青氷の祠-69

見えない怨み

「このあと、あいつを回収しにいくの」
「だな。黒いコートの奴に位置は聞いたんで、見張りはついてる。さっきマークした連絡も来たよ」
「そう。……あいつ、銃持ってるよ」
 弓弦は息を止めて表情を硬化させ、僕は震えを残す息と小さく紅茶を飲みこんだ。
「それで脅されて、首尾よく逃げられなかった」
「……そうか。あの彼は言わなかったな」
「僕もちらっとしか見えなかった。腹に押しつけられて、喉に押しつけられて」
「本物か」
「さあ。少なくとも本人は本物と思ってる感じだった」
「そうか」と弓弦は厳しく神経質な眼になり、眠たそうな頼さんは僕たちの正面をはずれて雑誌をめくっている。
「銃ってのは、この街でもわりとルートが乱れないように規整されてるんだけどな。ま、油断はできないんで連絡しておく」
「うん。前より計画的だったよ。絶対に僕を殺す気だったんだね」
「犯す、じゃなくて」
「殺すって言われた。めちゃくちゃにして殺してやるって」
「……こないだの抵抗を根に持ってんのか」
 弓弦は渋い眉間でコーヒーをすすり、「豹さんは何か言ってなかった?」と僕は安定した腰に落ち着いてきた息遣いで問う。
「え、何を」
「あの男が僕を狙う理由」
「いや、別に」
「あいつが希水の男だとも言ったんだよね」
「ああ。そうだな、釈然としてない感じはあった」
「あの男、僕を怨んでるらしいんだ」
「え」
「希水が言うにはね。話したんだ、あいつに襲われたの。そしたら、あの男は僕を怨んでるって」
「……怨んでる」
 弓弦はいよいよ渋面になり、僕は熱に気をつけて紅茶に唇を浸した。身動ぎの衣擦れくらいの静まり返る店内を振り向くと、その広さにまばゆい照明が瞳で光暈する。通りも明けていく空に色褪せはじめ、僕は暖まった軆をなるべく動かさないよう紅褐色の水面に向き直った。
 頬の裂けめには鈍く圧する痛みが続いていて、手当てをしたほうがよさそうだった。
「心当たりは」
「ないよ。考えてる。何で怨んでるかっていうのは、希水は教えてくれなかった。知らないほうがいいって」
「前から知り合いだったとかでは」
「ない。僕はあいつをぜんぜん知らなかった。つっても、今日希水の言ってたことが嘘ではない証拠はあの男に言われたよ。お前なんか消えればいい、だから殺してやるって」
「………、豹さんは、その男は希水を追ってこの街に来たんじゃないかもって言ってた」
「えっ」
「それにしては現れる時期がずれてるし、そもそもつけ狙ってきたならはなから背後についてるんで、誰彼に訊いたりしないって」
 僕は水面に映る目尻の切れこむ目と見合った。言われてみればそうだ。「じゃあ何でここにいるの」と弓弦を見ると、「俺もそう言ったら、それには考えこんでた」と弓弦は長い指で金のスプーンの柄をいじる。
「お前を標的としてやってきたなら、希水が帰ってきた時期と重なったのは単なる偶然ってのもなくはない」
「………、希水を知らないかって訊いてまわってたよ」
「それはもしかしたらって期待か──あるいは、希水に関する情報から、水鳥の居場所をつかめると思ったのかもしれない」
 僕は胸をはりつめてカップを抱きしめた。
 辻褄は合っている。そうなのか。思い起こせば、珠生はここに来る前と男の元を逃げ出したあとのあいだ、しばらくふらついていたと言っていた。たどる足跡も見失ってあてもなく捜しに出るとしたら、男はこの街には、真っ先に来て珠生より先に現れているのではないか。あの男は珠生を追ってなどいないのか。この街に来たのは、僕を殺すため──なぜ?
