凍てつく夜
翌日、男とモーテルに向かう途中に、狭い路地裏で黒いレインコートに身をひそめる少年を見かけた。男と別れた帰り道にそこを通りかかるとまだいるので、様子を見てみると案の定珠生だった。
今日は天気がどす黒く、僕が目覚めたときにはみぞれじみた雨が降っていた。コインランドリーに行こうとした僕は、頭と肌の冷害になるとやめてしまった。
今はやんでいても、いつ降りだすかしれない重苦しい雲が空一面にうごめいている。人出の喧騒は降りさえしなければ元気だが、普段より防寒がしっかりしている印象だ。僕もネップ入りの茶色のマフラーを巻いている。珠生はレインコートひとつで、全身に震えを起こして顔色悪く凍えきってきた。
「アイスおごってあげようか」
背中にあたりそうな壁を気にして珠生の正面にしゃがみこむと、ほつれた前髪の隙間で隈のある目を向けてきた彼は、ごそっとフードをかぶって膝を抱えこんだ。
僕は立ち上がって、そばのコンビニであんまんをふたつ買ってきた。「はい」とくっきり湯気を立てる包みをさしだすと、珠生は凍てついて泥がついた指を迷わせながらも受け取り、芳しい包みを開けてフードをかぶるままかぶりついた。
「こんなとこいなくても、ただであったまれるとこあるでしょ。モーテルのロビーとかさ」
コンビニでもらったビニールぶくろを濡れた地面に引き、そこに尻をあてて路地裏に座った。嬉しくない懐かしさがある。マフラーを喉におろして空気とぶつかった息は真っ白で、僕もほかほかのあんまんで指をなぐさめて包みを開く。
「立てなくて」
いつしか珠生の声は、あの清涼さを失うどころかかすれてきている。酒か薬に手を出しつつあるのか。僕の頭には、相変わらず、弓弦か豹さんにひと口きけばどうにかしてやれるとよぎる。
「立てない」
「さっき、やられてさ。がくがくなんだ」
僕は珠生の泥のついた指を見た。とすると、その震えもこの心臓を縛りあげる寒さの中、服を引きはがされたせいなのか。そういえば、あんまんの甘い匂いに混じって、精液の青臭さもある。僕たちはしばし沈黙に通りのざわめきを置き、具のつまったあんまんで軆を温めた。
「珠生」
「ん」
「お前、この街にずっといるのか」
「いてほしくない?」
「別に。もしいるなら、早いとこ後ろ楯作ったほうがいいよ」
「元のとこには行きたくないんだ」
「ここでもいいからさ。僕こないだ、例の男に遭ったんだ」
「例の」
「お前の駈け落ち相手」
珠生は窪んだ目を向いて顔を上げ、その弾みにフードも振り落としてくすんだ髪にネオンをあてた。怯えた瞳と息ざしで、ごったがえす通りを見渡し、ついで半月になったあんまんに目を落とし、「何か入れたんじゃないだろうな」と警戒をとがらせてまくしたてる。
「入れてないよ」
「あいつを連れてきたのか」
「連れてきてないよ。あんなんとグルになるわけないだろ。レイプされかけたのに」
「えっ──」
「僕、あいつに犯されかけたんだ。突然因縁つけてきてね」
「俺の男って名乗ったのか」
「いや。目の下にほくろがあった」
「そんな男、いっぱいいるじゃないか」
「日坂龍二」
珠生ははっと唇と肩をこわばらせた。僕は温もりのある指で例の免許証を見せ、途端、珠生の打撃に穿たれた瞳孔は愕然へと移行し、最後にはまぶたを緩めて地面に垂れ流れた。
「間違いない?」
「……ああ」
「僕を犯そうとした理由ははっきりしてないんだ。これはね、攻撃した拍子にあいつが落としたのを奪って」
「……そうか」
「お前なら、あいつが僕を犯す理由、分かるかなって」
珠生はぴくりと瞳の虚脱を切り替え、こけた頬をはりつめさせた。知るかよ、という返事も覚悟していた僕は、その反応で彼に心当たりがあるのを見抜く。「何でと思う?」と追いこむと、珠生は視線は地面に打ちつけるまま背中を壁に押し当て、整理するように喉から白濁を戻した。
