揺蕩う憐れみ
五人の客をとって絞られきった週末、僕は濃紺の空が夜明けを泳がせる六時頃に蹌踉と帰宅した。暖房の中、毬音は絵を描いていて、僕は勝手にインスタントを食えと残すと引っ張り出したふとんに倒れこんだ。
食事を作る気力もない。明日の休息日は、素直にふとんに伏せっていたほうがよさそうだ。香水が染みつくまくらに顔をつぶす僕のざまを観察していた毬音は、「パパは食べないの」と起き上がる物音を耳に障らせる。
「あとでいい」
低く不機嫌な上にまくらにこもった声だったが、毬音は聞き取れたようだ。
「インスタント、焼きそばが一個しかないよ」
「嫌いなのか」
「パパのぶんがないよ」
「冷凍食品でも食べるよ。あー、だる。痛い」
毬音はクレヨンとスケッチブックをたたみ、キッチンで何やらいったん水を流すと、インスタントの焼きそばをこしらえて戻ってきた。ソースの匂いが食欲をそそるも、その体感さえ腰を立たせてくれない。
五人とも本番やったしな、と麻痺の取れない指で頭をかきむしり、暖房を軆に染みこませて風にもつれた頭痛をほどく。突っ伏すまくらで視界を暗闇に葬り、僕は音や匂いで毬音の食事を眺めた。
「パパ」
「ん」
「今日、夜中にママが来たよ」
僕は鈍重に首を捻じり、腫れぼったい目を毬音に向けた。焦げ茶の髪に明かりをすべらす毬音は、箸にソースに染まった麺を絡めている。痣や傷は見当たらない。夏乃とすれちがえているおかげで、ここのところ、僕も毬音に暴力は振るっていない。
「ドア開けなかったの」
「……っそ」
僕は顔面を返してまくらを抱きしめた。攻められた腰は、痛いというより、こめた力が空回りする。尾骨が分解する感じで、まあ慣れたものなので、そう耐えがたい不快感はない。
「引っ越すんだよね」
「引っ越すよ」
「いつ」
「弓弦か、もっとえらい人に相談して。ここ用意したのもそのえらい人なんだ」
「ヒョウ、って人」
「うん」
「あの人、あたしが嫌いなんでしょ」
「うん」
あっさりした肯定に、毬音は閉口して焼きそばをすすった。毬音と豹さんは顔見知りではある。
ソースの匂いに胃が空っぽを強調しても、身を起こす気にはなれない。明日は仕事もないし、何ならこのまま寝てもいい。
豹さんか、とまくらに額をこすって香水を嗅ぎ、探り入れた手で心臓に触れる。
僕が珠生をかばってくれと頼めば、豹さんはどんな反応をするだろう。珠生が言うには、豹さんは彼を嫌っている。僕は好き嫌いを認識しているかも怪しいと思うけれど──豹さんは蛍華さんのために珠生の機嫌は取っていたので、僕のためとなれば珠生を救いあげるかもしれない。
とはいえ、僕は昔はあれだけ珠生を毒づいていた。そのくせ、弱ったら味方面をするなんて、いやらしいではないか。いっそ敵愾心をつらぬければいいのに、あの珠生を前にすると憎悪を失速させてしまう。
弓弦という手もある。豹さんほどではなくも、あいつに権力があるのは確かだ。珠生も豹さんに助けてもらうより、この際まったくの他人の弓弦に保護されたほうが気が楽かもしれない。しかし、珠生の安泰のために弓弦に頭を下げるというのも、僕の私情が黙っていない。
ほっときゃいいのかなあ、とも思う。けして投げやりになるのでなく、僕がでしゃばる幕ではないのかもしれない。僕はシチューとあんまんをおごったので、じゅうぶんなのではないか。珠生は珠生だし、ここはそういう街だ。それでも助けたいほど、僕は珠生に愛情があるわけでもない。ようするにこの揺蕩いは憐れみ──ほっとくべきなんだろうなあと顔を横に向けて、まくらに頬をうずめる。
たるんだ視線は空を泳ぎ、指先は白鳥に触れている。豹さんならどう言うだろう。放っておけと言いそうだ。光樹も珠生が気になると言う僕を揶揄っていた。
なぜ僕は、ただでさえ大嫌いなあいつの安否を気にするのだろう。あの悪夢のせいだろうか。僕はあの一時期のおかげで、今の珠生のそげおちていく心情が察せる。分かるだけに、憎い珠生がそこに墜落していくのが愉しい、というには彼の憔悴が間近にありすぎる。珠生がひどく憎い反面、あの衰弱が観覧している場合ではない泥沼だと知っているので、バカげた良心を駆り立てる。
煮え切らないなあと僕は白鳥にあてた手を引き、まくらを腕に抱きなおした。
豹さんにも弓弦にも頼れない。もし珠生を救おうと思うなら、僕が僕の力でやるべきだ。でも僕は売春社会では名前が通っていても、やはり一般人だ。あいつを弟分の男娼にするぐらいでしか守ってやれない。だが、それにはそれで、悪夢と同じぐらい染みつく過去の珠生が疼く。
せめて、珠生と男の生活を豹さんに探ってもらおうか。珠生の保護を抜きにしても、あの男が僕を怨んでいるというのは気になる。僕は依然として、心当たりどころか心当てもない。
自分のせいで彼は僕を憎むようになったと珠生は言うし、僕と男のあいだに直接の切っかけはないのだろうか。あいつにまた襲われるのも嫌だし、僕は珠生の外での生活を知って、いくらか状況を把握したほうがいい。僕があのふたりに不本意に巻きこまれかけているのは事実で、ならば、珠生とあの男の言動を予測する示唆をもらう権利はあるだろう。
毬音が食事を終えてシャワーを浴びにいくと、僕は起きあがってオーバーを脱ぎ、冷凍食品の高菜ピラフを食べた。風が窓をたたく以外は静かで、食器も洗うと、もはやシャワーを浴びる気力はなかった。
モーテルで事後の汗は流したし、肌を裂く風で帰り道にも汗はかかなかった。その上、明日は休みだし──帰ってきた毬音に暖房と電燈を消すのを頼むと、僕はたちどころに腰の困憊に引きずられて睡魔と沈下していった。
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