青氷の祠-8

いがみあい

「もう嫌、死にたいっ。こんなの死んだほうがマシよっ」
 明け方の夕食を取っていると、いきなりそんな声が玄関に響いた。
 僕と、昨日の痣を残す毬音は、速断で倦色した目を交わした。僕とこの小娘は、仲がいいとは言えないが、似ているので所感はよく通じる。
 冷凍食品のピラフが盛られた皿を置いたとき、夏乃が現れ、床にバッグをたたきつけた。彼女は髪を黒に戻し、黒無地のアンサンブルにひかえめな桃色のミニスカートを合わせていた。ケチャップがどこかで手に入り、男に挑んだらしい。
 夏乃はしょっちゅうこの部屋を空けている。すなわち誘惑された男は、おおかた夏乃になびくということだが、玉砕する場合もある。今回の結果は訊かなくても察せた。
「こんなとこにしか帰れないんだったら、死んだほうがいいわ。今度こそ、こんなとこには帰らずにすむような男だったのにっ」
 そう言っておきながら、夏乃が男と一ヵ月以上続くのを、僕は見たことがない。
「どうしてこんなのばっかりなの。何にもうまくいかない。いつだって死んだほうがマシなことにしかならない。ひとつぐらい救われてもいいのに、いつもぶち壊される。みんなはうまく幸せになってんのに、何であたしはできないの。こんなんだったら、生きてるのなんかくそくらえだわっ」
 誰に対して言っているのか、夏乃は床にうずくまって荒唐をまきちらす。
 僕は濁った血の色のワインをラッパ飲みした。甘ったるい匂いに、こんな安酒をいつも飲んでいた蛍華さんを思い出す。死にたい。蛍華さんもいつも言っていた。思うに、そう言う人間ほど、自殺する勇気なんてないのだけど。
 女は唐突な言動が好きだ。夏乃も蛍華さんも、やることなすこと気紛れで予測がつかない。愛してるとささやきながら浮気し、食べたいとうろつきながら嘔吐し、死にたいと泣きながら手あたり次第に破壊する。
 僕は毬音に、あの母親のようにはなるなと、それだけは言っている。毬音はいつも神妙にうなずく。
「こんな仕事、やってなきゃよかった」
 くぐもった声は喉に詰まり、毬音は母の醜態に軽蔑を向けている。
 夏乃は淫売に生きがいを感じていない。仕方なく娼婦になった。父親や兄に悪戯されるより、見て見ぬふりをする母親に助けを求めるより、淫売で自活したほうがマシだっただけだ。
「あたしなんか、穢れてるんだわ。ずっと穢されてきたもの。あたしは普通になれない。この汚れで誰ともつながれないんだわ。誰だってこんなのに感染したくないわよね。ふん、娼婦は愛を売ってるなんて言ったの誰よ。こんなの、穢されるばっかりだわ」
「本物の娼婦は、どんなに穢されても濾過するんじゃない?」
 瓶に口をつける僕は、厭わしい口調で夏乃の妄言に堤防を立てた。夏乃は髪を振り上げて身を起こし、「どういう意味よ」とおとなしい化粧で迫力に欠ける眼を僕に突き刺す。
「あたしそのものが汚れてるっていうの」
「お前は娼婦失格だって言ってんの」
「失格でけっこうよ、こんなの」
「じゃあ辞めりゃいいじゃん」
「ほかにどうしたらいいのか分かんないのよ。外にも行ったわ。ダメだった。あんなとこじゃ生きられない。みんな同じように笑ってるのよ。ここで娼婦する以外、何すればいいのよ」
「茶店とかコンビニとかあるじゃん」
「あんなの、外から流れてきた奴の職場よ。この仕事しかないの。一生穢れつづけるんだわ。決まってるのよ」
「穢れるとかいう言い方やめろよ。宗教じゃあるまいし」
「ほかに何て言えばいいのよ」
「お前は盛った雌豚だよ」
 夏乃は獣じみた声を上げて、僕に飛びかかった。〇.五秒早く、僕はその場を飛びのいた。夏乃は轢かれた蛙のごとくぐしゃっと床につぶれる。僕は瓶を持つまま立ち上がると、床にばらついた黒髪を蹴って笑った。
「比喩じゃないからな。いろんな男のケツにしがみついて、しゃぶった竿から種ばっか欲しがってる。お前は男が欲しくてたまんなくて、いつも股ぐらにだらだら涎垂らしてんだよ」
 夏乃は僕の爪先をはらって起き上がり、唸り声を上げて、両腕を床にたたきつけた。
 毬音は両親の汚い口論は無視し、口内をいたわりながらピラフを食べている。その無関心が癪に障ったのか、夏乃は手元にあった僕のピラフを、皿ごと毬音に投げつけた。力が不十分だったのか、皿は床に落ちて砕けたが、ピラフはたっぷり広がって毬音の髪や顔に降りそそぐ。
「よく飯なんか食ってられるわね、がつがつしてっ。あんたなんか、父親が誰だろうと堕ろしときゃよかったっ」
