青氷の祠-78

会いたかった

 十二月も中旬に入り、寒さは日々深まっている。高級ホテルに行くのだし、僕はカーキのナイロンオーバーはやめ、ベージュのフリーツのコートを着こんだ。
 これで多少服装はごまかせるとしても、スニーカーがいただけない。稀にそういうホテルに呼ばれたときのための革靴を探り出し、クリーナーを買ってきて綺麗に磨いておいた。
 いつもの出勤時間を過ぎてもあれこれ服を選ぶ僕を、暖房のもと、ワインレッドのカーディガンで足りる毬音は無言で観察していた。「今日は遅くなるかもしれない」と言い置くと毬音はうなずき、僕は心を決めて部屋を出た。
 時刻は十八時過ぎで、外はすっかり夜におおわれていた。不穏な風音と物音が入り混じる中、僕は気を緩めれば決壊しそうな心臓を張りつめさせ、マフラーを縛る。
 多めにつけてきた香水で何とか精神安定をはかるも、これが豹さんと会うための不安定でなければ、危うく酒に逃げこみそうだった。圧力がのしかかり、できればふとんで身動ぎひとつしたくない。でも踏み出したのは僕だし、と自分の尻をたたき、引き攣りそうな歩調で道路を進みはじめる。
 寒風に身をすくめて暗い夕町をあとにすると、にぎやかで鮮やかな通りを進む。ビル街、宿屋街、目的地が近づくと足取りが緩慢になった。
 言い知れなく怖い。不安が張り裂けて、恐怖に至っている。豹さんに会うのも、蛍華さんを知るのも、目を背けてしまいたい。豹さんが蛍華さんの消息を知っているのは確実だ。教えてくれなくていいと言えば、豹さんは黙っているだろう。とはいえ、聞かないふりをする域を越えているのも感じる。僕は聞かなくてはならない。その義務がひどく重たく、感覚のない手足がおののき、未知が黒い影となって首を絞める。
 三日ぶりの高級ホテル街に行き着き、メモを確認すると、豪華というより上品なそのホテルに入った。
 広々と紺の絨毯が敷かれた静かなロビーに、豹さんのすがたはなかった。時刻はちょうど十九時だ。はるか左にフロントがあり、右手と正面に施設がつながっている。淑やかなボーイをかわし、僕はくまなく行き渡る暖房にマフラーを緩めた。
 風に乱れた冷たい髪を直し、靴底が食いこむ絨毯にたたずむ。すれちがう客にはスーツやドレスのすがたも多く、そういや年末だもんな、とパーティが多そうな時期なのを思い出した。僕はロビーのソファの近くにふらついて近寄ると、その場で豹さんが来るのをじっと待った。
 いたたまれない心臓がそわつき、何かがやましいみたいに視線がうろつく。自分でも目障りだと感じ、クリーナーでぴかぴかになりすぎた靴を睨みつけた。時間が背中に食いこんでくる。豹さんはいつ来るのだろう。逃げられないなら、早くやってきて終わってほしい。約束今日だったよな、とメモを見直したりしていると、そばに人の気配と磨かれた革靴が立ち止まった。
 その煙草の匂いに僕は息をとめ、とまどいかけた視線を思い切ってまっすぐあげた。そこには、苦しいぐらい懐かしい鋭い瞳があった。僕は喉の震えを歯を噛んでこらえ、その人の冷徹で精悍な顔立ちや、黒いコートの下にきっちりしたスーツをまとう筋骨の整った軆を認める。
 再度その顔と顔を合わせると、鋭い瞳はすごく優しくなって微笑んだ。
「少し遅れたな。悪かった」
 僕は睫毛を狭めて、細くなった視界を滲ませた。締めつけられた喉に鼻がつんとして、瞳が熱くなる。その胸に顔をあてると、煙草の匂いが鮮明になった。僕がその煙草を吸ったって結局は作れなかった匂いがする。仕方なさそうな笑みをもらした豹さんは、僕の頭をぽんぽんとした。
「久しぶりでいきなり泣き顔か」
「だって。豹さん──」
「俺がいなくても平気だから、帰ってこなかったんだろう」
「そんなことないもん。会いたかったよ。すごく会いたかった」
「………、俺もだ。連絡をくれて嬉しかった」
「迷惑じゃなかった?」
「そんなわけないだろう。ほら、泣くのはふたりきりになってからだ」
「……うん」
「部屋を取ってあるが」
「ん、うん。行く」
「よし。まったく、大人になったなと言おうとしたら」
 僕は豹さんの胸に押しつけた顔を離し、涙がこぼれた頬と目をはらうようにぬぐった。恥ずかしいより、豹さんに会えた安堵が強かった。豹さんも僕の涙を指で拭いてくれると、フロントで鍵を引き取ってエレベーターで二十七階の部屋に向かった。
 このホテルは三十階建てで、二十五階以上はスイートルームだった。2706号室は、キッチンさえあれば優雅に暮らしていけそうな部屋だった。リビング、寝室、バスルーム、バルコニーもある。キッチンさえ、とはいえ、冷蔵庫つきで熱いコーヒーは淹れられる簡易システムはあった。
 豹さんは暖房をつけるとそこで紅茶を淹れてきてくれる。さすがにこういう部屋で買われたことはないな、と思いつつマフラーをほどいていた僕は、「どうも」と何やら敬語になって、白いカップを受け取った。
