恋愛相談
十一月の中旬に入って数日が過ぎた日、すっかり早くなった日落ちにすでに闇夜をネオンが彩る中、僕は〈neve〉に到着した。芯まで冷えこんですくまった軆を暖房のきいた店内に保護すると、カウンターで光樹が手を振っていて僕は笑みになった。
「久しぶり」とにぎわうテーブルを縫って駆け寄ると、光樹は曖昧に咲って右のスツールに置いていたリュックを膝に置いた。僕は素直にそこに座らせてもらう。客と話す頼さんより、通りかかったウェイターにホットティーを注文すると、「何かあったの」と十本の指を絡めて暖めながら僕は首をかたむける。
「ん、どうして」
「何か元気ないよ」
「分かる?」
「来るの二週間ぶり近いし」
「いろいろね、あるんだよ」
「バンド内で揉め事」
「いや、僕の個人的事情」
今日は宣伝と離れた訪問らしく、光樹は何もない、すらりとした指で香りの残るコーヒーカップを取りあげた。「あったかい?」と訊くと、「冷めてる」と光樹はカップに口をつける。
「いつ頃来たの」
「三十分ぐらい前。十七時頃だね。碧織の部屋に行こうかと思ったけど、暗くなりかけてたし。こっちのがすれちがわないかって」
「寒くなったよね」
「ほんと。すぐ暗くなるし。時間、平気?」
「ひとつめ十八時半で、落ち合うのここだし」
「そ。こないだかあさんとこに泊まってさ、夕ごはんにお鍋食べちゃったよ」
「個人的事情って、家庭の事情」
「かあさんとこには行っただけ。髪とピアスに物言いたげにしかされなかった。女の子とね、ひと悶着が」
「できたの」と色めいてまばたくと、「逆です」と光樹はカップを金のスプーンが添えられた受け皿に置く。
「『光樹くんって私のことどう想ってるの』」
「どう想ってるの」
「………、どう、でしょうね」
「まだ躊躇ってるの」
「だって、恋愛怖いもん」
「怖いと思ってるかぎり、怖くないと思える恋愛はできないと思うよ」
「頭では分かっててもね。はあ。こんな悩む時点で、僕は彼女のこと好きじゃないのかな」
頬杖をついた光樹は視線をカウンター内の瓶が並ぶ棚にやり、僕はほぐれてきた頬に冷たい指をあてる。
「そういう相談でね、かあさんとこに行ったんだよ。女の意見」
「何て」
「男が女に恋の相談をするのはなってないって。おじさんはにやにやしてるだけだし。はあ。くそ、恥を忍んで相談したのに」
「女の子の友達いないの」
「いるけど。もっと恥ずかしいよ」
「なってないってことは、その恋は切り捨てろってことなんじゃないの。なれる女と恋愛しろって」
「そうなのかなあ」と光樹は煮えきらずにテーブルに突っ伏し、恋愛とまともに触れあったことのない僕は言葉を持て余す。背後のテーブルには男娼たちが出勤し、くつろいでうわさばなしに興じている。前髪を引っ張ってグレていた光樹は、「どうやって振ればいいかな」と大儀そうに上体を起こす。
「別れてくれって言えばいいじゃん」
「碧織に言われたくないなあ。別れてくれですまない女とずるずる来てるのに」
「僕は行方をくらまそうと思ってるよ。あ、しまった。こないだ弓弦に逢ったとき部屋を引っ越したいって言うの忘れてた。ちきしょう、強姦とかされたからだ」
「強姦!? 何それ、聞いてないよ」
「話してないもん」
「何でそんなのすぐに言ってこないの。電話もあるのに」
「三日前だよ。そろそろ来るかと思ってたし」
「弓弦くんに強姦されたの」
「あいつには恋人いるでしょ。あと未遂だよ。逃げたんで」
「客に強姦されたの」
「路地裏から不意に現れた男に」
「えー。怖いな。じゃ、ぜんぜん知らない奴」
僕はオーバーのポケットに入れっぱなしの財布を取り出した。免許証をさしだし、「この男」と写真をしめすと、「待って」と光樹は写真を覗く前に僕を制する。
「何でこんなの持ってるの」
「そいつが落としたの拾ったんで」
「金目当て」