 僕は僕を殺したい人間と接したのは初めてではない。蛍華さん、昔の珠生、僕が殺意を感づいていないだけの人も無数にいるだろう。それでも、あの男の殺意には不安になる。実際に手出しされたからか。いや、手出しなら蛍華さんにもされていた。本当に殺す気であったからか。僕は蛍華さんに殺す勇気がないのも知っていた。殺したいと思われている人間とはたくさん接してきても、殺そうとしてきた人間は初めてだ。
 それに、あの男の殺意も分からない。こちらにすれば理不尽な理由さえ思い当たらない。僕と彼には本当に何の接点もない。ストーカーに殺意を持たれるようではないか。しかし、あの男がストーカーになってつけねらうとすれば珠生だ。正確には希水だ。
 何も分からなくて、心身共に防御のしようがなく、僕は不意ばかり突かれる。それで、どうしても怯えて畏縮しきる。今日はっきり感じたあの男の憎しみに、思い過ごしかという気休めももぎとられる。
 無意識に身動いだ僕は、走った腰の激痛にうめきをもらして喉をふさいだ。腫れてきているのだろう。脂汗が浮かび、食い縛った歯に息遣いが崩れる。「大丈夫か」と考えこんでいた弓弦が、我に返って眉をひそめる。
「医者手配しようか」
「湿布貼っときゃ治るよ。明日仕事行けるかな」
「取り消すよ」
「できるの」
「できるよ。……ほら、前にも当日に全部取り消しちまっただろ」
「そっか」と咲ってテーブルに伏せった。左肘にマフラーがあたっている。
「週末には治るかな」
「安静にしてればな。そういや、金曜に休み入れてたな」
「彩雪に行くんだ」
「髪がオレンジの奴のライヴ」
「うん。こんなんじゃ、ごはんも作れないな。光樹に来てもらおうかな。つっても、ライヴ前のバンド野郎っていそがしそう」
「その金曜日まで休みにしちまおうか」
「五日も金入らなくてどうするんだよ。こんなもん三日で治るよ」
「じゃ、水曜まで休み」
「明日と明後日は休んで、次は予約を調整する。水曜の二十一時半がオーラル専門で三時がペッティング止まり、金曜の二時がアナル嫌悪症だよ」
「嫌悪症」
「汚いんだって。そんなもんはホモの風上にも置けないって」
「いろいろいるんだな」と弓弦は咲い、左側のスツールに置いていたリュックを膝に乗せた。取り出したケータイをいじり、ひとまず明日と明後日は休み、今週いっぱいは予約を調整ということになる。
 以前取り消したときもそうだったのだが、こちらの都合で予約をふいにされた客は、次回一回かぎり仲介料が半額になって予約も優先もされる。変更予定の予約を憶えた頃には、外の街並みは蒼ざめた朝に微睡んでいた。
 時計の針は五時半を大きくまわり、店内には奥を先に掃除していた清掃員が現れた。うろうろする彼らにがらんとした印象もなくなり、僕は冷めた紅茶を飲み干す。珠生のにおいもするマフラーを巻くと、あくびを噛む頼さんに謝って弓弦に助けられながら外に出た。空気の冷えこみは額を突き抜け、けれど昇っていく陽射しは弱いながら暖かい。
「送ろうか」
 人も雑多でなくなり、静まった通りに沿った落ち着いた声で弓弦は問う。相変わらずオーバーのファスナーはあげている僕は首を振り、「平気」と珠生を制したときの要領でひとりで立つコツをつかんだ。尾骨はさっきよりずきずきとしている。
「あの男にも、マークはついてんでしょ」
「ん、まあ」
「じゃ、ひとりで帰れるよ。ありがと」
 彼の目を見つめて言うと、「仕事だし」と弓弦は照れ混じりに咲って煙草に火をつけた。僕のとは違う匂いでも、安っぽくはない。そういえば、いつしか珠生は煙草を吸わなくなっている。
「ほかの仕事の邪魔にならなかった?」
「んー、まあ。このあと急いで行かなきゃいけないとこはある」
「ごめん」
「何とかなるよ。豹さんに預かったお前をほっとくのも怖いしな」
「……あのとき、一気にしなかったせいでごめんなさいって、機会があったら伝えておいて」
「ああ。決定した予約の変更は、部屋のポストにでも入れとくよ。希望に添えないとこがあったらごめん」
「ううん。じゃ、あいつのことよろしく」
 弓弦が承知すると、僕たちは〈neve〉の前で逆方向に別れた。
