血の忠誠
次の日も十五時頃にやってきた光樹は、その日は七夏を連れていた。「何で」と首をかしげたら、車で送ってきてもらったのだそうだ。このあとはスタジオで、いずれにしろメンバーと合流する予定だという。
やっぱりただの打撲で身を起こせるようになっていた僕は、改めてライヴ前を邪魔しているのを謝った。光樹は首を振り、「それより、起きて平気なの」と愁眉して茶色のリュックをおろす。
「うん。刺さるって感じではなくなったし」
「ほんと」
「ほんと。触ると痛いってぐらいで、今日無理しなければ、明日にはマシになってると思う」
「そう。じゃ、今日は一番無理しちゃいけないんだね。はい、寝る」
「はい」
素直に横たわる僕に、「過保護だな」と鍵とキーホルダーを指に絡ます七夏は苦笑する。
「七夏だって、拓音が倒れたら過保護になるでしょ」
「んー、まあ。というか、俺より果樹さんが看病しそうな」
「じゃあ、美静が倒れたら誰が看病するの」
「美静には親がいるでしょ。あれ、僕、誰もいないな。やば」
「お前にも母親いるじゃん」
「倒れたっつうのに、さらに外に行くの」
「ここにも僕がいるよ」
光樹は僕を見て、僕は光樹に上目をして、「へへ」と何だか笑いあった。「ホモっぽいな」と腰をおろした七夏を光樹ははたき、「湿布変えなきゃね」と身を硬くしていた毬音に薬箱を持ってくるのを頼んだ。
毬音は七夏とは初対面ではなくも、ほとんど接したことがない。七夏のなりも毬音に警戒を抱かせているのだろう。赤いメッシュ、耳たぶに連なるピアス、革のジャケットに鋲打ちジーンズ──そんなわけで、僕の朝食をこしらえた光樹は、僕に予算をもらうと毬音を誘って買い物に出かけた。
「ごめんね、七夏にまで迷惑かけちゃって」
食事をするなら、やはり身を起こしたほうがいい。上体を起こして目玉焼き丼を食べる僕は、なまった背中に午後の陽射しと暖房を浴びながら言った。七夏は赤いメッシュを揺らして首を振り、「俺が自分でついてきたんだ」と立て膝をして咲う。
「自分で」
「光樹は二十時頃に迎えにきてくれればいいって言ったんだ。スタジオ、二十一時からなんで」
「七夏たちって、こっち苦手なんだよね」
「ここはさらに怖いです。つっても、俺、部屋にいたくなくてさ」
胡椒がかかった白身を箸で切り分ける僕は、「何かあんの」とかたむけた首に髪を陽に透かす。
「ほら、例の本気じゃない彼女。を、振ったんですね。泣きつかれてるとこなんです」
「うわー。って、向こうも本気じゃないんでしょ」
「先手を取られたのが悔しいらしくて。女ってタチ悪いね」
「ホモになったら?」
「んー、ホモになったら、俺は男ってタチ悪いって言うのかな。俺が恋愛下手なだけか」
「光樹も自分の恋愛を愚痴ってるよ。例の子とどうなったか知ってる?」
「逃げまわってるみたいだよ。生半可に手え出したのが仇になってるご様子。今度のライヴで鉢合わせにならないかにビビってる」
「光樹はいい恋愛できると思うんだけどな」と僕はたまごの白身のかかったごはんを口にふくむ。僕は目玉焼きには塩胡椒以外かけないので、たまごと塩の匂いがそのままに立ちのぼっている。ごはんは昨日の残りで、光樹はさっき釜も洗っていた。「俺もそう思うよ」と七夏は鍵を床に置いてあぐらになる。
「光樹は、相手に心を開くのに憶病になっちまってんだろうなあ」
「そう?」
「と、思うよ。あの歌詞で見るに。あいつはあれでわりと不信感のかたまり」
歌詞。確かに、歌詞を見ると光樹の他者との距離はただごとではない。
「あれは外の人間とのでしょ」
「ま、ね。つっても、本質的なとこは損なわれてると思うよ。母親で」
「光樹は陽香さん好きなんだよ」
「知ってる。でも、ほんとに好きでいるべきか揺らぐときもあった。そういうのって、のちのち響いてくるよ。ものすごく人生に水を差す。一滴だって愛は疑わせちゃいけないんだ」
七夏を眺めながらくすんだごはんを口に運び、もぐもぐとした。僕の無頓着な視線に、「ごめん」と七夏はばつが悪そうに咲い、僕はごはんを嚥下する。
「外っぽかったかな」
「別に。そうなのかな。僕には分かんない。母親に疑うも何もなかったもん。はなから愛してなかった」
「娼婦なんだっけ」
「うん。僕はあの人嫌いだけど、そっくりだと思うよ。僕は顔も行動もあの人のまんま。同じように男をたらしこんで、同じように子供を愛せなくて」
「毬音ちゃん、俺にガンつけてたな」
「七夏の言う通りなんじゃない。僕に愛をもらってないんで、不信感のかたまり」
「碧織くんはわりと開けてない?」
「僕は淫売だから。開いたように見せるのが仕事だもん」