 赤いワインを飲んでいた僕は哄笑し、「やっぱ雌豚じゃん」とにっこりと夏乃に腰をかがめる。夏乃は化粧がつぶれてひしゃげた顔面で僕をぎろりとし、僕の顔を引っかこうとした。が、爪は切られていて武器にならない。
「あんたの種に較べたら、めちゃくちゃの数の男の種のほうがマシなのよっ。あたしはたくさんの男と寝なきゃいけないの。いっぱい寝て、あいつらに手を出されたのを薄めてるんだからっ」
「じゃあ、黙って男渡り歩いて、腰振ってろよ。穢されたとかわめくな。やりたいことやってんのに、文句垂れてんじゃない。お前が愛されない理由ってそれだよ? わけが分かんないんだ」
「あんたにそんなの言われたくないわっ。あんただってむちゃくちゃじゃない。男のくせに男に抱かれて、喘ぎ声上げて、頭おかしいわよっ」
「お前は言うこととやることがばらばらで、気味が悪いんだ。次の瞬間、刺してくるかもしれない。つきあうだけ疲れる。誰にも愛されなくて当然だね」
「うるせえなっ。あんただって、誰にも愛されてないわよっ。ホモに媚売ってるけど、男はあんたなんか愛してないわ。あんたに騙されて、軆を欲しがってるだけなの」
 毬音は黙ってティッシュを取り、自分についたピラフをはらっている。
 僕は酒のほてりに浮かされ、ほとんど認識を通さずに口に任せてしゃべる。
「何で僕はお前といられるか、教えてやろうか。腰抜けだって知ってるからさ。言ってることとやってることがばらばらなのは、口で言うほど実行の勇気はないからだって」
「変態がえらそうに言わないでっ」
「お前はどうせ、そのガキを生んでたさ。堕ろすのが怖くて堕ろせなかったんだろ。娼婦だって、ほかの仕事が怖くてやってんだ。お前はいつも逃げてるだけなんだよ」
「あんたなんか変態だよ。ホモよりも変態だわっ。あんたはホモをもてあそんでるのよ。天使みたいな顔して軆を恵んで、あんたは彼らのこと何とも想ってないくせにっ」
「僕はみんなを大切に想ってるよ。みんな大好きさ。お前のあわびより、客の小便臭い竿のほうがずっとかわいいねっ」
「あんたなんか最低よ。一番ホモをバカにしてるわ。あんたこそ、くそったれの病気野郎よ。ホモでもないくせに、毎晩毎晩オカマを掘らせて悦んでるわけね、ぞっとするわっ。女に見向きもしない男なんて男じゃないわ。あんたなんか、まともな男じゃないのよっ」
 僕は瓶を振り上げて床にたたきつけた。反動が思いきり床にぶつかり、瓶は激しく耳に刺さって砕け散った。飛び跳ねた血の色は、甘ったるく僕のジーンズや夏乃の髪にびしゃっとかかる。
 それに夏乃が息を飲んだ一瞬の隙に、僕は彼女の胸倉をつかみ、その頬を関節で容赦なく殴りつけた。みしっともろい骨の音がしたが、構わず、広がった青痣をさらにえぐる。
「もう一回、僕に『まともじゃない』って言ってみろっ。僕はもっとまともじゃなくなるからなっ。男じゃなくて悪かったな、女なんか母親とお前でうんざりしてんだよっ。女に愛されるぐらいの男なら、男に愛される男のほうがマシだっ」
 怒鳴って腕を掲げて、夏乃の頬骨に渾身の一発を与えた。僕の骨にも衝撃が響き、夏乃は頭がもげるように喉を剥く。僕は捨てるように彼女の胸倉を離すと、荒くなっていた息に唇を舐めた。
 張りつめた視界に肩に力が入り、幻覚剤を食らったように衝動の火花が眼球にじかに見える。たぎった憎悪の残像が胸に垂れこめ、僕はかすかにまぶたをおろすと、体内の影をこらえた。
 毬音が手を止めて、こちらを見ている。「何だよ」と鼻で嗤うと、「別に」と毬音はピラフをはらう地道な作業を再開した。
「文句あるのか」
「別に」
「お前もしてほしいのか」
「別に」
「じゃあ何で見てんだよ」
「目に留まっただけだよ」
 僕は毬音に唾を吐いた。大量の侮辱は焦げ茶の髪にあたり、べたりと垂れて陽光を反射した。
 蝉もちらほらと鳴き出し、カーテンの隙間はまばゆくなっている。日光はピラフやワインにそそぎ、冷えた空気に異様な臭いを立ちのぼらせていた。
 床に壊れた夏乃は、震えてすすり泣きだしている。捻じれて歪む強迫が二の腕までせりあげたものの、これ以上、踊らされるのもごめんだった。大小のガラスの破片をよけて、床にあった金や鍵を手に取ると、僕は無言で部屋を出ていった。

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