青氷の祠-61

路地裏とナイフ

 この街で何やら事業をやる堅気ではない男と、僕は中枢寄りの高級ホテルの玄関で別れた。僕の具眼はほとんど相手を透視してしまえるけど、たとえば豹さんの仕事のように、どうしても読めないものもある。
 相手の隠蔽が強固なのか、知らないほうがいいと眼力に抑制が働くのか──今見送る彼の素姓も、僕はよく知らない。これじゃいつまでもなじみになれないな、とカーキのオーバーを着こむ僕は十一月の深夜の風に身をすくめ、白い吐息をこぼしながら階段をおりて人混みに混じった。
 こめかみに響く寒気に、場所柄で落ち着いたネオンが冴え渡っている。中枢寄りということは、高級店が近いわけで、このへんのホテルはけばけばしいモーテルではない。高層の淑やかなホテルで、そこに吸いこまれたりすれちがったりするのは嫌にべたつくふたり連れでなく、ベッドまで焦らして毅然とするふたり連れだ。
 喧騒も不思議と耳障りでなく、とはいえ、僕はこのへんは苦手だ。つけたての香水に嗅覚を澄まし、このへんはいつ豹さんが歩いてるか分かんないもんな、と風になびいた湿り気が痛む髪を正す。
 自分の前では淫売をするな。僕は今も、あの豹さんの言いつけを守っている。なので、客が中枢付近で落ち合いたがると神経を使う。
 このへんは僕の懐かしくない過去もつめこまれている。蛍華さんも、昔の珠生も、天海としての高級店も、末期中毒の悪夢も──嫌いではなくも、僕はこのへんに踏みこむと、内外ともに警戒しなくてはならない。
 今日は十一月十日で、西側で売春に復帰して四年と少しになる。ここに来て、僕はようやく安定した。夏乃と毬音の登場を除けば。
 夏乃が毬音を持って押しかけてきたのは、十二月の風が肌に刺さる早朝だった。毬音は一歳半だった。夏乃は初めは甲斐甲斐しくても、ただちに本性を現わしてあんなのになった。
 夏乃が化けの皮を剥がし、僕はくだらないいらだちに取りつかれるようになった。光樹の言う通り、夏乃を消せば僕は毬音を殴るのを減らせるかもしれない。なくなるとは思わないが──部屋変えたいの豹さんに相談しなきゃなあ、と暗い空に目を細めて白い息を溶かす。
 豹さんが僕を想ってくれているのは、この白鳥を見ればだいぶ回復する。けれど、こうも会ってくれないと不安にもなる。会いたくなれば来ていい、と言っていたし、連絡を取ってもいいのだろうか。でも豹さんはいそがしい身だし、邪魔ではないかと遠慮が入ってしまう。僕のことならどんなときも邪魔だなんて思わない、と自信を持つには、空白が置かれすぎているし──
 しかし、豹さんが連絡をくれるなんてことは、まずない。豹さんは僕に呼ばれない限り、僕の前には現れないつもりなのだ。邪魔を承知でずうずうしく接触を取るか、もしくは、今は転居の相談という口実がある。これをきっかけに食事ぐらいしてくれたらいいのに、と僕はべたつくふたりをよけ、あたりがモーテルの宿屋街になっているのに気がつく。
 次の予約は一時半、モーテルのそばのファーストフードだ。今はおそらく零時半近くで、一度〈neve〉に戻って昼食を取ろう。ゴミの上を踏み進み、頬に切れこむ風の中でコートの中に縮んだときだった。
 いきなり脇の路地裏から出てきた人影と、僕はまともにぶつかりかけた。一センチ前で足を止めて身を引き、眉を顰めて相手を見あげる。相手も僕を濁った目で見おろした。背が高く、細身で、無造作な格好をした男だった。
「気をつけてね」と僕がよけて右にすれちがおうとすると、その男は僕に立ちふさがってきた。難癖つける気か、と腰に手をあてて相手を見あげなおす。
「そっちがぶつかってきたんだろ」
「そんなことはどうでもいい」
 酒気したつぶれたしゃがれ声だった。何かこの声聞いたことあるな、と思う。悪夢のときの自分の声だろうか。
「じゃあ何」
 男はほつれた前髪を伸ばして見取りにくい目で、僕をじっとりと見つめた。濡れた布が肌にはりつくみたいな視線で、僕は芋虫を目にしたような喉がつまる嫌悪感を覚えた。
 何だろう。三十台後半に見えても、その伸ばせる髪で見るにもう少し若いのか。声に憶えがあるし、過去の知り合いだろうか。ここは中央に近いし、昔の客とか──
「お前、淫売だろ」
 僕から目を離さず、男は喧騒と遊離した声を発した。「だったら何だよ」と腰にあてた手を下ろすと、突如、男は僕の左腕を鷲掴んできた。
「何だよっ」
 驚きに振りはらおうとしても、虚ろな目からは思いもよらない強い力が骨に食いこむ。肌に突き刺さった伸びた爪に顔を顰めると、「買ってやる」と男は僕を路地裏に引っ張りこもうとした。
「ふざけんな、僕が買いたきゃ弓弦って奴に注文しろ」
「んなの知るか。買ってやるって言ってるんだ」
「あんたに買われなくても客には足りてんだよ、離せっ──」