 今日は天気がいいのか、陽射しの色合いは灰色っぽくも、ちぎれ雲は少なく日向を歩くと肌に柔らかい。ネオンも人通りも次第に死に絶え、残る人々は腐ったゾンビというより抜け殻の幽霊だ。
 僕は唇を噛んで香水の匂いで精神を安定させ、突き刺さる腰の痛みに耐えていた。さまざまな鳥が朝を告げる元でビル街に入ると、数時間前、珠生と立ち寄った公衆電話で光樹に電話をかけた。
 聞くところによると、光樹は普段深夜の二時か三時に就寝し、たっぷり寝坊して十時頃に起きる。六時近い現在、彼は思いっきり熟睡中だ。寝るときに留守伝にはしないよなあ、とコールを続ける電話にもたれていると、ベルに光樹が目覚めるより留守電が作動するほうが早かった。
 僕は咳払いで声を整えると、今日のことをざっと話そうとする。が、名前を名乗った途端、「はいっ」という声が受話器の取れる音に重なった。
「あ……、」
『はい。はいはい。え。碧織? でしょ。違う? あれ?』
 寝ぼけてろれつがまわっていないながら、光樹の声だ。「僕だよ」と答えると、「あー」とため息混じりの不明瞭な声が返ってきて、何やら身動ぎの音もする。
『よかった。あー、ああ、寝てた』
「ごめん」
『ううん。はあ。はは、何か絶対出てやるかとか思ったけど。何。あ、待ってね』
 ぎしっときしむ音がし、どさっという音が続く。
『碧織。ふう。ん、何かあったの。こんな、んと、六時。あがった頃か。どこ』
「公衆電話」
『めずらしいね、電話くれるなんて』
「邪魔だったよね」
『ううん。眠いけど。碧織がこんな時間に電話よこすほうが怖いよ。何かあったんでしょ』
「ん、うん。お願いがあってさ」
『お願い』
「僕、今日、またあの珠生の昔の男に襲われたんだ」
「えっ」とあくび混じりだった光樹の声が一気に鮮明になり、「大丈夫だったの?」と勇みたって続けてくる。
「大丈夫、というか──」
『やられちゃったのっ。まさか、そこ病院』
「い、いや、やられてないよ。ここ道端」
『ほんとに』
「うん。ほら」
 僕は受話器に上にむけ、すずめのさえずりを聞かせた。耳に戻すと、光樹の長大息が鼓膜に流れこむ。
「ごめん」
『もう。碧織が変なことされたら、豹さんと組んで何でもやっちゃうよ』
「はは。光樹が手を染めなくても、さすがに弓弦に豹さんへの伝言をあずけたよ」
『ほんと。よかった』
「今回はマジでやられそうになった。珠生が助けてくれてさ」
『珠生が』
「うん。ま、詳しいことは会って話すね。で、僕、男に襲われたせいで腰をすごい打ってさ」
『腰』
「今もがんがん痛い。それでお願いで、ライヴ前でいそがしければよくても、部屋に来て生活助けてくれないかなあと」
『今から』と寝返りの物音が聞こえ、「夕方でいいよ」と僕は背中を通りすぎた何でもない男に一瞬びくりとしてしまう。
「僕、明日と明後日、休みになったんだ」
『そんなにひどいの』
「アスファルトに全体重で尻餅だし」
『………、どう襲われたの』
「ま、会って話すね。二日だけ、一日じゅうは侍ってなくていいし。いいかな」
『もちろん』
「ライヴに一週間もないよね。平気」
『平気平気。リハは前日だし、練習もバイトも夜だし。夕方っていうか、お昼さがりぐらいに行けばいいよね』
「うん。助かる」
『分かった。行くよ。任せて』
「ありがと。じゃ、お昼にね」
『うん。ばいばい』
 ほっとしながら受話器を置いた。百円で利用したのでテレカは出てこない。透いた深いため息をつき、停止に鎮まっていた腰をふたたび痛めつけるのを覚悟すると、部屋への道のりをたどりだした。
 光を帯びていく陽射しは優しくも、香りや髪をなびかす風は澄みきって冷たい。弓弦にはああ啖呵をきっても、正直二日や三日で治るか分からなかった。でも筋肉痛はそれぐらいで治るし、たかだか尻餅だ。骨折したわけでもない。
 湿布は薬箱にあるはずだし、毬音に貼ってもらって今日はただちに休もう。夏乃が帰ってきたら地獄だな、とこんなときに限っての不吉も案じつつ、背中に当たる朝陽に追いたてられて廃れていく帰路を急いだ。

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