僕は咲って黄身をつぶし、どろりとごはんを黄に染めた。七夏は僕と並行に脚を伸ばし、「碧織くんの匂いがする」と後方に手をついて天井に喉を向く。
「香水」
「香水も染みついてる。めずらしいよね、香水こなせる男って」
「似合うってきどってつけてるわけじゃないよ。単にこの匂いが好きなんだ」
「そっか。分かるよ、匂いの強さは。俺の場合、嫌な臭いの強さだけど」
「酒の臭い?」
七夏は僕を見た。「拓音がね」と僕は箸についた半熟たまごを舐め、「そっか」と七夏は再び天井を仰ぐ。
「さっきのも俺の経験上の話だよ」
「さっきの」
「愛は疑わせちゃいけませんって。俺は、光樹以上に父親にぶれが激しかったからなあ」
「愛すべきか、憎むべきか」
「今も分かんないよ。答えが出せてる光樹がうらやましい。答えを出せてて、しかもそれが愛してるだったから、俺は光樹には恋愛の素質があると思うんだ。俺はどうだかな。永遠に答えは見つからないんだし」
「死んじゃってんだよね」
「アル中でね。ひとりで死んだんだ」
七夏は嘲笑をもらしたけれど、それが他者へか自己へかは分からなかった。僕はファントムリムのなかで、七夏の血への忠誠がもっとも不可解だ。
「子供の頃からでしょ」
「うん。母親の顔は憶えてない。そりゃ早いとこ逃げるよな、あんな酒乱の男」
「七夏も置いてったの」
「うん。『迎えに来る』って言われた気もする。はっきり憶えてない。憶えてたくないんだ。ほんとに言われてたら、嘘つかれたことになるし」
僕は黄身のかかったごはんを箸にすくって口にした。生たまごの味に近くも、胡椒がきいていて生臭くはない。
「学校は行かせてもらえてたの」
「俺はわりと学校が救いの場所だった。拓音で友達の作り方も知ってたし。で、その自由にかこつけてあとでグレてったんだけど」
「父親はグレることに何も言わなかったの」
「言わなかった。代わりに酒を飲んで暴れた」
「拓音の気持ちは知ってるよね」
「俺もそう思えたら簡単なのにな。自分でも不気味だよ。憎めばいいじゃんって、思うんだ。憎んで当然だろって。何で悩むんだろう」
拓音は咲い、赤い髪の隙間の弱くかすれた目に、僕もその嘲笑が彼自身に向かっているのを窺知する。
「とうさんが俺をどう想ってたかが分からない。それが悪いんだ。とうさんは酒さえ飲まなきゃ、仕事ばっかの父親より優しかった。あの家庭がつらかったのは確かで、でもこのつらさを何に憎しみとして訴えればいいのか分からない。とうさんをあんなふうにした酒かな。そんな酒を辞められなかったとうさんかな。俺がバンドに打ちこんで家を離れてるあいだに、とうさんは酒に飲まれて死んじまった」
僕は箸の先で、黄身にきらめくごはんをつついている。暖房が詰まっていた息を吹き出すように温風を吐いた。
「死ぬときぐらい、そばにいればよかったって思う。一生、思いつづけるんだろうな。そのときぐらい、ほんとのこと教えてくれてたかもって思うから」
僕はごはんを食べた。脳裏によぎる蛍華さんに、つい歯に力がこもって頬が疼く。
「つらくはあったんだ」
「楽しくはなかったよ。とまどいってのも大きかった。とうさんがいないとき拓音はとうさんを毒づいて、俺は曖昧にしかうなずけなかった」
「グレたのは自発?」
「殴られて拓音と夜に家を出て、学校は明日の朝までないんで街でも行こうかって。どちらからともなくか」
「拓音は後悔してたんだよね、渦中にいながら」
「俺はこれが救いの道かもってのめりこんだ。他人の血を浴びて、ヤクで血を穢して、とうさんの血を薄めて消したかった。拓音がとうさんを憎めるのは他人だからで、俺もそうして他人になれば憎むのに落ち着けるかなって。俺はこの血が忌ま忌ましいよ。この血が冷静な判断を妨げてる。この血にとうさんの血が流れてなければ、もっと冷静に事実を見極められるのに」
けれど、そういうところこそ血に忠誠なのだとも思う。僕はこの心臓が蛍華さんの血を吐き出すのを忌ま忌ましいとは思わない。瞬間的に憎むことはあれ、普段はこの血にあの人の血がめぐっていることなど忘れている。僕と蛍華さんは、完全に断絶した他人なのだ。精神が肉体の事実を侵略している。
「碧織くんはそうじゃない?」
そう問われてそのまま説くと、「そうか」と七夏は空に目を細めた。睫毛が心もとない陽光に透き、ピアスに光がしたたる。
「いいな。愛してるでも憎んでるでも、答えが出せてる人は。それで人生の指針が決まるんだ。俺はとうさんを半端に亡くしたんで、死ぬまで人に対して半端なんだ。それがすごく怖いよ」
「光樹とか拓音がいても」
