耳障りな歌
目の前で熱い紅茶が芳しい湯気を立てている。手をつけようと思いつつ、砂糖をそそぎもできずに僕は頬杖に沈んでいた。
深夜一時半、〈neve〉にいるのは売れ残りの男娼か見切り品を狙う客だ。僕のようなひと休みやここで客と落ちあう予定の男娼もいても、親しい奴と時間が重ならなかったりすぐ行ってしまったりでさざめきの種にはならない。
風にあてられた麻痺を軆の端々に残す僕は、仏頂面で何とも言えない気だるさに取りつかれていた。
珠生と別れて三日が過ぎていた。彼のすがたは見かけないけれど、何せ現れ方があやふやだったので、うわさの上では希水様はこの街をうろついているとなっている。これから何となくうわさのしっぽが腐りはじめ、やがて全体が乾からびてなくなるのだろう。僕は珠生がいなくなった実感はなくとも、珠生がいなくなった確信はあった。珠生が消えて僕に何があるわけではないが、こうして何かが重たく、この頃、気や瞳や頬杖が沈んでいる。
哀しいわけではない。つらいわけでもない。苦しくも切なくも痛くすらない。とはいえ、嬉しかったり楽しかったりもない。しいていえば、やるせない。喉に何か引っかかり、そのせいで呼吸がうまくいかずに胸がつまって重くなる。何かを失くしたみたいな感じだ。僕は珠生に何か持っていたのだろうか。夏乃に別れを告げたときにはなかった不調だ。僕は新しく購入して腿になじまないナイフを感じ、吐息をついて頬杖に首をかたむけた。
最後の日の、珠生の話が心に降りつもって離れない。彼が僕を想っていたという話でなく、その話に移ったため、追求しそこねた話だ。蛍華さんが僕を愛しているという奴だ。
結局、あれはどうだったのだろう。あの珠生が、あんな場面でくだらない揶揄をよこすとは思えない。少なくとも、珠生はそう信じているらしい。
蛍華さんが僕を愛している。あの、すぐ僕が嫌いだとのたまい、生まなければよかったが口ぐせだった蛍華さんが。どう主観をさしひいても、あの人が僕を愛しているなんてたわごとだ。といえども、珠生がいくつか述べた証拠も、一理通っていなくもない。
珠生はいなくなった。どうしても確かめたければ、さっぱりした術はひとつだ。蛍華さんを、あの八年前に捨ててきた部屋を、訪ねる──
テーブルに伏せってうめいていると、頭を何かにぽんとやられた。「ん」と顔をあげると、カウンター内の頼さんが眼鏡の奥であきれた目をしている。丸めた雑誌を引いて椅子に腰かける頼さんに、僕は髪を撫でつけて上体を起こした。「営業妨害」と頼さんは言い、「ごめんなさい」と僕はようやくスティックシュガーを手にする。
「ここんとこ、ふさいでるな」
「……そうですか」
「夏乃ちゃんの結婚にショック受けてんじゃないかってのが有力」
「冗談じゃないですよ。ん、あれ、何であいつの結婚知ってんですか」
「わりとうわさになってるぞ。この街も出ていったみたいだな」
「マジですか。ふうん。半分信じてなかった」
「ショックか」
「ショックじゃないです。別件ですよ」
僕は陰気臭いため息と砂糖を紅茶にそそぎ、金のスプーンでかきまぜる。淡くなっていた湯気が一瞬濃くなって香り立った。
「そんなにへこむなら、会いにいけばいいじゃないか」
「嫌ですよ。こっちにも意地ってもんが」
「意地。豹に」
「え、豹さん。あ、ああ──そうですね。豹さん。会いにいこうかなあ」
「意地があるんじゃないのか」
「豹さんにじゃないですよ。いそがしそうじゃないですか」
「あいつはいつもいそがしいだろ。俺と違って」
「豹さんと頼さんって友達なんですよね」
「まあな」
「この街で知り合ったんですか」
「お前が知ってどうかなるか」
「あー、すいません」
たやすく断念して紅茶で胃を温める僕に頼さんは含み咲い、「水鳥には虫酸走らせそうな出逢いだよ」と内側のテーブルに雑誌を置く。
「学校が同じだったんだ」
「うえ。行ってたんですか」
「俺はグレてた。豹は優等生だったぞ」
「えー」
「親しくなったのはこの街で再会してだな。学校で顔見知りではあったと」
「豹さんと頼さんって四歳差ですよね。小学校で逢ったんですか」
「エスカレーター式の付属校だったんだ」
「それって、いいとこの学校って感じですよね」
「そうだな。俺はそういうのが窮屈でグレたんだ。豹は大学まで行ったはずだ」
