メッセージ
ひとり暮らしは、最初は排水溝の掃除を忘れてしまったり、ふとんを片づけずにいて裏がカビたり、失敗もやらかしつつ学習して何とか進んでいった。排水溝は、週に一度はシートを取り換え、面倒でもふとんは起きたら上げて、たまにベランダに干す。そばにコンビニがあるので、料理の腕だけはどうも上がらなかったが、それでも穏やかに暮らしていけた。
あっという間に、また二年ぐらい過ぎた頃、SNSの天海智生監督のファンコミュニティに速報が上がった。天海監督は、海外でも作品を撮るような監督だが、『水空』以来に国内での新作を制作するらしい。
それが、どうやらあのゲイの息子さんが脚本を担当しているそうなのだ。もちろん天海監督のファンなら『水空』の誕生秘話は知っている人が多いので、コミュニティは一気に沸いた。
やがて映画公式からの情報解禁も始まり、キャストも公開されていった。子役のときから演技派と言われていた内海恵紗、モデル出身で硬派イケメンの恵野玲夢、アイドルグループで花形の人気を博す里目千澄──特に、主役が内海恵紗なのは、彼の子役としての作品も見たことがあったので嬉しかった。
ほかにも、俳優の児玉優雨や若手女優の桐生いくるも出演するらしい。やばい、これは絶対に観たい。そんなことを俺が毎日言っているので、「はいはい、公開初日はオフ取っとけ」とオーナーはあしらいつつも苦笑していた。
監督は天海智生、脚本はその息子である天海芽留、公開を待望していた『ハンドメイド』というその作品は、俺が二十三歳の新春に封切られた。
俺は金曜日の朝、初日の初回に見にいったが、それでもすでに座席は混雑していた。たまに、男同士で手をつなぐふたりや、女同士で寄り添いあうふたりが見受けられて、『水空』がやはりマイノリティに響いたのだろうなと感じた。
『ハンドメイド』は、同性愛と、さらに性的虐待を取りあつかった内容だった。性的虐待の描写がかなり生々しく、ショッキングだったが、目をそらすことができなかった。
ゲイでありながら同性に性暴力を受け、自分のセクシュアリティに混乱している内海恵紗が演じる“望海”の痛々しい心の傷、そしてそんな望海を守るため、深い傷を誰よりも受け入れて包みこむ恵野玲夢演じる“佑悟”の優しいまなざし、そういうのが突き刺さったまま胸から落ちなかった。
佑悟の腕の中で、やっと幸せそうにはにかんで咲う望海に、涙があふれてきた。すべてが雪の結晶のように美しくて、鮮やかな血のようにむごくて、つないだ手のぬくもりのように温かかった。
やばい、この映像も脚本も全部やばい。語彙力を失ってそんなことを思いながら、エンドロールが終わってシアター内がふっと明るくなっても、なかなか立ち上がれずに泣いていた。
パンフレットを買って、やっと映画館をあとにすると、今日一日は余韻に浸りたくて部屋にすぐ帰宅した。
ため息をつきながらふとんに寝転がり、いいなあ、と素直に思った。俺もいつか、あんなふうに通じ合える人と出逢えるのかな。そうだとしたら、早くその人と出逢いたいな。
ひとりは寂しい。泰人と仲違いして何年だろう。さすがに未練もなくなったし、新しい恋について考えはじめてもいいのかもしれない。でも、俺がゲイだなんて誰も知らないし。ゲイってカミングアウトして生活するのも怖いし。どうやったら、望海にとっての佑悟のような存在と知り合えるのだろう。
夕方くらいになって、やっと空腹で起き上がった俺は、買い置きのカップラーメンをすすったあと、ケータイでSNSにアクセスした。
友達としてつながっている映画仲間の新着日記に、早くもちらほら『ハンドメイド』の感想やネタバレ注意が上がっている。天海智生ファンコミュニティに行けば、さらに『ハンドメイド観てきた!』という書きこみがたくさんあった。
俺はもうネタバレも怖くないので、アンチの戯れ言は除き、『ハンドメイド』の感想をいろいろ読んだ。
映画はもちろん最高だったが、主題歌もよかったという声も多い。主題歌は、確かEmerald Leafという聞いたこともないバンドの“Diamond Azalea”という曲だった。音源化されず、映画公式サイトでストリーミング配信でのみ聴けるという変わった公開だった。
『これ絶対にXENONの梨羽の声なんだけど』という書きこみがあったが、そんなバンドも俺は知らない。音楽のことはそこまで分かんないからなあ、と思いつつまた感想を周回していると、その中で目に留まった感想があった。
