愛の代わりに
「光樹は友達だから、話が別でも」
珠生はわずかに震える指で、その胸に幼くすがりつく僕の髪を撫でる。
「豹は、すごいなって思う。嫌いだよ。でも、すごいよ」
「何が」
「お前と向き合おうとしてる。あいつが選ばれたのは当然だよ。俺も、蛍華さんも、誰か知らないけどその夏乃っていうのも、お前と向き合うのが怖かったんだ」
「何で」
「淫売だから」
「……淫売」
「お前は天性の淫売なんだ。お前にとって愛は一対一じゃない。一対大勢なんだ。愛情をたくさんの人間に分け与える。独占させない。さしむかいじゃない。俺たちはお前にさしむかいの愛情を持ってる。けど、そんなのはお前は鼻で嗤って相手にしない。望みがあれば普通に優しくできてたと思うよ。お前が特殊なんで、こっちは自分の愛に自信が持てなかったんだ」
僕は珠生の不規則な鼓動に額をあてがった。まばたきのたびに睫毛が服にかすれて痛み、珠生の手は僕の髪を大切に慰撫している。
「それでも、豹って奴はお前に踏み出した。その時点で、あいつはお前の絶対的な存在になったんだ。光樹が友達としてそうみたいに」
珠生は軆を離し、熱っぽい指で僕の頬のふくらみをさすった。息や嗅覚が楽になった僕は、明かりがすべるシーツに力を抜いてかすかにベッドをきしませる。珠生の黒い瞳は、僕の頬を愛おしさに疲れた視線でたどった。
「お前が淫売なら俺も淫売になって、お前に期待しないようになろうとした。いろんな男に抱かれて、これが愛なんだって思おうとした。でも、できなかった。俺はやっぱり、ひとりの人に愛されて独占されたかった。たくさんの男は重荷だった。お前のことを淫売失格って言ったよな。それは、追いつけないならお前に堕ちてきてもらおうと思って」
珠生は膝に伏目になり、細い手も視線の先におろした。僕は珠生に放置されて人形のごとく座り、彼の綺麗な顎の線を見ていた。たぎる情欲もない室内に、不意にがらんとした印象を覚える。調整していない暖房の温度に、部屋はぼんやり暑くなっていた。
「俺があんなにプライドを失くしたのは、外でいろいろあったからじゃない。ここに帰ってきて、お前に邪慳にされたのがつらかったんだ。今、こんなふうに建て直そうってまともになれたのも、最近のお前が優しかったから。俺の中にはいつもお前がいる。変えられないよ。どんな人間とつきあっても、龍二さんと同じことになる。俺の中にいるお前に、相手が隙間風を感じて冷めるんだ」
「……僕のせい?」
「俺のせいだよ。うまく愛せないくせに好きになった。ごめん」
僕は珠生の頬に手を伸ばした。珠生はもう疲れた瞳を僕に向けた。何でなのか分からない。なぜ僕にそんなに身を削るのだろう。
珠生の言う通りだ。僕は彼の真摯な想いなんて知らなかった。僕はたくさんの男に愛されるのが好きだ。さしむかいなんて、とうぶん僕には愛ではない。性質が違って、僕は珠生に鈍感を極めた。珠生は僕を傷つけた。それぐらい僕も珠生を傷つけ、そのために彼はすべてに傷つけられ──
僕は不意に珠生の首に抱きつき、真紅の唇に口づけた。珠生は一瞬驚いたものの、おとなしく僕のお返しを受けた。濡れた絡みあいが響き、瑞々しい唇に希な甘い味がした気もした。薄目をすると、珠生もぶつかりそうに長い睫毛の奥で薄目をしている。珠生は僕を強く抱きしめた。僕は揉みあった唇を離し、珠生の白い首筋に額を押しあてる。
あの頃、僕には珠生はこの上なく満たされているように見えた。彼はみんなに愛されていた。蛍華さん、大人、あらゆる人を鱗粉で洗脳して自分を愛させていた。事実、珠生を愛した人もいるだろう。だが、自発的に珠生を愛した人間はいただろうか。そう考え、僕は初めて、彼の蝶にならなくてはならなかった元の醜い毛虫のすがたに気づく。
