青氷の祠-73

遠のくように

 十二月に入って数日が過ぎた日、治った腰の休暇もはさまれたことだし、と僕は休息日に〈neve〉におもむいていた。テーブルに混じろうとしたらカウンターの頼さんに呼びとめられ、予約のメモと見憶えのある青い封筒を渡される。
 案の定弓弦からだそうで、こごえた指でひらいたふたつおりの紙には、あの男を始末したことが簡潔に記されてあった。「何て」とにやりとした頼さんに内容を見せると、「職権乱用したんだろうな」と頼さんは豹さんに苦笑いした。
 豹さんに関しては何も書かれていなかった。どんなふうに始末したかも書かれていない。とはいえ、あれから二週間近く経っての連絡なのを見るに、そうとういたぶられたのは確かだ。男がなぜ僕を殺したがったのかにも触れられていなかった。
 暗黙の了解として、こんな物騒な報せは細かくちぎって捨てた。頼さんに熱いミルクティーを注文すると、マフラーをほどきながら男娼たちがにぎやかなテーブルに混ざる。内輪では騒いだのでおおごとのようだったが、今回の一連は水面下に抑えられてうわさ話にはなっていない。
 僕の不在時にも流言にはなっていないと頼さんに聞いている。外部に垂れながしになってはまずい事件だし、さすがにふざけた報告ではないだろう。事の根源は片づいた。あとは関係者が口をつぐんでいれば、跡形もなく消えてしまうだろう。
 あれ以来、珠生にも会っていない。珠生には手を出さないでほしいと弓弦に頼むのを僕は忘れていた。豹さんが相変わらず僕を猫かわいがりしてくれているとしたら、僕に被害を持ちこんだ原因の一部として、珠生を仕留めているのもなくはない。しかし、僕を助けたのは珠生だし、そう短絡的なこともしないか。僕に害が及んで申し訳なくなり、珠生が自発的に街を出たのもありうる。もし珠生があの男の影に怯えているとしたら、消されたのを教えてやりたいけど。
 弓弦を通して、豹さんに珠生を救ってやってほしいと言おうかとも思っている。今や、珠生が昔の珠生と違うのは明らかだ。窮地を助けてもらった借りもできた。救って正当だし、優しすぎることもない。珠生が思っているほど、豹さんが珠生を嫌悪しているとも思えないし──夏乃の結婚の真偽と一緒に今度こそ弓弦に言おう、とマジックペンで書きこむようにくっきりと記憶した。
 ふらりと買い物に来て僕を選んだ男と、十九時半頃にぬくぬくした〈neve〉を出た。彼は若くて気弱そうで、淫売というより男を買うのを恥じている様子だ。やっぱいいや、と今にも言い出しそうで、逃がさないためにも僕は心を許してくれるまでべたべたしないでおく。瞳が合ってこぼす笑みも、色っぽいものでなく普通のものにしておいた。男娼を買うのはそういやらしいことでもないらしいと彼がほっとしてくると、僕はこの寒空で汗ばむ手とさりげなく手をつないだ。
 今日はひときわ寒風が強く、ざわめく周囲も上着や恋人で防寒をしっかりとさせている。イルミネーションが抜ける空中に目をこらすと、空一面を雲がおおっているのが分かった。雪でも降りそうな、きんと来る寒さだ。僕はすっかり僕の匂いがなじんだマフラーに首をすくめ、彼の手を握ってその熱を分けてもらった。
 モーテルにしけこむと、初会の客と同じなのでお話から始める。二十二歳の大学生、たぶんひとりっこで親元暮らしだ。嫌悪感のある顔立ちではなくも、頬や額に残るにきびの痕がいただけない。これまではポルノどころか普通の雑誌の切り抜きと右手が恋人だったのだろう。春を買うのは初めてではないが、ほぼ初心者に近い。今はまだつらぬきたいとかより、男と触れあうことを肌になじませたい。何気ない話で彼の願望を見抜いていくと、僕はいつのまにか彼と間隔をうめてぴったりと隣に座っていた。
 彼は僕に不明瞭に咲うばかりで、髪にさえ触れてこない。僕がその薄い肩に頭を乗せると、狼の頭にでも触れるみたいにびくつきながら髪を撫でてきた。ぎこちない動きがなめらかになると次に移るのを積み重ね、彼はこわごわと僕に口づけてくる。この果物っぽい甘ったるい味は、ガムだろうか。僕は彼の背中に腕をまわし、稚拙な舌を矯正しながら応えた。