『ハンドメイド、観てきました。
内海恵紗が演じてる望海が、見ててつらくなるぐらいで、とにかくすごかった。
自分のセクシュアリティをこんなふうにかきまわされて、自分でさえ自分を受け入れられないって、どんだけ苦しいんだろう。
望海に佑悟がいてよかった。
映画の中の役柄なのに、マジでそう思わせるからこの作品はすごい。
佑悟の台詞もすごくよかったな、いろいろ。
「すごい」ばっか言って語彙力どっか行ってるけど、本当に、最強の映画でした。』
最強。最高じゃなく、最強。その言い方が、何だか好きだなと思って、その人のプロフィールページに飛んでみた。
「キリ」というその人は、特に映画ファンという記述はなく、どちらかと言えばゲームに関することが書かれていた。参加コミュニティもゲーム関連が多いが、天海智生コミュニティには参加していて、それだけでなく、『天海芽留を応援したい!』といういずれ発展しそうなコミュニティにも参加していた。
そのコミュニティによると、『ハンドメイド』で脚本家デビューを飾った芽留さんは、「イジメられるからゲイであることは伏せろ」と担任教師に言われて以来、登校拒否をして引きこもりになり、ひたすら脚本を書いてきたらしい。そして、自分がゲイでありながら脚本家として表舞台で活躍することにより、性を押し殺している同性愛者の勇気になりたいと願っているそうだ。
何だこの人、めちゃくちゃかっこいいな。そう思ったときには、俺もそのコミュニティの参加ボタンをクリックしていた。
それから、キリという人のページに戻り、友達申請してみることにした。正直に、『ハンドメイド』の感想日記がすごくよかった、というメッセも添えた。『最高』でなく『最強』という言い方が好きだと思ったのも書いた。
どきどきしながら送信ボタンをクリックして、送っちゃった、とそわそわしていたら、あんがいすぐに、キリさんが友達申請を受け入れたシステムメッセが届いた。嬉しさのあまり、即座にお礼のメッセを打てずにいると、ケータイはキリさんからのメッセを受信する。
『初めまして、真彩さん。
メッセありがとうございます、何か照れました。
プロフ見ましたが、たくさん映画観てるんですね!
俺は知り合いの勧めでハンドメイド観ましたが、普段はゲームばっかやってます。
それでもよければ、よろしくお願いします。』
俺、ってことは、この人は男なのかな。というか、ぜんぜんそれでもOKだって早く返信しないと。いや、それでもOKなのか? 俺、ゲーヲタと話合うのか?
やや疑問だったものの、この人と話してみたいと思ったのは事実なので、俺は急いでこちらこそよろしくという返信を書いて送信した。
それから、最初の疑問なんか吹っ飛ばして、俺はキリさんとよくメッセを交換するようになった。キリさんは俺のひとつ年上だが、就職せず同じくフリーターで、気ままに過ごしているらしい。自然と敬語も抜けて、まもなくやりとりは直メに移行した。
俺のほうが話しかけたのだから、俺がキリさんの話題に合わせるはずなのだが、キリさんが俺の映画マニアな話を聞いてくれるほうが多かった。それどころか、『こないだ言ってた映画、DVD見かけたから観てみたよ。真彩くんのセンスやっぱいいよな。』なんてメールをくれることもあって、すごく嬉しくなった。
こんなに気兼ねなく会話がはずむ相手、もしかして初めてかもしれない。
『嫌だったらいいんだけど、写メ交換するのってあり?』
春になっても、キリさんとの連絡頻度は落ちなかった。仕事がオフだったある日、ちゃんと仲良くなれてるよな、と今の距離感を測りつつ、勇気を出してそんな一文をメールに添えてみた。
レースカーテン越しに陽光が明るい部屋で、どきどきするのを抑えて過ごしていると、そのうちケータイにメール着信がついた。
『全然ありだけど、今は寝起き面だから少し待ってて。』
全然あり。「やった」と思わずつぶやき、にやけてしまう。
俺は寝起きでも構わないけど、それを言うのは馴れ馴れしいか。というか、交換だから俺も自撮りしなきゃ。そこに気づいて、急いでケータイのカメラで何枚か自分を撮って、なかなか納得できなくて唸った。
何か、前髪が長くて根暗に見える。切ろうかな、前髪。しかし、自分で切るのは怖いし、かといって前髪だけのために美容院行くのもちょっと。そもそも、今から美容院の予約を取っているゆとりもない。
