手をつないで
行きつけのモーテルの玄関で、僕は禿頭の客と別れた。イルミネーションは空中を舞っていても、空のわずかな朝の気配に、人混みは敏感に喧騒をひそめつつある。客の背中が見えなくなると、見送っていた僕は息をついて、モーテルに引き返した。
真夏は外からクーラーのきいた室内に入ると、次元を超えたように肌がふっと軽くなる。
モーテル暮らしを始めて三日、夏乃が部屋にいると、しばしばこういうことになる。僕は稼ぎをそのまま服や生活用品にあて、融通のきくこのモーテルの一室を借り切っていた。
同業者やモーテルの人間に向ける裏の顔では、僕が子持ちで、名目上恋人と頻繁に問題を起こしているのは有名だ。部屋の鍵を取りにフロントに行くと、そこの三十きっかりの男にもにやりとされた。
「まだ帰んないのか」
「帰ったほうがいいですか」
「いえいえ。商売繁盛です」
このフロントは、歳より砕けていて馴染みやすい。剽軽な性格が見ためもずっと若く見せていて、しかし確か既婚だった気がする。
「お前って、寝る相手選ばないよな」
「選んでたら商売になりません」
「すごい親父」
「切ない人なんですよ」
「あれがリアルなホモなんだよな。うちの娘が耽美小説とか読んでるけどさー、どうよ、ああいうの」
「そういうのを推奨する奴ほど、現実見たらゲロ吐くんですよ」
「ふむ。ゲイが美少年ばっかじゃないのは確かだな」
時刻は午前四時半、売れ残った淫売もあきらめて部屋に帰り、このフロント付近をうろついているのは事を終えたふたりか、僕のように普通に泊まってひとり寝する者だ。
「お前も男娼始めて長いよなあ」
「そうですね。正直、体力が衰えてきました」
「ん、いくつだ」
「十九です」
「十九で衰え感じるなよなあ。と思っても、淫売のケツに火がついてんのは二十歳までか」
彼は笑い、バーのついた鍵を取り出す。
「ま、ここでじっくり休んで、疲れたプライベートは客にばれないようにしなさい」
「はあい」と鍵を受け取ると、僕はフロントを離れた。
エレベーターに乗りこんで八階を押す。青いバーにも“811”とある。かくて僕は、811号室の本来は情交用のダブルベッドに仰向けになった。
お値段通りの部屋だ。ベランダ、バスルーム、エアコンと金髪女のポルノポスター。女の嬌声が漠然と聞こえ、蝉の声とどっちが雑音かな、と手探りにリモコンで冷房を入れる。流れた風に、精液のにおいをかきけそうとするミントの芳香剤がただよう。
客はここには連れこまなかった。裏の素顔はさんざんでも、僕は客に見せる表の顔では神秘を保っている。客には絶対に私生活を明かさない。プライドでなく、生身の僕を知ると、客が妄想を抱けなくなる。特に僕の場合は、知られたら興醒めだ。
今日は最後の客で恋人同士を演じ、腰のあたりがだるかった。高速道路に乗ってはるばる会いにくる彼は、周囲にホモだとばれて猛烈にたたかれている。そのストレスでセックスが乱暴で、それでも、いったあと泣き出すときがある。僕は被虐的でなく受容的に彼の突き上げを受ける。
腰のだるさや下腹部の疼きなんて、慣れ親しんだものではある。体力が回復すれば、シャワーを浴びたり食べ物を買いに一階に降りたりした。夏乃どころか毬音もおらず、はっきり言って快適だ。僕はあの通りすぐ切れる男なので、人と接するときは、なるべく神経を保護している。光樹ほど波長が合い、神経をほどくまま過ごせる人なんてごく稀だ。誰もいなければ、気詰まりもない。独り身が向いてんだよな、とベッドに戻ると、眠気を軆に解き放ってシーツに虚脱した。
部屋に帰ったのは、八月二十一日の夜だった。モーテル暮らしを続けたくても、金もかかるし、夏乃が出ていって毬音も置き去りにされている頃だ。その日は休息日でもあった。
一抹の親としての責任で、夏乃はすでに出勤したであろう時刻に部屋に帰る。真っ暗なそこでは、案の定、毬音が空腹で死にかけていた。
「生きてるか」
明かりをつけると、蒸し暑い部屋にいるのは床に突っ伏す毬音ひとりだった。夏乃はおらず、嫌な香水の名残も薄い。
