色を売る誇り
冷えこんだ風が唸るもとで、僕たちはそうしていた。脱力に頭上のざわめきは遠く、息遣いや身動きの衣擦れが鼓膜をかする。あんなに嫌いだった珠生の肩にもたれ、僕は色彩をぼやけさせる視界を澄ませていった。
泣いたのなんて久しぶりだ。枯渇していたのでなく、あえて泣くことがないほど、最近の僕は穏やかだった。珠生が帰ってきて、だ。しかし邪慳にするには、彼は僕が知っておくべき真実を抱えている。僕には、何の真実かも分からない真実を。どんなに揺らがされても、僕はそれを聞き出さなくてはならない。
けれど珠生は、僕の安定を気遣うというより、それを口にしたくないようだ。珠生は僕の何を知っているのだろう。いくら考えても糸口はなく、僕は腰の痛みに耐えて彼と軆を離した。
珠生は僕の動きに目をあげた。僕は地面に手をついて立ち上がろうとし、珠生は僕の腕を取って手伝ってくれる。「その瓶、湮滅しなきゃ」と言うと、珠生はコートの中を臭わせるビール瓶を見た。
「湮滅って」
「割ってぐちゃぐちゃにすればいいよ。破片を合わなくして、指紋が出なきゃいい。路地裏で」
僕たちはそばの路地裏に入り、その瓶を割って靴底で細かくすりつぶした。「サツに伝わる前に、弓弦って奴には言っておく」と言うと珠生はうなずいた。
平生と変わらない通りに出た僕は、乾いた唇を舐めて天を仰いだ。空は闇が濃いばかりでも、風の冷たさで見るに四時はまわっていない。予約の三時を過ぎているかは分からなかった。いずれにしろ、こんな腰は売り物にできそうもない。次の客はなじみで、かなり荒っぽく攻めてくるのが分かっている。僕は珠生に助けられて歩き、自販機脇の灰色の公衆電話を見つけると弓弦に電話をした。
出たのは留守電で、僕は回線をたたききってもうひとつの電話番号を想った。豹さんの携帯電話につながる番号だ。公衆電話を映しだす白い光の中、珠生は隣で僕を見守っている。
息詰めて受話器を握りしめる僕は、公衆電話の時刻表示で三時までに十五分あるのを知ると、息を吐いて手を離した。
「仕事に行かなきゃ」
「え」
「三時に予約があるんだ」
「で、でも、ひとりで立てないのに」
「立てるよ」
「される、んだろ」
「うん」
「そんなんしたら、」
「されなきゃいけない。仕事なんだ」
珠生は何かを穿たれた目で僕を見つめ、僕は珠生の支えてくる腕をはずした。何とかひとりで立ち、歩けそうな均衡をつかむ。公衆電話にそなえつけられたメモ用紙とボールペンで、弓弦への伝言を走り書きした。例の男を殺したかもしれないこと、それで軆に支障ができて明日の仕事が危ういこと、とにかく会って話したいこと──痺れた指によれた字ですべて書きつけると僕はそれをちぎり、次のページに〈neve〉への地図をかいて黒髪を揺らす珠生に持たせた。
「このメモをこの地図のとこに持っていって、マスターに渡すんだ。頼さんって人」
「……ライ」
「眼鏡かけてて、けっこうごつい。カウンターの中にいるよ。僕からで、弓弦に渡してほしいって」
「………、お前からって、信じるかな」
信じるよ、と言おうとして、怪しむかな、と一歩引いて思い直す。頼さんも弓弦も珠生の顔は知らないし、珠生が希水だと名乗ろうが希水の顔も知らない。かつ弓弦は、僕の筆跡なんて憶えるほど目にしていないし、いずれにしろこの崩れた字は筆跡を隠すようでますます怪しい。この少年が僕の使い走りである証拠はどこにもない。そのわりに内容は深刻だ。考えた僕は、香水が舞う茶色のマフラーをはずし、珠生の白くほっそりした首に巻いた。
「それが僕のなのは、みんな知ってる。染みついてる香水も証拠になる」
珠生は下目をしてマフラーに触れ、僕は時間を気にしながら尻ポケットの一万円を珠生にやった。思い儲けないふうに驚く珠生に、「助けてくれたお礼」と僕は急いで人の往来に混じろうとする。
「いらないよ」
「借りを残したくないんだ」
「借りなんかじゃないよ。俺のせいなんだ。俺が助けるのは当たり前だよ」
僕は珠生の痩せた手につぶれる紙幣を見つめ、「その茶店で何か食うぐらいしろ」と言って素早く人通りに紛れこんだ。
尻というより、尾骨のあたりが刺さるように痛い。アスファルトに受け身ゼロで尻餅だもんな、とさすってみると、かえってびりっと痛みが走った。仕事になるかどうか分からなくも、せめて客と落ち合いはしないといけない。
頬に流れる血は唾をつけた指で拭い、引き裂かれた服は買いにいくヒマもないので格好悪くもオーバーのファスナーをあげてごまかした。迫る時間に僕は腰の痛みはこらえて駆け足になり、息を切らして飲食街にある約束の酒場にすべりこんだ。
暖かい店内に客のすがたはすでにあり、僕は失態に曖昧に咲いながら彼のテーブルに近寄った。客たちが酔いつぶれて酒臭い店の時計によると、時刻は三時を五分過ぎていた。「ちょっとトラブっちゃって」といくらかは事実の弁解を述べて彼の手を取ると、彼は微笑んで席を立つ。五分程度の遅刻で怒り出す浅い仲ではなかったのがさいわいだった。僕は彼と寄り添いあって店を出ると、頬の傷を深める風と入り乱れる人間をぬって、モーテルにしけこんだ。