「いや、そいつが誰だか心当たりあって、身分証で確かめたかったんで」
「心当たり」
「珠生の男じゃないかって」
光樹は状況を接続できないのか、変な顔になった。そこで僕は、しきみさんに希水について訊いた男から、まぬがれたあと弓弦に逢ったのまで順を追って話した。「落ち着かない日常だねえ」と光樹は渋い眉になり、「同感」と財布をしまった僕はやってきた紅茶にスティックシュガーをそそぐ。
「珠生が毬音ちゃんに手え出した理由、はっきりしないね」
「レイプってえてしてそういうもんだし」
「男が碧織に手え出したのも曖昧だね」
「えてしてそういうもんなのかな」
「かな。希水様について、ひと言も口にしなかったの」
「うん。ただ僕を犯そうとした。つっても、何か珠生に関係して食ってかかってきたんだとは思うよ」
「ふむ」と光樹が腕組みをしていると、彼が追加で注文していた焼き林檎がやってきた。甘酸っぱい湯気がただよい、ひと切れずつにされた林檎にはキャラメルソースがかけられている。「こんなんあったっけ」とメニューを見ると、期間限定のところにあった。きつね色になった林檎をフォークにさし、「よく分かんないね」と光樹は解明をあきらめた面持ちに眉をほどく。
「僕たちには、珠生とその男の生活が欠落してるし。碧織はそこで起きた問題に巻きこまれたのではあるんだろうけど」
「うん」
「ふたりの生活が解ければ分かるのかな。てことは、珠生なら分かるかもしれないね。会えたとき訊いてみれば」
「そうする」と僕は血がめぐった指で爪楊枝をとり、焼き林檎をひと切れもらった。熱いキャラメルソースが苦いような、焼かれた林檎が酸っぱいような、ややくせのある甘みだ。
「追っかけてくる相手がふたりってのは意味深だね。ひとりはその男として」
「男以外にもいざこざあったんだろうね」
「希水を必要としてる、か。なのに何で碧織なのかな。初めは訊くつもりが、何か爆発したとか」
「あれははなから犯す気だった気が」
「じゃあ碧織の言う通り、血に欲情したのかな。オカルト的」
「薬もやってそうだったもん。薬してると思考が変なほうにいっちゃうんだよ」
「そっか。でもよかったな、過去を思い出した瞬間、脱力するんじゃなくて攻撃して」
「戻りたくないって思うしね」と咲って残り半分の林檎を口に放り、「じゃあ、いらついたときも薬しないでよ」と光樹は心配を混ぜてふくれ面になる。「なるべくね」と僕が口の中でアップルティーみたいな味になる紅茶をすすると、「豹さんが今もたまにやってるの知ったらもっと怒るよ」と光樹は焼き林檎に息を吹きかけて香ばしさを舞わせる。
「そうだね。うん。夏乃と離れようと思ってるんで、そしたらあいつが持って帰ってくるのがなくなるし。自分で買ったりはしてないんだよ」
「豹さんといえば、碧織がその男の始末を頼まなかったの意外だね」
「そう?」
「そんなの、始末して当然なのに」
「まあね」と微笑み、カップを抱いたままもう少し指を熱に癒す。
「珠生に鉢合わせてやりたいの」
「いや、別に」
「弓弦くんに罪滅ぼし」
「そういうのでもない」
「碧織が犯されかけたなんて知れば、さすがに豹さんは飛んでくるんじゃない」
「………、うん。そだね」
うやむやに目をそばめる僕に、「会いたくないの」と光樹はかたむけた首で黒曜石に光をこぼす。
「いや。会いたいよ。迷惑かけたくなくて」
「迷惑」
「僕ひとりでどうかなるなら、豹さんをわずらわせたくはないんだ。あの頃、面倒ならいっぱいかけたし。ちっとも感謝っていう感謝を返せてないぶん、これ以上の迷惑はかけたくないんだ」
虚勢にも助けられて決然とする僕に、「迷惑なんて思うかな」と光樹は銀のフォークにもつれた黒茶色のキャラメルソースを舐める。
