ううん」
「嫌なら考え直しても」
「いいよ。大丈夫。分かった」
豹さんは瞳に懸念を混ぜたけれど、僕が笑みを作るので、食い下がらずにうなずいた。豹さんに迷惑をかけたくなかった。豹さんが考えてくれた最善なら従おう。
豹さんの元では自由になれないのは確かだし、仮に豹さんが僕に愛想を尽かしたのだとしてもしかるべきだ。つらいけど、これ以上豹さんにわがままはできない。弓弦に引き攣った笑みも向け、彼は作り咲いに鼻白みつつも一応咲い返した。
後日、僕は弓弦とふたりで話す機会を持った。豹さんの計らいだ。ひと通り、どんな具合で仕事をやるかは確かめあっておいたほうがいい。しかし僕は、数日前のレストランでの、わりあい弓弦をかわいがる豹さんにおもしろくない気持ちだった。こいつができたから僕は手放すのかなあ、と嫉妬が綯い混ざって被害妄想は深刻になった。弓弦は豹さんの部下の女と情を通じ、そのツテで豹さんと知り合ったらしい。「あんたは年季入ってるみたいだな」と弓弦は言い、「別に」と崩れ去りつつあるのかもしれない関係に、僕はずれた答えをした。
豹さんは僕の部屋も用意した。家賃は僕がはらうので、「そんなにかからないとこにしてね」と注文しておいた。それであてがわれたのが、現在の部屋だ。そこに暮らしはじめる前日、仕事に入る一週間前、あげたいものがあると豹さんに車で彩雪に連れ出された。
おもむいたのは雑居ビルの一角のタトゥーアトリエで、僕は心臓の上に白鳥の影法師をもらった。痛みがあるので飲み薬をもらい、ほかは特に何もせずに帰る。何でこんなのをくれたのか分からなくて、地下の駐車場で車に乗りこんだ僕は、隣の運転席の豹さんを見つめた。
「本当はお前に淫売なんかさせたくない」
エンジンをかけずにシートにもたれ、フロントガラスに視線を放る豹さんはそう言った。車内には豹さんの煙草の匂いと僕の香水の匂いが入り混じっている。地下三階のここは、電燈に広々としているのに閉塞的で、無数に車が並び続けていた。
「だが、お前がしたければ、俺に禁止する権利はない。だから、せめて深い仲になる客は堰き止めようとした。そうしたら、結局お前をあんな目に遭わせた」
豹さんは思いつめた堅い表情をしていて、僕はなぜそんな話が出てくるのか分からなくてまごつく。
「俺がそばにいると、お前は傷つくんだ」
僕は目をまばたき、「そんなことないよ」とサイドブレーキに身を乗り出す。豹さんはこちらを見ずに目を伏せ、「俺はお前のそばにいないほうがいい」ときっぱり言った。
「俺のそばにいたら──」
「豹さんがいなきゃどうしたらいいか分かんないよ。ほんとだよ。必要なんだ。一度離れてよく分かった。僕がわがままなのが悪いんだよ。もう僕のそばからいなくならないで」
豹さんを失う恐怖に、僕は瞳を滲ませてまくしたてた。スーツの腕もつかむと豹さんは僕を見、傷んだ笑みをもらして僕の柔らかな頬に指の熱を添える。
「碧織──」
「豹さんがいなくなるなら、淫売なんかしないよ。しなくていい。豹さんを失くしてまでやる意味ないよ。だからそばにいて」
「したいんだろう」
「したいけど、それより豹さんがそばにいるほうが大事だよ」
豹さんは僕を見つめた。僕は唇を噛んで涙をこらえ、ぎゅっと喉を絞めつけられる。僕たちは長いこと見つめあい、豹さんが先に目をそらして僕の頬にあてていた手も引いた。
「豹さん──」
「お前は俺のものじゃない」
「豹さんのものだよ」
「お前は俺に縛られていたらいけない。俺に束縛されても、どうせろくなことにならない」