ぼろぼろの服は、さりげなく離れて浴室で脱衣も着衣もしたのでばれなかった。腰の打撲は知られてしまい、受けようとした僕を制して彼は手出ししなかった。「今壊したら、あとはどうする」と彼は僕を腕に抱き、僕は仕事をこなせない自分に情けなくなりつつ、気心の知れたこの客に甘えさせてもらった。
もちろん彼は気遣いだけでなく、無理強いして僕を壊せば報復があるのではと危懼もしたのだろう。それでも僕は彼に感謝し、フェラにはたっぷりと情をこめて本番分の料金はさしひいた。チップを渡した彼とモーテルの玄関で別れると、僕はあの男がいないかにびくつきながら、〈neve〉に直行した。
〈neve〉にはなぜか“CLOSE”の札がかかっていたが、ショウウィンドウに覗ける店内では掃除は始まっておらず、カウンターで弓弦と頼さんが話をしていた。頼さんが僕に気づいて入口に顎をしゃくり、僕は腰の痛みに眉をゆがめながら路地に入って、開いた自動ドアを抜けた。
暖房のきいた明るい店内は、客がすべてはらわれて、やけに広かった。珠生のすがたもなく、だが来た証拠に弓弦がかたわらに丸めていた茶色のマフラーを掲げる。オーバーだけで寒さにすくんでいる胸をつかみながら、僕はカウンターに歩み寄った。
その足取りがおかしいのに弓弦は眉をよせ、頬の傷に表情自体をこわばらせる。僕はカウンターにたどりつくと弓弦の隣に座り、「あったかいのを」とだけ頼さんに伝えてテーブルに寄りかかった。
「水鳥──」
「珠生は」
「もう行ったよ。あいつ、誰」
「僕の知り合い。助けてくれたんだ」
「みたいだな。えらくやつれてるな。ヤクでもやってんの」
「宿なしなんだよ」
僕は耳障りな呼吸をしていて、頭痛も覚えながら腰に触れた。ほてりが響くように痛む。「客とはやったのか」と珠生にだいたいは聞いたのか弓弦はひそみをし、僕は首を振る。
「痛めてるのばれちゃってさ。しなくていいって」
「……そうか。腰を殴られたのか」
「膝すくわれて尻餅させられたんだよ。聞いたんだろ」
「あいつが見たのは、路地裏に引きずりこまれるとこからだって」
「そう。ごめんね。あのとき始末しておけばよかったね」
「いや。今度は、さすがにやるだろ」
「うん。ていうか、もう死んでるでしょ」
「どうだかな」と弓弦はコーヒーをすすってむずかしい顔になる。店内の客がはらわれているのは、この深刻な話のための人払いと、どのみち五時が近いせいであるようだ。ウェイターやウェイトレスも引き、だだっぴろい静けさは理由のない不安を呼び覚ます。
「その男、お前の軆に倒れたんだろ」
「ん、うん」
「じゃあ死んでないだろうな。ビール瓶じゃそう簡単には死なない。倒れたとこが固かったりすると、そっちで死んだりするけど。お前の軆がクッションになったなら、たぶん生きてるよ」
「詳しいな」
「知っといて損はない職業ですから」
弓弦はカップを置いて咲い、テーブルに上体を折る僕は目尻で弓弦の綺麗な顔立ちを見つめた。ここ最近で、弓弦の外の臭いが気にならなくなっている。感じるけれど、いちいち神経には障らない。「何」と弓弦は涼やかな瞳で僕を見つめ返し、僕は首を振って腕に顔をうずめた。
「豹さんに怒られるかな」
「ん、何で」
「始末、豹さんに頼むんでしょ」
「ああ」
「初めは黙ってたし」
「豹さんは知ってるよ」
「え」と頭だけもたげると、「あの人に隠しごとするのは胃に悪いよ」と弓弦はオーバーの肩をすくめる。
「あのあと、顔合わせる機会があって、最近の水鳥はどうだっていつも通り訊かれてさ。一瞬詰まっちまって、追求されて」
「怒られた」
「不信感持った目はされた。俺の気持ちも分からなくはないって言ってくれたけどな」
「僕が悪かったんだ。人間なら弓弦みたいに感じて当然だよ。もし豹さんに会えたときがあったら、僕が言っておく」
「会いにいかないのか」
「行かないよ」
「会いたいんじゃないのか」
「………、邪魔だよ」
「豹さんは甘えにきてほしいんじゃないかな。そのときも始末したがってた。水鳥が襲われたって聞いた瞬間、顔色変えて目え開いてさ。俺、豹さんがあんなに感情出すの初めて見たよ」
光樹も言っていた。あんな人を落ちこませるなんてそうとう──本音を言えば、豹さんに会いたかった。あの部屋のあの青いベッドで休み、一日でもつきっきりでいてくれる豹さんに甘えたい。しかし、やはり二度と迷惑をかけたくない負い目が願望を抑圧させる。
「水鳥が言うならって、始末したいのも抑えてた。次は水鳥がダメだって言っても動くだろうな」
「……うん」
「あの免許証持ってる」
「ん、うん」
「一応、豹さんに渡すんで」
オーバーのポケットを探り、財布ごと彼に渡した。そんな動作もしんとした店内には響き、何だかいつもがにぎやかなだけに、気味も悪い。頼さんがホットティーを持ってきて、「どうも」と受け皿ごと受け取った。柔らかな湯気と澄んだ香りが、何も感受できなくて怯えていた五感を癒やす。僕は砂糖を紅茶に淹れ、甘い熱で硬直した細胞を緩和させた。
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