「心配はたくさんしてもね。碧織が消えたときも、ほんとに心配してたよ。あの頃、一度食事おごってもらったけど、僕が碧織にされてたきちんとした売春をしたいって相談にもすごく落ちこんでたもん。こんな人を落ちこませるって相当だなあと思った記憶が」
僕は手のひらに抱く紅茶の水面の自分と見合い、光樹の言葉は信じられてもそれを豹さんへの自信には追いつけられない。
「ほんとにつらくなったときは、碧織には豹さんに甘えるのが必要だと思うな。豹さんだって、自分に甘えて碧織が回復するのは嬉しいと思う」
「……そうかな」
「うん。僕だってそうだし。無理して自分がひとりじゃないの忘れないでね」
瞳に僕の特徴ある瞳を捕らえる光樹に、僕は笑みになってうなずいた。光樹は照れ咲い混じりに焼き林檎をつつき、「僕は豹さんが碧織を心配する気持ち分かるよ」としたたるキャラメルソースをフォークにまとわす。
「碧織ってえらそうで強そうなくせに、何かたまに弱いしね。構いたくなるんだよ」
「そうなの」
「うん。気持ち許した人にしかその弱いのを感じさせなくて、余計使命に燃えさせる。碧織が気丈にしてられるならよくても、その男はやばそうだし。ほんとに怖いことされたら、我慢しないでね」
「うん」
「珠生をあんなにした男だよ」
「油断できないね」
「ね。気をつけて」
僕は咲ってこくんとし、ほどけた体温にカップを置いた。時刻は十八時をまわり、当面、店内は寒風に連れ出される男娼より暖房に逃げこんでくる男娼が多い。席はあちこちが埋まってさざめきが絶えず、やってくると光樹に声をかけるのもいた。光樹と立ち話をしたのちテーブルに落ちついた男娼を見送ると、「光樹、このあとどうすんの」と僕はふたたび爪楊枝で焼き林檎を盗む。
「このあと」
「僕十八時半に行っちゃうしさ」
「んー、十九時までここにいて、陽桜まわってこうかな。今日はバイトもないし、ゆっくり遊んでく。彩雪に帰るの憂鬱なんですね」
「何で。あ、女の子ね」
「……うん。はあ。ああ、もうやだ」
「振ればいいじゃん。好きじゃないって」
「だったら、軆目当てだったのねとか胸倉つかまれそうだもん」
「胸倉のひとつやふたつつかませときゃいいよ。ひどければ殴る」
「僕は暴力振るわないんだよ。歌で発散するから」
「じゃあ、一回ごちゃごちゃ想ってるの詩にして、すっきりしたら」
光樹は僕を見て、「それ」と人さし指を立てて名案と言いたげにした。「メロディのストックいくつかあるしな」と実は美静に習って多少ギターを弾ける光樹は焼き林檎をかじり、便利なもんだよなあ、と僕は粗熱の取れた焼き林檎をまるごと口に押しこむ。
光樹には恋愛の素質があるのになと思う。最低、僕よりは氷を溶かさない才がある。やはり本物の愛は、発熱していればいいものではない。夏場のアイスクリームのような心地よさもあるけれど、真冬に心臓を氷柱でつらぬかれる断末魔もある。
愛がぬくぬくしているなんて戯言だ。愛とは肌を裂くように厳しくて痛い。光樹は陽香さんに殴られた経験で愛を知っている。「いい女が見つかれば光樹は恋愛できるよ」と言うと、光樹は僕を見つめて微笑んだ。
十八時半に僕は男に連れ出され、寒さもあってその肉厚の脇腹に身を丸めた。なじみの客で、いつものモーテルにいくのは分かっている。瞳を絡めてたわいないはなしをしながら、これも愛だけど本物じゃないなと思う。嘘ではないが、真実でもない。
この熱を氷のごとく一定に持続させるのが愛だ。僕はこれを長持ちさせるわけにはいかない。僕の愛はひとりに独占させるものでなく、平等に分けあたえる売り物だ。誰かひとりを愛して真実の愛を知るのは大敵だ。たちまち仕事にならなくなる。珠生みたいに。
僕だって一度豹さんを取って仕事を捨てようとしたもんな、と細目で男の腕にもぐりこみ、彼の含羞した笑みとほてった体温に瞳と心を湿潤に蕩かした。
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