ひと休みの午後
翌日の十五時、夕べは腰の痛みになかなか寝つけなかった僕は、光樹がやってきて鳴らしたドアフォンで目が覚めた。まくらに顔を伏せったかたちのままで、動こうとするとずきんと腰に痛みが刺さる。
僕はまくらをつかんで、バターの匂いに首を左に捻じった。トーストをかじる毬音がこちらを見下ろしていて、「光樹だから」と僕が言うと彼女は立ち上がって玄関を開けにいった。夏乃とかもありうるかなとちらりと思ったものの、さいわい顔を出したのは光樹で、彼は僕のざまに目を開いた。
「大丈夫?」
「あんまり」と僕はまくらに顔を伏せなおす。頬の傷には絆創膏を貼っていた。暖房の吐息とおとなしい陽射しがうなじにかかる。
「ぎっくり腰なの」
「打ち身だよ」
「腰をねえ。あ、湿布買ってきたよ」
「昨日あたしが貼ってあげたよ」
「あ、そうなの。ま、消耗品なんでもらって」
「うん」
毬音は光樹の前だと女の子になる。気があるんじゃないだろうなと思っていても確かめたことはない。光樹は床に茶色のリュックをおろすと、僕の頭をぺんぺんとした。
「遊ばないでよ」
「食欲ないの?」
「ん、別に。何で」
「毬音ちゃんだけトースト食べてるし」
「僕、今起きたんだ」
「起こしちゃった?」
「平気だよ。寝坊ぐせついても困るし。あ、痛っ。もう嫌。バカ。ちきしょう」
「僕を罵らないでね。ごはんの前に湿布変えようか」
「うん。お願い」
光樹は毬音に訊いて薬箱を持ってくると、ふとんを剥いだ。「寒い」と僕が身を縮めようにも縮められずにうめくと、「暖房の温度あげて」と光樹は毬音に頼む。毬音はそうして、光樹は僕のポリエステルパンツと下着をずらすと、尾骨に貼られた湿布を剥いだ。
「うわ。すごい紫。腫れてるし。病院行ったほうがいいんじゃない」
「保険証がないよ」
「そんなもんいらないお医者さんいるでしょ」
「まあ、うん。行かなきゃ治らないかな。行ったら早く治る?」
「湿布くれるだけだろうね」
「じゃ、いいよ」
「そだね」と光樹は特有の臭いの薬箱をあけ、湿布の箱を取り出す。透明の剥離紙を剥ぐと、光樹は僕の腫れた腰にひんやりした湿布を乗せた。
毬音は僕をはさんだ光樹の向かいで、香ばしいトーストを食べている。「僕のふとんにクズこぼすなよ」と言うと、彼女は一歩引いた。「碧織って良くも悪くも毬音ちゃんを子供あつかいしないよね」と光樹は咲って、剥いだ湿布と剥離紙を重ねる。
僕はパンツと下着をずりあげ、ふとんは光樹にかけてもらった。
「僕、二十時にバイトあるんで、一気にごはん作っていい。あとであっためればすむもの」
「買ってきていいよ。お金あるし」
「いや、こういうときにまともなごはん食べないと」
「冷蔵庫、ろくなものがないよ」
「じゃ、買い物いきますか。洗濯物は」
「昨日の朝に行ってたんで」
「そっ。掃除はきちんとしてる?」
「ほとんど」
「しなきゃダメだよ。しようか」
「面倒じゃない?」
「ホコリ吸いこむと僕も喉に悪いし。むしろさせて」
「そっか。じゃ、お願い」
「よし。碧織はゆっくりね。毬音ちゃん手伝ってくれる?」
「うん」とトーストを食べ終えた毬音は立ち上がり、僕はひと安心でふとんに身を任せた。ほてる痛みを湿布の冷たさがなだめる。
カーテンが開けられていて、上目をすると瞳に弱い陽射しが当たった。周囲の住民も目覚めるか目覚めないかなのか静かで、暖房の息遣いとキッチンの話し声だけが眠たい耳に触れる。細目になった僕はまくらに顎をうずめ、マフラーを横目に今回のことを憂慮した。
あの男は、自分を殴ったのが珠生だと気づいたろうか。背後から一撃で気絶させられたのだし、ばれなかったとは思う。もし気づいていたとしたら、珠生の安否に黒雲が忍びこむ。
まあこの話が豹さんに伝わり次第、男は武器もあえなく捕獲されるとは思う。豹さんに始末されるということは、そういうことだ。豹さんは無闇に人を殺さないほうではあると思うが、やるとなればあっさり決断をくだす。豹さんが手をくだすかは分からなくも、あの男はさんざんなぶられて死を光の出口とすることだろう。バカだな、と僕は綿のつまったまくらをぎゅっと抱きしめる。
あの男は、僕が弓弦の傘下であるのは知っていたかもしれない。豹さんの存在は知らなかったのだろう。ここでは僕の立場は弓弦のものであるように定着したため、僕が豹さんに抱えられているのはあまり周知されていない。弓弦が行なう報復も冷徹で恐ろしいと思うが、豹さんはそれ以上に殺人を自由に行なえる。もしくは、あの男はみずからの死とも引き換えに僕を殺したかったのか。