 カフェオレ色のきめこまかい絨毯のリビングには、シャンデリアのもと、ガラスのテーブルを挟んで向き合う黒いカウチがあった。僕と豹さんは、そこに向かい合って座る。僕から見て右手にバルコニーがあり、浅葱色のカーテンの向こうでは、極彩色の海が美しいのだろう。
 僕はアールグレイの香りを飲みこみ、その味に、豹さんが僕の砂糖の具合を覚えてくれているのが分かって嬉しくなった。豹さんはコーヒーで、飲み物と静かな暖房に体温が落ち着くと、ふたりとも上着を脱いだ。
 頼さんよりよっつ歳うえの豹さんは、今年で四十一になる。見ないうちに貫禄は深くなっていても、肉体はだらしなくなかった。さっきエレベーターで脇にもたれかかると、筋肉に硬い弾力もあった。何となく左手に目をすべらし、薬指に指輪がないのを確かめる。豹さんも僕を見つめ、「その傷は襲われたときの傷か」とカップを受け皿に乗せた。
「え」
「頬の」
「あ、うん。破片がかすっちゃって。目立つかな」
「いや。腰は」
「治ったよ。先月には、彩雪に光樹のライヴにも行ったし」
「そうか、光樹くんはバンドをやっているんだったな」
「順調そうだよ。っていっても、僕はあのノリひいちゃう」
 豹さんは含み笑って煙草に火をつけ、僕は何となく照れ咲いをもらして紅茶に口をつける。
「暮らしてた女は結婚したそうだな」
「まあね。挨拶に来たよ。縁切りたくて、あの部屋引っ越して行方くらまそうと思ってた。そうしたほうがいいかな」
「簡単に浮気できる相手ではなさそうだな」
「そう。じゃあ、あの部屋でいいね」
「娘はどうだ。いくつになる」
「よっつ。母親より僕のがマシみたいなんで、あの女がいなくなるのは悪くなさそうだったよ」
「そうか。また家出したりは」
「してないよ」と咲ってカップを持ち直し、その熱を手のひらに伝わす。
「あのときは、試す真似をして悪かった」
「ううん。僕が毬音を想ってるか知りたかったんでしょ」
「……まあな」
「あのとき、弓弦をめちゃくちゃに言っちゃって。僕が襲われるの見かけたのに無視しようとしたの、怒らないでやって」
「ああ。弓弦が仕事に私情を挟んだのは意外だったがな」
「だいぶ土足な台詞言ったんだ。人間なら切れるよ。でも、弓弦の実力って、そういう……人間っぽい感情的な理解があるとこにもあると思うし」
「そうだな。今まで通り、あいつの仕事は信頼しておこう」
 僕はほっと口元を綻ばせ、心地よい味わいに唇を浸した。「一度目は、弓弦が助けなくても自力で逃げたんだんだったな」と豹さんは煙草を持つままコーヒーに口をつけ、僕はカップを膝におろしてうなずく。
「二度目は」
「助けてもらった」
「タマキという奴だとは弓弦に聞いたが」
「あの珠生。希水だよ。男のことも、豹さんは知ってるよね」
「弓弦にも聞いたしな。あの男に、お前に対する殺意の理由は言わせておいた」
「知ってるよ。嫉妬でしょ」
 豹さんは軽く驚きを走らせ、僕は弱い微笑みを浮かべる。
「珠生に聞いたんだ」
「珠生に」
「こないだ全部教えてもらった。外でのことも、僕への気持ちも、……蛍華さんのことも」
 豹さんはかすかに表情をこわばらせ、僕は自分でも出どころのしれない笑みをしながらカップを置く。
「ごめんね。そのことで、豹さんを呼び出したんだ」
 豹さんはわずかに視線の角度をさげて煙草を吸い、「何で謝るんだ」と飽和した表情に笑みを消した僕を見つめなおす。
「我慢できなくなって、呼んだわけじゃない……から」
「まだ、我慢できてたか?」
「我慢なんか越えて、無感覚になってた。あんまり会わないんで、豹さんの気持ちが分からなくなって」
「………、」
「迷惑じゃないかとか、面倒はかけたくないとか。豹さんの重荷になりたくなくて、いつ甘えればいいのか切っかけがつかめなくなってた。我慢できるならひとりで耐えようって。豹さんが嫌いになったとか、いらなくなったとかじゃないよ。いてほしくて、くだらない悩みでいちいち呼び出して、鬱陶しいって思われたくなくて」
 膝で握りしめた手を見つめる僕に、豹さんは煙をふかして咲う。
「鬱陶しいなんて思うわけはないだろう」
「でも」
「俺も同じように悩んだ。俺は必要なくなったんだろうと確かに感じていたし、良くない過去に属する俺とは接したくないんだろうとも思った」
「そんなのないよっ。だって、光樹とは会ってるでしょ」
「ああ。それで碧織の心が分からなくて、そのタトゥーをやったときに言った通り、待つしかなかった」
 僕は息づく心臓に睫毛を添わせ、何かがいっぱいになった瞳で豹さんと見つめあった。「これからはたまに会ってくれる?」とかぼそく訊くと、「碧織がよければな」と豹さんは微笑む。僕は銀のピアスや白鳥のタトゥーをもらったときみたいに咲った。

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