毬音の頭を爪先で小突く。毬音は不明瞭にうめいた。僕はモーテルから持ち帰った、服や生活用品が入ったビニールぶくろを床に放ると、ぐったりする彼女を抱き起こした。
「みじめったらしいぞ」
「お腹減った」
「何日食べてないの」
「三日」
「ふん、砂漠の難民になったらお前は発狂するな」
毬音の髪に鼻をあて、子供の甘い匂いでなく、汗が黒ずんだ臭いがしたのに眉を顰めた。
「シャワーを浴びてきなさい」
「何で。もう嫌。動くぐらいなら死ぬ」
「頼さんとこに連れてってやる。冷蔵庫は空なんだろ」
「何か食べないと動けないよ」
「しょうがないなあ」と僕はビニールぶくろをあさり、コンビニで買った栄養食品のクッキーを取り出した。くたばる毬音は腿に乗せ、僕はそれをひと口大に割って彼女に食べさせる。毬音は僕の指先まで含みながら、黙って栄養を補給した。
毬音の母親より長い髪には、なめらかすぎるべたつきがあった。頬の腫れは薄らいでいても、大きすぎるシャツがすべった肩には、くっきりした痣がある。僕が空き部屋から引きずりだしたときにつけたものにしては、生々しい。夏乃にされたのだろう。小さく口を動かしながら、毬音は僕にもたれる。僕はその重みに気づかないふりをして、口を開けた毬音にクッキーを食べさせた。
空腹をしのいだ毬音は、シャワーを浴びてきちんと服を着た。黄緑のシャツにデニムのスカートだ。あの大きい服は、夏乃のものだそうだ。夏乃に服まで破り裂かれて放置され、押し入れをあさって、手に触れたものを着たらしい。僕もシャワーを浴びて身なりを整えると、毬音を連れて部屋を出た。
僕の気遣いのない歩幅に、毬音は小走りに並行する。男の怒号だの、子供の悲鳴だの、闇には不穏な物音が入り混じっている。人通りもあり、いつ何をすられるか分からない。
抱え上げられて持っていかれるのも何なので、僕は毬音の手を取った。僕の腰の高さの毬音は、睫毛を一度上下させてこちらを見上げる。
「誘拐されたい?」
毬音は闇に浮かぶ瞳で僕を見つめ、無言で手を握り返した。生温い風の流れは、疲れ切った腰で打つ寝返りのようにのろい。それでも香水はふわりと香り、僕の精神は安らいだ。匂いが嫌いな客の前では落としても、だいたいの客が、この匂いを好きだと言ってくれる。オナニーのために、この香水の名前を訊いていく客も多い。今日は休みだから客に会ったらめんどいな、と思案していると陽桜に出ていたが、はぐれないように毬音の手はつないでおく。
色とりどりのネオンが、そこらじゅうの人間を縫っている。雑音も大音量で、路地裏や道端には人が溜まっている。この街は景色の変遷がめまぐるしい。それでも変わらない空気はあって、子供だった僕はその空気をつかみ、大人の脚のあいだを駆け抜けていた。
「毬音」
「ん」
「お前って、いつもずっとあの部屋に閉じこもってんの」
「うん」
「遊びにいけばいいのに」
「悪戯されるだけじゃん」
「突っぱねれば」
「パパは男の大人だから、女の子供がそんな簡単にいかないのは分かんないよ」
「僕は子供の頃もうろついてたよ。大人に気づかれないように透明になるんだ。お前は生意気だし、大丈夫だと思うよ」
「そうかな」と毬音は僕を見上げ、僕はうなずく。
「あの家、とっとと出るんだろ」
「うん」
「外うろついてたら出れるぐらいになってるよ。今、お前は僕たちに食わせてもらわずにすむようになるのを、ずっと先に感じてるだろうけど、そんなことない。大人なんてすぐ来て、人生まで追いこして、あっという間に死ぬんだ」
「………、」
「お前が死にたいのは知ってるよ。そんなもん、どうせこっちから突っ込まなくても来るんだ。生きてるってのは、不治の病と同じだよ。発病したら、生まれたら、さっさと肯定して死ぬまで好きなようにやっといたほうがいい。それは権利だよ」
「どうしてそんなの言うの」
「こもって死にたいってぶつくさしてんのは、陰気臭いからだよ」
毬音は正面を向き、僕はからからとした。毬音は僕の手を握っている。汗ばみはじめていて、僕は毬音の小さな手を握り直した。
【第十章へ】