珠生はあの男が消されると予測しているだろうか。思いがけなかったとして、知ったらどう思うだろう。喜ぶか、ほっとするか、驚くか──まあ、珠生はあの男を今は愛していないと言うけれど。
光樹は軽く焼いた食パンで、たまごサンドイッチを作った。僕はそれを腹這いでさくりと食べ、光樹は手際よく食器を洗ったり床を掃いたりする。「いいお嫁さんになるよ」と言うと、「腰蹴るよ」と光樹は恐ろしい切り返しをして食後の紅茶を持ってきた。僕がその熱い渋みを舐めていると、光樹は掃除を済ませてキッチンに戻る。
今日は冷蔵庫にあるもので食事を作れそうだと、買い物は明日になった。光樹は昼食にたらこパスタを、夕食にカレーを作ってくれる。光樹には従順な毬音も手伝った代物だ。ひと段落ついたのが十八時前で、明かりをつけてカーテンを閉めた光樹は、ようやく僕の昨日の事件の話題にありつけた。
僕は腰を安静にする体勢を崩さず、男に襲われたこと、珠生が助けてくれたこと、仕事に這ってでも行ったこと、その後弓弦に会って話したことを語った。外部にべらべらもらす話ではなくも、光樹はそのへんは分かって、吹聴はしないだろう。
毬音は隣で興味もなさそうに絵を描いている。クレヨンの匂いが暖房に循環し、周囲の妙な物音が届きはじめていた。
僕のまくらもとで紅茶に口をつけていた光樹は、「重いね」と神経質な顔でひとまずの感想を述べる。
「珠生が希水だって言わなかったんだ」
「何となく。弓弦にはあいつの生活ばらさないのがいいとも思うし」
「ショッキングだから」
「いや、あいつ無断で立ちんぼやってるわけでしょ」
「あー。しかし怖いね。ほんとに碧織を殺しにきたのかな」
「辻褄は合ってるよね。弓弦がそう見て、豹さんもそう見るなら濃厚だよ。あいつは珠生を追ってなんてないのかも」
「はあ。殺すとか殺さないとか、僕には非現実な感じ」
「僕にもそうだよ。現実に迫ってきてちょっと怖い。理由も分かんないし」
瞳を正面に沈ませ、「大がかりになってきたね」と光樹はカップを抱いた手を床におろす。
「うん。つっても、片づきはじめてるんだよね」
「そっか。豹さんね。碧織が殺される心配はなくなるのはよくても、そしたら何で碧織を殺したいのかがうやむやになっちゃうね。豹さんが聞き出すかな」
「どうだろ。僕が聞き出すとしたら残るは珠生だね。あいつは理由知ってるみたい」
「昔のこと、とか言ってんだっけ。蛍華さん。おうち。蛍華さんの昔の恋人とか」
「何で蛍華さんの昔の恋人が僕を殺したがるの」
「子供の頃の碧織に手え出してたんじゃないの。自分のものにしておきたかったのに、なぜ淫売で公共になる」
「それ、どっちかって言うと豹さんの心情だよ」
「そうか。でも、ないかな?」
「んー。何とも言えない状況ではあるけど。違う、と思う。だって、あの男の僕への憎悪って、純度百パーセントだったもん」
「おもしろい表現。愛が裏返った感じではないんだ」
「うん」と僕はまくらに左頬を押しこみ、光樹は疑問のわだかまる目をカーテンに投げかける。
重苦しく考えこむ僕たちを、毬音は髪をはらうついでに顔をあげて眺めた。「毬音ちゃんは碧織が殺されたらどうする?」と光樹は悪戯に咲いながら毬音に問う。
「え、……分かんない」
「弓弦あたりが引き取ってくれるさ。僕なんかいなくなったほうがいいだろ」
「ママが来ないほうがいい」
「夏乃さんね。そういや、今来たらやばくない? どうすんの」
「居留守を押し通す。つっても、最近来ないよ」
「な」と毬音に腰に響かないよう首を捻じると、「パパがいないときにドアたたいたりチャイム鳴ったりしてるよ」と彼女は僕には生意気に澄ましている。
「毬音ちゃんをさらおうとしてんのかな」
「ぬいぐるみじゃ物足りないのか。僕はひと月ぐらい顔見てないよ。そろそろ派手に来そうでやだ」
「引っ越すんだよね」
「うん。あ、しまった。また弓弦に言うの忘れてた。襲われるとダメだなあ」
「勝手に引っ越しちゃダメなの」
「夏乃に気取られない場所がいいし。それにここ、豹さんがくれた場所なんで、断ってはおきたい」
「そう。豹さんに関しては、僕も弓弦くんに同感だな。豹さんは碧織に会いにきてほしいと思うよ」
僕は光樹の豊かな瞳にそろりと上目をし、「うん」とあやふやに喉でうなずいてまくらに顔を伏せた。髪の匂いの合間に、香水の匂いがする。
僕は、たとえ豹さんが迷惑だと思わなくても、手間をかけて時間をわずらわせたくない。毬音の手前そんな湿っぽい台詞は言えずとも、光樹は僕の心は感じ取ったのか、黙って僕の頭をぽんぽんとした。
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