僕がこんな特殊体質になったのは、元を正せば珠生の功績だ。僕は珠生がうらやましかった。その黒髪も、大きな黒い瞳も、しっとりした肌も、何もかもが憎たらしくうらやましかった。誰もに愛される彼が妬ましかった。だから、自分もさまざまな人間に愛されるようになろうと思った。踏み出してくれた豹さんを裏切ってまでも──けれど僕は何も言わず、軆を離して珠生に羽が触れる口づけをした。
「愛は氷みたいなもんって、前言ってたよな」
唇を離した僕を切なく見つめて、珠生はあの清涼な声で言う。
「うん」
「俺は愛は崇拝だと思うよ。信じること。俺は碧織を崇拝してるよ。信じられるかは分からなくても。自信がないし」
七夏の話がよぎり、僕はうなずく。
「氷だとも思う。崇拝とか信じてるとか、そんなのを保つのって間抜けすぎてむずかしい。でも、揺らがないのが愛なんだ」
「うん」
「俺ね、龍二さんとすごく北のほうに行ってたんだ。冬にはあったかいぐらいの雪で真っ白になって、近くの湖には白鳥が来るとこ」
僕は胸元をちらりとしても、珠生はこのタトゥーを知らないので瞳を空間に凪がせている。
「そこで青氷っていうのを見たんだ」
「青氷」
「気温が零度のときにできる、白く濁ってない透明な氷。樹に固くはりついてて、太陽にも溶けないんだ。愛はそういう氷なんだよな。溶けても濁ってもなくて、強くて、微妙なバランスを保ってる。愛はそこに祀ってある」
「……うん」
「通じあえたら、それほど生きる意味になることもない。俺は勝手にそんな気持ちを碧織に持ってさ。真実の愛も、片想いだと地獄だね」
珠生はおかしそうに微笑み、僕は珠生の瞳の奥に胸苦しくなった。珠生の手をつかんでも、どうしたらいいのかは分からない。
珠生に応えることができないのは確かだ。僕はたくさんの男が好きで、豹さんが好きで、……女が好きなのだ。
珠生はベッドスタンドを振り返り、「時間だね」と僕の手をつかみかえすまま立ち上がった。
「俺、行くよ」
「ずっと僕を好きでいるの」
「うん」と珠生はベッドサイドに取り残される僕の膝に、僕の手を置く。
「僕を好きでいたって、傷つくだけだよ」
「忘れられないんだ」
「それ以上傷つくの」
「自業自得だよ」
僕は立ち上がると、ジーンズの内側を探った。指を伸ばすと中指が触れ、慣れたコツで引きあげて取り出す。刃のおさまったナイフをさしだすと、珠生は軽く目を開いた。
「これ──」
「ナイフだよ。あげる」
「え」
「これで自分ぐらい守るんだ」
「自分」
「僕を好きなのは勝手でも、それに食いつぶされることはないだろ」
「………、」
「僕を好きでいていいよ」
「碧織──」
「でも、僕はお前を愛せない。その代わりに」
珠生の胸にナイフを押しつけた。珠生の頼りない指は、そろそろとそれを受け取る。
「もう傷つくなよ」
「……うん」
「僕、今の珠生を知れてよかったと思うよ」
珠生は黒い大きな瞳に僕を映し、うなずくと、ナイフを握りしめてコートのポケットにしまった。「外で銃刀法違反に引っかからないようにね」と僕が咲うと珠生も初めて心から咲い、もう一度うなずいた。
僕たちは部屋の片づけをすると、温かい手をつないだ。珠生が鍵をつかみ、黙って部屋を出る。フロントで支払いをし、相変わらず寒風の荒れる玄関で手を離して見つめあった。何か言いたかったけど、言葉が追いつかず、「じゃあね」としか言えなかった。珠生はうなずき、穏やかで暖かい笑みを僕の冷たい心に染みこませると、鮮やかな光にざわめく人混みへと消えていった。
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