「龍二さんはお前を怨んでる」
「は?」
「だからたぶん──」
「ちょっと待ってよ。何? 恨んでる?」
「うん」
「何で。そんなん、僕あいつのことなんていっさい知らないよ」
「龍二さんはお前を知ってる」
「それは勝手だけどさ。何で。いつ僕に怨み持ったわけ」
珠生は長さの完璧さは変わらない睫毛を伏せ、あんまんにもそもそと口をつけた。僕はあんまんの湯気を頬に立ちのぼらせ、唐突な情報に狼狽え紛れの渋面になる。
僕を怨んでいる。何で。憶えも見当もまったくない。僕とあの男は、あのときが初対面だった。向こうが一方的に僕を逆怨みしているのか。何で。疑問に疑問が重なり、僕は怪訝のわだかまりを抱えて、とろけるこしあんを見つめる。
「分かんなくても」
不意に珠生がつけくわえる声を発し、僕は暗雲に彷徨い落ちていた目をあげる。
「もしかしたら怨んでないかも」
「何なんだよ」
「怨んでたかも」
「ちゃんと話せよ」
「………、俺は怨んでないと思ってた」
「お前の意見はいいよ。何であいつが僕を怨むかもと思うんだ」
珠生は言うのを遅疑する沈黙を切迫させたが、「何となく」と極端な婉曲で、沈黙を言う気がないだるいものにすりかえて追求をふさいだ。それでも僕は、「知ってんだろ」と威し混じりに厚かましく問いつめる。
珠生はあんまんを噛みしめるばかりで答えず、僕は舌打ちしてあんまんを口に押しこむと無理に飲みくだした。おごってやったのに、と思っても僕が勝手に与えたのでだしにはできない。僕はオーバーとマフラーを衣擦れさせて壁にもたれると、鮮やかな通りに首をねじって視覚を放置した。
「碧織」
「ん」
「大丈夫だったのか」
「何が」
「犯されかけて」
「大丈夫じゃなかったように見える」
顎に弱々しい視線が触れ、口のものを嚥下する音が聞こえた。湿り気のある冷気が肌に忍びこみ、肩や背中、脚にも鳥肌を立てている。
「ごめん」
「何が」
「俺のせいなんだ」
「………、何で」
「龍二さんがお前を怨んでるのも俺のせいだ」
「核心言えないくせに、意味深なことだけ言うなよ」
「……ごめん」
うなだれる珠生は、髪を肩にも届かせ、あんまんを食べ終えてコートの中で膝を抱える。そのなりじゃ鉢合わせてもあの男は珠生って気づかないかもな、とも思う。
昔、珠生は蝶だった。恵まれた匂いをまきちらし、ひるがえした羽の風で僕を威圧していた。今、彼は外界と精液の臭いを入り混ぜ、寒風に身を縮めて、蛆がたかる死体より黄ばんでいる。あの艶やかな黒髪も、眇められた瞳も、しっとりした肌も、しなやかな軆も、すべて絶望に式微している。
珠生への全霊のこもった憎悪が、行き場を失くしてとまどいに溶けている。といって、彼に好感はないし、同情もないのだけど──風に前髪を吹かれた僕は息をつき、座りこんだかたちで軆が凍りつく前にと立ち上がった。
珠生は光に当てられない顔をあげ、「腰が治ったらあったかいとこに行けよ」と僕は地面に貼りついたビニールぶくろを取り上げた。口の中が餡で甘ったるい。このあと〈neve〉に行くヒマはない予約があるので、自販機で何か買ってフェラ用のレモンタブレットも噛んでおこう。
僕の言葉にうなずいた珠生は、「ありがとう」とあんまんの包みをたたむ。ついでなのでそれをもらい、自分のと一緒にビニールぶくろに入れた。
早くもあんまんの温かい恩恵は、頭に刺さる風に奪われつつある。物静かに寂しそうな珠生の視線は無視し、「じゃあな」と言い置くとマフラーを正し、騒がしく入り組む人々を照らすネオンの元に僕はすがたを消した。
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