レッドゾーン
早朝から浴びせるように聞こえていた蝉の声が次第に減り、季節は残暑に移り変わった。冷房は必要だけど、気がふれそうな暑さが夜から朝にかけてはやわらいだ。
二学期が始まり、泰人はバイトを夏休みのあいだだけだと言っていたのに、結局シフトこそ減らしつつ続けていた。しかし、両親にバイトは年内までと釘は刺されているようだ。泰人のおじさんは医者だから、やっぱり泰人もそういう勉強をさせられるのだろう。
彼女のそばにいたいとかこぼしてくるかなと思ったが、「しっかり稼ぐ男になったほうが、長く一緒にいられるよなー」とか泰人は言い、将来も見据えた想いに俺は勝手に傷ついた。
心がどうしても無感覚にならない。泰人の恋の話を聞いていて、平気になれない。そのうち慣れて適当に咲って聞き流せるようになるかと思っていたけど、いつまで経っても、幸せそうな泰人の横顔を直視できなかった。
何で俺こんなに我慢してるんだろう、どうしてこんな想いしてまで泰人のそばにいるんだろう、と自問しつづけ、徐々に、泰人の前で元気があるふりをするのも疲れるようになってきた。
訳もなく、気分が滅入ってくる。意識がばらばらでまとまらず、授業への集中力も落ちた。それが明確に表れたのが、十月の中間考査だった。
俺は特に優秀な生徒ではないが、平均点越えくらいは余裕だったので、ぎりぎりの結果に「何かあったのか」と怒るより心配する先生が多かった。俺はあやふやに咲って謝り、「次は頑張ります」とだけ言っておいた。
泰人はバイトもやっているのに、いい成績をキープしている。先生たち同様、俺の成績の低下を何事かと案じてくれて、でも、そんな気遣いさえ俺の心には鋭利に刺さる毒針だった。
「真砂、ここんとこずっとおかしいぞ」
十一月に入る直前、秋が静かに終わりはじめて、冷たい風が身を切るようになってきた。俺も泰人も、ブレザーの上に学校指定色の黒のコートを着ている。
下校ラッシュの電車を降りて、暗くなりかけた駅からマンションへの道を歩きながら、不意に泰人がそんなことを言った。
「……え、」
ぎくりしながらも、少し目を見開いたぐらいで、ほぼ無表情に俺は泰人を見る。
「ぼーっとしてるし、あんまり咲わないし、成績だってさ。どうしたんだよ」
「どう、って……別に、」
「何かあったんだろ。俺、何でも聞くぞ」
視線をスニーカーに落とす。言えるわけがない。いや、言ってはいけない。
「真砂」
「何にも、ないよ」
「ほんとに?」
「うん」
「……俺には話せないとか、そういうのじゃなくて?」
つい口をつぐんだ俺に、「何だよ」と泰人はやや焦れたように息をつく。
「そりゃ、何でも話してくれってほうが、もうガキでもないからむずかしいかもしれないけど。そんなに落ち込んでるのに、何も言ってくれないのは心配なんだよ」
「気にしなくて、いいから」
「気になるだろ」
「何でもない。どうせ、泰人にはどうしようもないことだし」
「そんなの分かんないじゃん。てか、話すだけでも楽になるとかあるし」
「楽にはならないよ」
「何で決めつけんだよ。なあ、俺たち親友だろ」
親友。
「お前がへこんでるのはほっとけないよ」
……親友。
「家で何かあったのか? 学校?」
親、友──。
「好きな奴ができた、って感じではないけど──」
俺は唇を噛んで、立ち止まった。びゅうっと後ろから風が吹き抜けていって、乱れた髪が視界を邪魔する。泰人も足を止め、俺を見た。
「真砂、」
もういい。たくさんだ。
「……った、から」
「え?」
これ以上、泰人のそばにいるのは限界だ。
──そんなレッドゾーンの考えがよぎったのと同時に、俺はずっとこらえてきた言葉を発していた。
「好きだったから」
「……えっ?」
俺は泰人を見た。無垢なくらいに見開かれた目を見て、言った。
「ずっと、お前が好きだったんだ」
「……は?」
乾いた笑いがもれそうになった。
ほらな。やっぱり、そういう反応なんだろ。
「俺は泰人のことが好きなんだよ」
泰人は俺をぽかんと見つめる。俺はかたくなな目でそんな泰人を見返す。泰人はとまどったように視線をそらし、「ええと」とわざとらしく言った。
「いや、俺も真砂のことは好きだけどさ。やめろよ、そういう告白みたいな言い方は。ちょっとビビる──」
「告白だよ」
「っ──……」
「俺は恋愛として泰人が好きなんだ」
言い切ってしまったあと、急激に心臓がどくどくと駆け出してきた。この寒気の中で体温が上がり、瞳が泣きそうに潤む。ああ、言ってしまった。言っちゃいけなかったのに。絶対に越えてはならない一線だったのに。越えたら最後、俺は泰人を失って──
突然、誰もいなかった通りに足音が近づいてきた。俺はちらりとそちらを見て、顔を伏せると歩き出した。泰人もはっとした様子で、一応、俺の隣に並んでくる。
「真砂」
顔をそむけたまま返事もしない俺に、泰人はちょっとうんざりしたようなため息をつき、「なあっ」と俺の腕をつかんだ。泰人の力に思わずびくんと反応してしまうと、泰人は俺を窺う。
「冗談だよな?」
もう一度、泰人を見る。
……冗、談。
そうだな。今、ここで「当たり前だろっ」と笑って見せれば、まだ、かろうじて泰人とつながっていられる。
でも、つながっていて、何なんだ?