豹さんの声は低く重く、苦かった。正面の通路を車が通りすぎる。胸苦しい車内で豹さんの鋭い瞳や顎を見ているうち、僕はそれは建て前ではないかと猜疑した。豹さんは、単に僕と縁を切りたいだけなのではないか。
そう思われる心当たりはある。僕はこの人を裏切った。甘えたくせに裏切り、裏切ったくせに甘えた。愛してくれるままでいるほうが変だ。都合がよすぎる。
僕は喉元に侵蝕した絶望感にコーデュロイのシートに沈み、みぞおちへと首を垂らした。
「やっぱり、怒ってるんだね」
豹さんの身動きは聞こえたが、視線は頬に当たらない。
「そうだよね。当たり前だよね。世話してくださいって頼んだのにあんなのに逃げて、めちゃくちゃになったら後始末させて。ひどいよね。怒ってるんだ。僕のことなんか嫌いなんでしょ」
「そうじゃない」と豹さんは僕を見たが、「そうだよ」と僕は目をつむって自虐で泣いてしまうのを抑える。
「だから、僕のそばにいたくないんだ。僕を見るとムカつくんでしょ。僕なんかとはもう他人に──」
豹さんは僕の腕を乱暴なぐらいの力でつかみ、強く引き寄せて抱きしめてきた。サイドブレーキがあいだにあってやや無理な体勢だけど、豹さんの胸に押しつけられた僕は心臓を止めて目を開く。
「豹さん──」
豹さんは何も言わずに僕をきつく抱いた。僕は肩と瞳を震わせ、豹さんの匂いに息遣いをひくつかせる。クーラーもついていない車内で、汗ばんだ体温がじかに伝わってきた。
豹さんがこんな感情的な行動をするなんて、初めてだった。また前の通路に車が抜ける。豹さんは軽く身を引いて、僕の肩に額をあてると、「そう思われると思ったから」と僕の疼いている左胸の白鳥に服越しに触れた。
「これをやった」
「え……」
「お前の新しい源氏名は水鳥だ」
「ミトリ」
「弓弦にもそう言ってる。水の鳥と書いて水鳥だ」
「……水鳥」
「俺はお前をあんなことには追いこみたくないんだ。そばで世話してやりたくても、今はそのほうが強い。お前が淫売も惜しくても俺を取ってくれるみたいに」
豹さんは軆を離して、崩れた前髪に瞳を隠した。前髪がおりると、豹さんは若く映る。息をついて前髪をあげると、豹さんは肩をこわばらせて止まる僕と瞳を合わせた。
「俺はお前に自由をやりたいだけだ。見捨てるわけじゃない。でも、そう言ってお前が納得するとは思わなかったから」
豹さんは僕の左胸にもう一度触れ、「一応、これでお前を縛っておく」と視線も自分の指先にそそぐ。
「白鳥。水鳥だ。お前のすべては支配しない。天も海もおさめてはおかない。海だけでいい。空はお前の好きなように飛べばいい。海にも、俺に会いたくなったとき来てくれれば」
僕も豹さんの手があてられる心臓を見おろした。どきどきしていた。それで余計、白鳥が疼くのだろうか。
「俺はきちんと海でお前を待ってる。代わりに、俺の頼みも聞いてくれ。淫売は空でしろ。俺の前ではやるな」
豹さんは手を引き、僕は豹さんの顔に目を戻す。
「お前をあんな悪夢にたたきこみたくないんだ」
「豹さん……」
「碧織のことは、いつも特別に想ってる。だから」
僕は豹さんの瞳をじっと瞳に取りこんだのち、こくんとうなずいた。豹さんは瞳をやわらげて僕の頭を撫でると、ようやくエンジンをかける。車体が振動を起こし、香水をこぼして身じろいだ僕はシートに身をおさめた。
今日はまだ豹さんの部屋に泊まる。新しい部屋での生活は明日からだ。そして、来週には淫売に復帰していて──
通路をすべりだした車の中、僕は白鳥に触れ、銀のピアスをもらったときより深い安堵感に微笑した。
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