青氷の祠-62

突然の手

 あれは、珠生の男だ。ならば、行きずりの暴力なのは偶然が過ぎる。実際、彼は謀ったように僕につっかかってきた。あいつは僕が誰だか知っていたのだ。珠生が話さなくても、彼はこの街に出入りして希水を買っていたのだから、珠生に僕という兄がいると知っていてもおかしくない。
 珠生の居場所を訊こうとしたのか。そんな感じでもなかった。僕を犯したいだけのようだった。義兄とは知らず、僕の中に流れる珠生と同じ血に欲情しようとしたとか。バカげているが、あの様子ならありえそうだ。珠生を追ってここに流れついた直後なら、弓弦を知らなくて当然だし、また来たらどうしようか──そう案じたとき、突然肩に手がかかってびくっと振り返った。
「あ、ごめん」
 聞こえたのはあのしゃがれ声でなく、こころよい低音で、そばの和食屋の窓が通す明かりに映ったのは弓弦だった。僕は刹那臆し、「何」と澄ました表情を取り繕って肩に乗った手をはらう。僕の強がりに少し咲った弓弦は、いつものなりに黒いオーバーを羽織り、軽く息を切らしていた。
「ふん、路地裏で一発やってたの」
「お前、足早いな」
「………、見たのか」
「まあな。前髪に苔ついてるぜ」
 言われて落とすのは癪だったが、放っておくのも間抜けなので触れてみると、確かに生えぎわにべたつきがあった。袖口で拭こうとすると、弓弦が肩にかけるリュックをおろしてティッシュをよこす。僕はやや躊躇って受け取り、それで苔をぬぐった。
「僕の顔なんか、見たくないんじゃないの」
 ティッシュを返しながら眇目をすると、弓弦は頬で咲ってティッシュをしまう。
「助けるかどうか迷ったよ」
「……っそ」
「そしたらお前、自力で逃げちまって。すごいな」
「あれぐらい慣れてるよ」
 昔でね、と心中で続け、僕はティッシュは〈neve〉で捨てようとポケットにやった。リュックをかけなおした弓弦は、「豹さんとの約束に反しちまったな」と履きこんだスニーカーに目を落とす。
「ん」
「水鳥の安全を預けられてるのに、私情で放っていこうとした」
「………、」
「お前があれでレイプされてたら、すぐ感づかれて殺されてただろうな」
 僕はこまねいて風に揺れる彼の黒髪を見つめ、「おあいこだよ」と身をひるがえして雑音へと歩きだした。僕の肩に視線を投げかけて立ち止まっていた弓弦は、やがて駆け足に並行してくる。
「あの男、心当たりあるのか」
「誰だかも知ってるよ」
「知り合い?」
「いや。憶えてる? 希水って過去の売れっこが帰ってきたって奴」
「うわさをよく聞くんで」
「あいつの駈け落ち相手だよ」
 弓弦は鋭い印象の目を開き、僕はポケットにある財布を寒さに痺れてきた指でさしだす。
「何」
「あいつの財布」
「……そういや、何か拾ってたな」
 弓弦は受け取って財布を開いた。「免許証が入ってる」と言うと弓弦も凍てついているらしい指でそれをつまんで引き出す。
日坂ひさか龍二りゅうじ。相手の顔とか知ってたのか」
「知らないよ。名前も知らなかった。声は聞いたことあるなと想ったら、しきみさんの真似でだったんだね」
「しきみって」
「頼さんとこにいるしきみさん。しきみさん、こないだその男に希水のこと知らないかって訊かれたんだよ。で、その話で聞いた男の人相を希水に言ったら、あいつは蒼ざめてた」
「希水って奴と会ってるのか」
「たまにね。希水はその男のとこを逃げ出してきたって言ってた。そいつ、希水を追いかけてるんだよ」
「じゃ、あれも水鳥に何か訊こうとしたのか。兄ってことになってんだよな」
「うん。でも訊かれなかった。単に犯したかったみたい」
 弓弦は通りすぎる店先の明かりで僕を見つめ、「何で」と言う。「知らないよ」と弓弦の手の財布を取り上げ、ポケットにしまった。首筋にすりぬけた風に香水が香る。
 前方に〈neve〉が見えてきて、「頼さんとこに用あるの?」と冷風に乾いた髪を梳く。
「ん、ああ。ついでに予約を置いてくよ」
「僕のは」
「あっちで渡す。指が凍っててさ」
「そ」
 寒くてもいろんな人が遊びに繰りだして騒がしい中、僕と弓弦は何心なく沈黙を流す。頬に残る血か唾液かのはりつきを、当たる風に感じた。〈neve〉でもう一度水で洗お、とぶたれた熱はひいた頬を爪で引っかいていると、「その男どうする?」と弓弦は何やら思いつめて言った。
「どうって」
「豹さんに言おうか」
「言ってどうすんの」
「水鳥をレイプしようとしたんだろ。豹さんはただですまさないよ」
「お前が言いたくないんじゃないの。無視しようとしたし」
「………、水鳥が言ってほしければ」
「通りかからなかったって演技すれば」
「見抜かれるよ」
「だろうね。じゃあ僕が殺すなって頼んでるって言えば」
「信じるかな」
「弓弦なんかに助けてもらわなくて僕は清々してるってどう」
「それは効くかな。じゃ、言うのか」
「いいよ。未遂だったし。僕が自分で気をつけておく」
「いいのか」
「うん。また来たら、そのときの気持ちで考えて、怖ければ頼むよ。今は平気」
 弓弦は首肯し、混雑する前方に顔を向けた。「恋人くんに手出ししてるって女どうなったの」と深い意味もなく訊くと、「水鳥の言った通りだよ」と弓弦は白い吐息と咲う。
「僕」
「俺がその女の面倒をかじってやったのが悪いって」
「んなの言ったっけ」
「似たようなの言ったじゃん。俺の頼れるおねえさんにも言われたよ。俺がまいた種なら俺が片づけないと、あいつが悪い女じゃなくて俺が悪い男だって。巻きこまれたのは俺の恋人なんだよな。ちゃんとその女と話そうと思ってる」
「恋人くんと続いてるんだね」
「続いてるよ」
「その恋人と豹さん、どっちが大事?」
「えっ。そんなん、……恋人に決まってんじゃん」
 僕は弓弦を横目をして、にやっとした。「何だよ」と弓弦がばつが悪そうに顰め面になると、「別に」と僕は笑みのまま〈neve〉の明るいショウウィンドウを横切っていく。
 弓弦にとって、その恋人は本物であるらしい。彼が僕から豹さんを奪う心配はないのかもしれない。笑顔の僕に怪訝そうな弓弦と路地裏にそれると、僕は食った時間を気にしながら暖かな〈neve〉へと踏みこんだ。

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