「豹さんの過去ってぜんぜん知らない」
「知りたいか」
「……あんまり。何か怖くて」
手のひらに抱くカップに口をつけ、揺れた水面に目尻の切れこんだ目を見つけた。蛍華さんが僕に譲り、毬音が受け継いだ目だ。
豹さんもそうして誰かから誰かへの過程に生まれたわけでも、そんなのはまるで現実感がない。豹さんは、この世のあらゆる血とかけはなれている気がする。
「頼さん」
「ん」
「頼さんは、自分は親に愛されてたと思いますか」
「さあな」
「僕は母親に憎まれてると思うんです」
「ほう」
「なのにこないだ、あの人は僕を愛してるって人に言われて」
「人に」
「希水がこの街を出ていったの知ってますか」
「マジか」
「マジです。こないだ、さよならって挨拶に来ました。希水に言われたんです。母親は僕を愛してたって。あいつ、ひととおり僕の生いたちは突っ込んで知ってるから」
いったん紅茶を飲む。熱と甘い渋味が味覚をすべった。頼さんは眼鏡の奥で僕を眺める。
「親に愛されてたら困るのか」
「今になって迷惑ですよ」
「愛されてたくない」
「まあ」
「俺は親に愛されてなかったんだろうな。言い換えたら、その愛情には限度があった。グレたら見捨てられたさ」
「つらいですか」
「どうだろうな。やっぱりな、とは思った」
「親に愛されてたら、何かいいことあるんでしょうか」
「光樹は?」
肩をすくめる頼さんを見つめる。光樹──は、そうだ。陽香さんに愛されている。そしてそれを支えにしている。僕はその相互がうらやましいだろうか。
別に。光樹と陽香さんの関係自体はいいと思う。それを蛍華さんと築こうとは思わない。僕は蛍華さんがいなくても生きていける。蛍華さんなんかいらない。ならば愛されていようがなかろうが、気にせず放っておけばいいのか──
「まあ、親によるよな」
頼さんは眼鏡のつなぎめを押しあげ、今日も僕はそれは伊達眼鏡だと感じる。
「音痴が歌手になるような親もいる。そういう親とは断絶するに限る」
「……ですね」
「単にうまく歌えないのもいる」
優柔な目で頼さんの悪戯な目と見合っていると、「らーいさん」と物音の低い店内に声がした。僕も振り向くと、会計所で男娼が客を連れている。「はいはい」と頼さんが椅子を立つと、僕はまたも辛気臭い面持ちで頬杖に沈んで紅茶をすすった。
蛍華さんは親としてどうだったのだろう。僕はクズだと思っていた。子供を作った責任も取れない、気紛れなあばずれだと思っていた。
違うのか。しかし僕は本当に、違うと思える要因を蛍華さんに見つけられない。僕をたたき、罵り、他人の子供を愛してまでも否定した。愛情表現が不器用なのにしては、蛍華さんの僕への仕打ちは徹底的だった。
蛍華さんが、珠生のように愛情を軽蔑に加工するというのもおかしなものだ。親子としてさしむかいになるのは可能だった。僕には蛍華さんは僕の親になるのを放棄したとしか思えない。
幼い記憶がちらつく。シーツに広がった綺麗な栗色の髪や、闇雲に罵りあった日々や、男に捨てられてヤケになって自虐するざまや。甘ったるい香水の匂いは、覚えていても思い出せない。蛍華さんを想うと、痛いというより気分が悪い。見たくないものを見せられるようだ。あの人は、僕にとっていったい何なのだろう。あの人に愛されたら、僕に何かたしになるものはあるのだろうか。
豹さんと蛍華さんは親しかった。今でも親しいだろう。豹さんに訊けば、僕が面と向かって訊くより、蛍華さんの真実に触れられるかもしれない。けれど、いまさら豹さんに蛍華さんのことを訊くのも気まずい。何せ豹さんには、“蛍華さん”は母親でなく叔母で通しているのだ。そんな人の真意を知りたがる、というのも妙な話だ。
無難に珠生の言葉の真偽をはかるには、どうも蛍華さんに会うしかない。珠生の話が本当であれば、打ちひしがれた蛍華さんはいらない虚勢は張らず、帰ってきた僕を抱きしめるぐらいはするだろう。
僕はまじめくさった顔をぬるくなる紅茶に映す。蛍華さんが僕を抱きしめる。いまだ溶けていない、透いた氷の腕で。絶対ないよ、とあきらめに近い確信を持ちながらも、明日は仕事が早めの三時にあがるのをそっと確認した。
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