 僕の抵抗に、男は僕の腕を肩を脱臼させそうに強く引いた。僕はつい右手で肩を抑え、腕を取り返そうと踏んばる。そばをにぎやかに行き交う人は、一顧はしても関わろうとはしない。そういう風潮は知っているので、僕も他人に助けは求めない。
「離せ」と左腕を渾身に自分のほうに引きながら振りまわそうとすると、男は前触れなく左手で僕の右頬をぶった。頬に体当たりした衝撃に思わず目をつぶった隙に、男は僕を路地裏に引きずりこむ。
「てめえ、何なんだよっ。僕に手出ししたらただじゃすまないっ──」
 男は僕を苔に湿った冷たい壁に押しつけると、わめく口を白濁する息で荒げる唇でふさごうとした。僕は激しい嫌悪に首を横にねじったものの、顎をつかまれ、顔面におおいかぶされて舌に口をこじあけられてしまう。
 僕は焦りにもがいて喉でうなり声をあげ、どうにか男の骨の浮いた肩を押しのけようとした。だが、薬でもやっているのか、ガリのくせに力が強い。涙を浮かべながらかろうじて唇を引きちぎり、顔をそむけて酒臭い唾液を暗い地面に吐き捨てた。男は僕の尻を両手でつかむと、勃起した股間を押しつけてくる。
「やめろ、」
「欲しいんだろ」
「欲しくねえよ、てめえ、いい加減にしないと──」
「淫売なんだろ。これが欲しくてたまんなくて、男にケツ売ってんだろ」
「あんたのなんか欲しくない、離せ、ぶっ殺すぞっ」
 男は僕の股間に股間ににじりつけて、さらにそこを硬くした。口元に唾液をもらす僕は、そのふくらみに凄まじい吐き気を覚えた。内部から何かを突き破らせるように闇雲に抗い、しかし、饐えた臭いの男は僕を抱きすくめて離そうとしない。
 何だか、このままやられそうで恐れに近い絶望感が湧いてきた。負け惜しみに雑言を吐いても、男は口づけで黙らせようとする。弓弦の名前を知らないのか。だったら、豹さんの名前なんかもっと知るはずがない。
 どうしよう。嫌だ。だいたいこいつは何なのだ。昔の客ではなさそうだ。単なる行きずりか。引き攣った瞳で、顔面を迫らせるその男を見た。そして、はっと目を剥いた。右目の下にほくろがある──
 ほとんど無意識にその男の臑を蹴りつけた。にぶい反動が膝に走り、男は声をあげて力を緩めるどころかじめついた地面にうずくまった。僕は二、三歩彼を見張るまま後退し、離れると一気に薄汚れた路地裏を駆け出ようとした。だが男は蹴られた左脚を引きずっても追いかけてきて、僕のふくらはぎに飛びついてくる。胸に焦慮や恐怖がどっと押し寄せ、「何なんだよ」と泣きそうにもらして右脚を振り乱す。
 それでかえって重心を取りそこね、男に右脚を引かれた拍子に地面に転んでしまった。男はすかさず僕の背中にのしかかって、服に手を探り入れる。僕が声をあげると、口にこぶしを突っこんだ。息もできない僕は、泳げない子供みたいにばたばたと暴れる。背中に寄りかかる男の体重に、冷えきった地面に押しつぶされていく。
 そして地面に前髪越しに額がこすれたとき、僕はあの悪夢を思い出した。こうして地面に抑えつけられ、得体の知れない男に犯されたことを。生々しい圧倒的な恐怖で胸が張り裂け、男の手が脚のあいだのジッパーに伸びたとき、僕は盛りあがった性器があてがわれるジーンズに手をひねりこませてナイフを取り出した。
 刃はしまわれるナイフを、後ろ手に男の腹に強く突き刺す。刃は出ていないとはいえ、程度がきかなかった突き刺しに、男は一瞬手を離した。僕はその隙に右手を目の前に引き出し、舞いこむネオンに光る二枚刃を飛び出させる。
 ついで、それで男の肩を鋭く切りつけたが、寒さをしのぐぶあつい服を切り裂けただけだった。それでも男はとっさに肩を抑え、僕は機敏に男の下を脱出する。傷がないのに笑みを垂らした男は、立ち上がろうとする僕の膝にむささびのようにかぶさろうとした。僕は手加減になしに右腕を振り上げ、笑みにたるんだ男の頬にナイフを振り落とした。
 白い息の中に真っ赤な血が飛び散り、男は目を開いて頬に手をあてる。僕はかぶさろうとしていた男の股間を奥へと蹴りやると、その拍子に落ちた茶色の財布を素早く拾い、股間を抑えこんでぎゅうっと丸くなる男を何とか逃れた。
 頬についた生温い血も握りしめるナイフもそのままで、息を切らして、背後を気にしながら走った。宿屋街から飲食街に移る路地裏で、僕はナイフの刃をオーバーの内側でぬぐってジーンズにしまう。頬の血も唾を吐いた手の甲でぬぐい、強い動悸とめまいに壁にもたれ、つかんできた財布を発熱にほぐれた指で広げた。
 ほとんど空だが、そんなのはどうでもいい。カードを探ると、幸い免許証があった。写真もあり、暗がりに目をこらすと確かに右目の下にほくろがある。錯覚ではなかったのだ。僕はオーバーに免許証を財布ごとしまうと、跳ねあがる心臓や乱れた呼吸が整い次第、明るい通りに出る。

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