毎日、すごく苦しくて。もう夢見がちな甘い感覚さえないほど、泰人が好きで好きで、どうしようもなくて。けれど、どんなに想っても、泰人は俺を見たりしない。俺の報われない想いばかり、毎日朽ちて降り積もって呼吸を詰まらせる。
「……ごめん」
歩きながら、風に消え入りそうにつぶやいた。
「泰人を好きになってごめん」
泰人はうつむき、舌打ちすると俺の腕を放した。骨まで食いこみそうな力が入っていたその腕を、俺は小さくさする。
「俺は……」
泰人の声はかすかにわなないていて、力なくそちらに目をやる。泰人もかろうじて俺の目を見た。
「真砂を、恋愛としては見れねえよ」
俺は泰人の瞳を見つめ返し、小さく深呼吸して、答える。
「俺も、泰人を友達として見るの、無理だ」
泰人は息をつめ、俺は首を垂らした。「そっか」とこぼした泰人は、「じゃあ」と言葉をつなぐ。
「俺たち、一緒にいられないな」
「……うん」
「全部終わりだ」
「うん」
「……じゃあな」
泰人は大股になって歩きを速め、俺の隣から離れていった。暗くなった通りは、いつのまにか街燈が頼りになっていた。いつも隣にいたから、何だか見慣れない泰人の背中も、あっという間に見えなくなる。
俺は息を吐いて、目をつぶって、その場に座りこみそうなのをこらえて立ちすくんだ。
ああ、こんなもんか。俺たちの十六年間は、こんなもんで終わるんだな。
分かってたけど。知られたら壊れるのは分かっていたけど。どこかでは少し期待していたみたいだ。俺の想いこそ受け入れなくても、友達ではいてくれるとか。
バカだ。そんなわけないのに。自分を好いているホモなんて、ストレートには耐えがたいに決まっている。
泰人が悪いわけではない。普通なのは泰人だ。俺が悪くて、おかしくて、いけなかったせいで──本当に、あっさり、たたきつけたガラスよりもろく、絆は砕け散ってしまった。
月の光もくっきり白くなる頃、どうにか脚を動かして自宅に帰った。「おそーい」と言った千砂と希砂に「ごめんごめん」なんて咲って、一緒に夕食も食べた。食器を洗ったあと、水圧を上げた熱いシャワーを浴びて、しかしそれでも、頭の中の霞みは落ちなかった。
その霞みで感情もぼやけ、哀しいのか悔しいのか、あるいは憎らしいのかはっきりせず、思いのほか泣かなかった。さすがに宿題をやる気にはなれず、明日誰かのを写せばいいやと、教科書とノートを取り出しもしないまま放置する。
なぜか光が嫌だったから明かりを消し、冷たいシーツのベッドに横たわると、ほんと疲れたな、と睫毛をおろした。
たぶん、これでよかったんだ。嫌悪されたのだとしても、泰人はせめて、それを表してぶつけてくることはしなかった。気持ち悪いとか、そういうことも言われなかった。ただ、俺を恋愛対象ではないとはっきり斬ってくれた。
同性に告られたにしては、優しかったんだ、泰人は。なのに、どうして俺は、こんなに心から出血し、鼓動がつっかえるほど呼吸ができなくなっているのだろう。
泰人を失ってしまった。親友と言われて、信じられないほどつらかったじゃないか。そのくせ、親友という立場も失くしたらつらいのか。何で俺はこんなにわがままなんだ。
そりゃあ、全部終わりって言われるよな。今までの時間も。想い出も。一緒に咲ってきたことだって。もうおしまい。リセット。泰人と過ごせる毎日は終わった。
だというのに、隣から泰人は欠けてしまったのに、俺は明日も、いつも通りに振る舞わなきゃいけない。
泣きそうなのに、泣けないのが苦しかった。涙で感情を吐き出してしまえたら、少しは楽かもしれない。なぜかつっかえて、胸苦しさばかりで何も出てこない。大声でも上げてみたらいいのかな。だけど、そしたら、千砂と希砂に心配かけそうだし。ただ、息遣いばかり震えて、口の中が飢えるように渇いた。
今すぐ泰人が訪ねてきて、「さっきはごめん」って手をつかんで、笑顔を向けてくれたら、俺はそれでいいんだけど──
そんなの、絶対に、絶対に、ありえない。恋愛として見れない。友達として見れない。そう言い合ったとき、俺たちは、もうかけちがえてしまったのだ。
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