「………、拓音たちみたいに思える女の子がいればいいのに」
「いるよ。そう簡単に出逢えないだけだよ」
「そうかな」
「僕も毬音の母親で女にはうんざりしてる。でも、光樹とかみたいに想える女となら、考えてもいいかなって思う。恋愛が下手っていうか、相性に厳しくなってるんだよね」
七夏は僕を向いて微笑み、「やっぱ光樹の幼なじみだね」と言った。僕は照れ咲って温かいうちにごはんをかっこむ。光樹が淹れておいてくれたものの、冷めてしまった玄米茶で、口内のたまごを飲みこむ。そこに映った僕の瞳は、風穴を空けている。
七夏に食器をシンクに持っていってもらうと、僕は腰を気遣ってふとんに仰向けになった。昨日精神安定にまくらに吹きつけた香水が、首筋に立ちのぼって神経を癒す。静かな室内で、僕と七夏は週末のライヴや差し障りない範囲のおとといのことを話した。
僕の瞳に穴を空けたのは、一種、揺るぎのない七夏の父親への親愛だ。僕なら迷ったりしない。即決で憎む。七夏は迷う時点で父親を愛しているし、許しているのだろう。僕は蛍華さんを憎んでいる。あれは許すも何もない暴力だった。蛍華さんは僕に迷わせなかった。即断で、徹底的に自分を憎ませた。僕に愛されても迷惑だとでも言いたげに──僕は七夏のようには、蛍華さんを想えない。
日が陰ってきた十六時過ぎ、光樹は荷物と毬音を連れて帰ってきた。相変わらず毬音は七夏を警戒している。しかし買い物ちゅう、光樹に七夏を怖がることはないと諭されたのか、先ほどより敵意はなかった。僕と七夏は顔を合わせて笑ってしまう。「動物とガキは、馴れ馴れしいか牙剥き出しだからね」と僕が言うと、獣と同列あつかいにされた毬音は不愉快そうにした。
食事を作り終えた光樹は、今日は特にやる家事もなく、二十時までゆっくりと僕の相手をしてくれた。「ライヴ来れそう?」と心配した光樹に、「壁にもたれてるだけだもん」と僕は咲う。「何なら送ってもいいよ」と鍵をかちゃかちゃさせた七夏に、「つらそうだったらお願い」と気張ってもしょうがないので、万一は甘えさせてもらうことにした。
毬音は僕か光樹の隣でおとなしくしていて、彼女としては、大人の男三人に囲まれているのも居心地が悪いのかもしれない。二十時過ぎに光樹と七夏が帰ると、彼女は床に伏せって息をついていた。
「七夏怖かった?」
「……怖くはないけど」
「男怖いか」
「別に」
「珠生にあんなのされたんだもんな」
「………、あの人──」
「何」
「何も」
「何だよ」
「パパを助けたんだね」
「まあな」
「あたしにあれをしようとした」
「うん」
「ほんとは──」
毬音は口ごもって腕に顔をうずめ、「何」と上体は起こしている僕は眉間に皺を刻む。毬音は首を振ると、起きあがってスケッチブックとクレヨンを取ってきた。
「何だよ」と問いつめても毬音は何も言わない。僕は毬音に不機嫌な目をやったあと、空中に瞳をほどいて息を抜いた。
明日は仕事だ。別段わくわくはしなくも、憂鬱ではない。男に抱きしめてもらうのが特効薬なのに、腰を折るように抱かれてはいけないのが残念だ。
ちなみに、夕方頃に光樹に一階のポストを見にいってもらうと、ダイレクトメールやチラシに混じって、綺麗な青い封筒が届いていた。そこに入っていたのは変更された予約で、あの日弓弦と打ち合わせたとおりの変更だった。ので、予定の記憶を書き換える必要もない。明日僕をつらぬくのはひとりで、でも、なじみなので遠慮するかもしれない。
情けないなあと本当に思う。腰を痛めたといって、こうして休むのが正当だとは思わない。こんな休暇は、淫売にとっては恥だ。蛍華さんなんて、男にぼこぼこにされようが、翌日には化粧で完璧に痣を隠して、きりっと勤めに出ていた。
あの人は自分にも僕にもだらしなかったが、仕事に関しては玄人だった。今だってきっと蛍華さんは男に抱かれている。僕のこの休暇は、まるで素人だ。結局そうなってはいるけれど、僕は蛍華さんみたいにはなりたくないと思う。ただし、仕事に関しては、あの人を踏襲して越えてやりたい。
絵を描く毬音を視界の端に引っかけ、僕はふとんに仰向けになって、明かりを眼球に残像させていた。
蛍華さんは相変わらず珠生に行動を起こしていない。希水が帰ってきたのを耳にしているのは確実だ。珠生は中枢に帰りたがらない。もしかして蛍華さんと喧嘩した勢いで駈け落ちしたとかなのかな、とヒマに任せて臆測し、僕は香水とふとんに沈んでクレヨンが紙を走る音を聴いていた。
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