悩んだ挙句、コンビニに走ってヘアピンを買って、それで抑えてみた。もう一度自撮りに励み、きちんと目に光が入っているものが撮れると、よし、とそれを添付してキリさんに送信した。
『ヘアピンかわいいな。
俺、適当に今撮った奴でごめん。』
そんな返信が来て、深呼吸で鼓動を鎮めてキリさんの添付を開いた。
すると、そこには普通にかっこいい男がいた。どんな容姿でも気にしないつもりだったけど、本当にかっこいいのだ。鼻筋や頬から顎の線が綺麗で、顔立ちも凛と整っている。野性的な鋭さがある瞳なのに、まなざしは優しい。これが適当に撮った奴なら、実物はどれだけなのだろう。
『キリさん、すごいかっこよくてビビった。』
バカ正直なメールを送ると、『真彩くんも綺麗系でかわいいよ。』と返ってきて、俺はふとんに転がってじたばたしてしまった。
やばい。キリさんにそう言ってもらえてめちゃくちゃ嬉しい。でも、もしかして、これほどのイケメンなら彼女くらいいるのかな。
ちくりと有頂天に水が差し、けれど、そこは確かめておいたほうがいいのか。ここで突然、『そういえば、キリさんって彼女いるの?』と話題を変えるのも変だから……と一考し、俺はメールを打つ。
『キリさんの彼女は、かっこいい彼氏が自慢だろうなあ。』
写メ交換の流れに沿って、そんなメールを振ってみる。そうだろうね、といううぬぼれたような返信は来ない気がする。分からないよ、とか、そうでもない、とか、あるいは──
『彼女なんかいないよ。
真彩くんはいるんだ?』
小さく声をあげそうになり、口をふさぐ。
彼女いない! マジか。こんなにかっこよくて、メールでもすごくいい感じの人なのに。
『俺も彼女とかいない。
てか、できたことない……』
そんなメールを送ったあと、童貞まで告白していることに気づいて慌てたが、『じゃあ、これからも独り身同士でメールしような。』とキリさんの返事が来て、ほっとしながらつい笑みをもらしてしまった。
これからもメールできるんだ。邪魔してくる女もいないんだ。このままだとキリさんを好きになっちゃうんじゃないか、と思った。でも、もし気持ちがそう育っても、伝えてはいけないのは学習している。
その後も、俺とキリさんはこまめに連絡を取った。
初夏になって暑さを覚えはじめる頃、オフが重なったことがあり、そのときは半日くらいメールでやりとりしていた。話したい気持ちがどんどんあふれて、文字を打つ速度が追いつかなくなってきたとき、『よかったら、電話してみる?』とキリさんが俺も考えていたことを切り出した。
俺はもちろん『電話したい!』と応じて、その日、初めてキリさんの声を聴いた。落ち着いた硬質な声が耳元で響いて、心臓も感覚も関節も甘く溶けるんじゃないかと思った。
そのとき、本名で呼ばれたいな、と思ったので俺はキリさんに本名を教えた。キリさんも「ハンネで呼ばれるの慣れてないし」と本名を教えてくれた。沙霧さん、というのだそうだ。
だいぶ長電話になってしまった。お互いそろそろ夕飯でも食べて、明日に備えて寝なくてはならない。そんな時間になって電話を切る前に、「また電話できるかな」と俺がそわつきながら訊くと、『また話せるように、オフ合わせないとな』と沙霧さんは言ってくれた。デートの約束みたいな言い方が嬉しかった。
メールや電話は減るどころか増えていき、「だいぶお花畑だなあ」と俺のふわふわした様子にオーナーは肩をすくめていた。が、仕事は仕事でちゃんとやる俺を見取って、揶揄はしても文句は言わなかった。
沙霧さんと話しているときが幸せで、次第に信頼も寄せるようになり、俺の中にはちらつくひとつの考えがあった。
この人になら、打ち明けてもいいかもしれない。
好きになりかけていることは言わない。けれど、俺がゲイだという真実も、沙霧さんには受け入れてほしいなと思いはじめたのだ。
同性愛だって俺の一部だ。隠したまま仲良くなっても後ろめたい。沙霧さんなら分かってくれるかもしれない。分かってもらえずに軽蔑されたら、哀しいけど、それまでの人と思うしかない。
沙霧さんには嘘をつきたくなかった。俺のことをきちんと知っていてほしい。
その上で仲良くしてもらえたら、別に恋人になりたいなんて思い上がらないから。
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