 どこかに聞こえる嬌声に臆す彼に、結局僕たちは軆は合わせず、僕が上半身を剥いて彼の性器を口に含むまでだった。それでも彼にはかなりの冒険だったのか、僕が後始末をするとベッドにひとりで休ませてほしいと頼んでくる。
 僕は気配を消して、ベランダのガラス戸で冴え渡るイルミネーションを見つめていた。暖房がうなじに降りそそぎ、いつもの匂いをさせてくれる。彼に呼ばれるとベッドに戻り、服を着たままで抱きしめあった。「また会える?」と問われて弓弦のケータイの番号を教える。モーテルの玄関で別れた彼が人混みに消えていくのを、僕は長らく見守っていた。
 ぼんやりしそうになっても、唸って吹きあたる風がはっとさせる。僕は温もりの残る指でマフラーを結いなおし、人や光や音がごちゃごちゃする通りに混ざろうとした。あの男が仕留められたか不安でひとりで歩くのが怖かったが、今日からはそれもない。豹さんがやってくれたのなら確実だ。頼さんとこであったまろ、と階段に足を踏みおろしかけた僕は、「碧織」と真正面に呼ばれて数段の階段の下に顔を向けた。
 え、と思わず目を開いた。そこでは、珠生が白い吐息と僕に微笑んでいた。とっさに彼だとは信じられなかった。身なりがきちんとしているのだ。風になびくのは、適度な長さの艶やかな黒髪と黒いフリーツのコート、下の服もネイビーのトレーナーとブルージーンズだ。こけた頬や青白い肌は変わりなくも、装いはみじめったらしくない。
「……珠生?」
「うん」
「どうしたの」
 珠生はひかえめに咲って階段をのぼってきた。その笑みにも自嘲はなく、ただし、高さが同じになった瞳は依然として弱くもろい。
「珠生──」
「腰、治った?」
「ん、うん」
「仕事は?」
「できてる」
「そっか。よかった」
「どうしたの。服、新品だね」
「うん。こないだ揃えたんだ」
「元のとこでも行ったの」
 モーテルの看板がおろす青い光の元で珠生は首を振り、「金くれたじゃん」とゆいいつ変わらないスニーカーに目を落として咲った。
「全部安物だよ」
「そ、そう、なの。でも真っ当に見えるよ」
「そうかな。ならよかった」
「すっからかんなんじゃない」
「いくらか残してる。電車賃ぐらいないと困るし」
「電車賃」
「俺、この街を出ようと思うんだ」
 前触れのない決断に、無意識に綻ばせていた頬を止めた。街を出る? 珠生は風に乱れた安っぽいシャンプーの匂いの髪を抑え、「俺なんか出ていったほうがいいだろ」と自嘲と苦痛を綯い混ぜて微笑む。
「何で。僕があんなのされたから」
「いくらかは」
「それなら大丈夫だよ。あの男は片づいたんだ。いないんだよ」
「いない」
「僕にあんなのして、豹さんが黙ってるわけないだろ」
 珠生は刹那ぽかんとし、意味を解すると次第に隈を残す目を開いた。僕はうつむいて硬い指でオーバーの裾を握る。風の唸りと通りの雑音が吹き抜け、「そっか」という珠生の吐息より静かな声に目をあげた。珠生は絞っていくようにまぶたをおろし、ついには沈んでうなだれる。
「ごめん」
 なぜか口が謝罪し、「碧織が謝ることないよ」と珠生のほうが場違いそうに咲った。
「でも──」
「事実あんなのされたんだ」
「珠生は、あの男が消えたらつらくない?」
「まさか。あんな奴消えたほうがいいのは、俺が一番知ってるよ。俺が礼言わなきゃな。ありがと」
 珠生の傷んだ微笑に、僕の脳は白くなって喉は粉になった。僕があんな男は消えてほっとするなんていうのは、あの男が消える理由にはならない。もしかしたらあの男の存在が必要な人もいたかもしれない──珠生の瞳はそう後悔させる疑念を持たせるも、本当のところは読ませない。
「あ、仕事行かなきゃいけない?」
「ん、ううん。今日は休みなんだ」
「ここって──」
「予約して落ち合った客じゃない」
「そんなのもするのか」
「立ちんぼしたんじゃないよ。お店に溜まってたとこを選ばれたんだ」
「そっか。じゃあ、時間はあるんだ」
「まあね」
 珠生はコートのポケットを覗き、「五千円でどこまでさせてくれる?」と言った。僕は青い光に浮かぶ珠生にまぶたをあげる。前髪もさっぱりさせた珠生は、はにかむような悪戯なような笑みをした。その笑みに、一度爪先を見つめて風に体温を奪わせた僕は、「お話までだね」と珠生の冷たい手を取った。珠生は柔らかに一笑すると、「それができればじゅうぶん」と僕の冷たい手を握り返した。
 背後のモーテルで五千円で足りる部屋の鍵をもらうと、僕たちはその部屋に行った。明かりに浮かんだ部屋に、「こんなまともな部屋久しぶり」と珠生はベッドに腰かけ、僕は暖房を入れる。精液の臭いを何か爽やかな匂いが抑えていた。壁では腿に届く性器のかたちを際立てるジーンズ一枚の男がポーズを取っていて、珠生が苦笑する。僕はその隣に腰かけ、身じろいで珠生と顔を合わせた。
 何だか気恥ずかしい笑みがぶつかり、僕は爪先でベージュの絨毯をいじる。珠生は僕を見つめている。「寒い?」と問われ、「何で」と顔をあげずに訊くとマフラーに触れられ、「ああ」とそれははずした。
「何か変な感じで」
 膝でマフラーを丸めると、「うん」と珠生は長い睫毛を伏せがちにする。
「ほんとに、外に行くの?」
「うん」
「男のことは気にしないでいいんだよ」
「碧織が俺にいてほしくないだろ」
「………、僕は、豹さんに珠生を頼もうかって思ってた」
「え」
「仕事をあてて、きちんとさせてやってくれないかって」
 珠生は僕に驚きを走らせ、僕は何となく頬を熱くして瞳を床に揺らす。
「お節介かな」
「いや──。どうして、そんな」
「助けてくれたし。今の珠生なら、いてもそんなに癇に障らないし」
「ほんと」
「うん。僕はいてもいいよ。昔に戻りたくない、とも思うんでしょ」
「うん」
「じゃ、いたらいいじゃん。豹さん、世話してくれるよ」
「……してくれないよ」
「してくれるよ。僕が頼めば」
「……そうだな。碧織の頼みならって、いやいやするかも」
「豹さんは珠生を嫌ってなんてないよ」
「嫌ってるよ。知ってるんだ。俺はあいつに、お前と蛍華さんが見てないとこでいつも敵意を刺されてた」
 珠生の声には紛れのない過去を掘りあてた確信があり、そうなのかなと僕はとまどい混じりに考えこむ。僕も言い切れるほど、豹さんの珠生への視線を観察していたわけではない。
「言わないほうがいいよ」
「え」
「あいつは、俺だけにはお前を渡したくないと思ってる」
「………、珠生が僕を追いつめたから? だったら、珠生は変わったんだし、大丈夫だよ。僕が傷ついてないなら、豹さんは珠生を──」
「俺が碧織を傷つけるんで、あいつは俺をお前のそばにいさせたんだ。お前に気に入られるようになった俺なんか、あいつは真っ先に殺すよ。龍二さんより早く」
 まごつきに口ごもる。珠生の言っていることが分からなかった。接続が輪にならない。そのまま取ると、豹さんは珠生によって僕を傷つけたかったとなるけれど──「そういう意味じゃない」と珠生は僕の問いに即座に答える。
「あいつはお前を想ってる」
「じゃ、何で僕を傷つけるからって珠生をそばにいさせたの」
「………、碧織が気にすることじゃないよ。とにかく、俺を助けてやってほしいなんて、そんなの言ったら碧織のほうがあいつにどうされるか分かんないよ」
「この街にいたくないの? そんなに外に行きたいなら、僕も無理には頼まないけど。豹さんじゃなくて、弓弦に頼んでもいいよ」
「弓弦っていうのは、あいつの下なんだろ」
「ん、まあ。じゃ、僕が何とか世話してみようか」
「……俺にここにいてほしいみたい」
 途端僕は頬を真っ赤にさせ、「じゃあ勝手にどこにでも行けよ」とそっぽをした。珠生は僕を見つめて咲い、黙ってうなずく。僕は口元を硬くさせ、珠生に目を戻した。

第七十四章へ

error: