溶け合うように
そしてその夜、俺と沙霧は、「好き」と言いながら、言われながら、深くつながって結ばれた。人に触れられるどころか見られるのも初めてだったから、恥ずかしかったけど、沙霧は優しくしてくれた。
俺も沙霧の首に腕をまわしてしがみつき、「好き」とうわごとのように繰り返す。沙霧は俺の頭を撫でて、奥に届くように動いてくれながら、「俺も好きだよ」と言って食むように俺に口づけた。
翌日は、昼までふとんの中でいちゃいちゃしていたから、夕方の別れ際は予想以上に寂しく、俺はさっそく涙目になってしまった。「また来るよ」と沙霧は俺をなだめ、「俺も沙霧に会いにいく」と約束した。
ほんとは抱きしめてほしかったけど、やはり、駅の中で男同士がそれはできなかった。沙霧が改札を抜け、一度こちらをかえりみて手を振って、それから見えなくなるのを手を振り返しながら見守っていた。
遠距離でもいい。心がつながっていればいい。そう思ったものの、こうして触れられなくなると一気に寂しさが押し寄せる。
次はいつ会えるのかな、なんて思いながら、ようやくその場を歩き出した俺は、ため息混じりに自分の部屋に向かった。
部屋まで歩きながら、ケータイを取り出した。沙霧との時間を邪魔されたくなくて、サイレントにしたままだった。
着信がついているのでチェックすると、めずらしく千砂からのメールがある。
『にいちゃん、突然ごめん。
希砂がそっちに逃げたかも。
進路の話、全然聞こうとしないんだよ。
もう高校二年生だっていうのに!』
完全に千砂が母親みたいで、泣きそうだった俺も笑ってしまった。ちなみに千砂は二十歳になって、現在は法学部に通っている。両親を継ぐのは千砂で間違いなさそうだ。だったら、希砂は好きにさせてもいいんじゃないかと思うのだが、千砂としては何かしらはっきりしないと心配なのだろう。
喧嘩したら逃げてくるとか言っていたわりに、実際には来ないもんだよなあとかひそかに思っていたら、今頃になって来るか。
「あー、もう……希砂来るなら泣けないじゃん」
そんなことをひとりごちつつ、兄として忘れられていないことが何だか嬉しい。希砂もカフェオレ作ってやれば機嫌直す歳じゃないよな、とどう落ち着けるか思案していると、ふと、名前を呼ばれた気がした。
立ち止まってあたりを見まわし、アパートはすぐそばの場所だと気づく。ついでもう一回「真砂」と声がしたかと思うと、前方からスーツを着た男が駆け寄ってくる。
誰、と一瞬本気で思ったあと、夕影の中でもその顔立ちが見えてきて、心臓を踏みつけられた気がした。
いや。まさか。だって。俺とあいつは、あの日から、道は違えたはずで──
面影の上に眼鏡をかけたそいつは、俺の前で立ち止まった。
「よかった、会えて。俺だけ帰るとこだった」
俺はじっとそいつを見つめ、こわばった声で確認してみる。
「泰人……?」
「ああ。久しぶり」
「な……んで、お前が、」
「希砂ちゃんがマンション飛び出してくるとこに逢って、お前のとこ行くって言うから」
「希砂──え、一緒なのか?」
「希砂ちゃんは、お前の部屋の前で粘ってるけど」
「……じゃあ、帰るわ。この街危ないしな。ありがと、じゃあ──」
「いや、俺もっ──お前に、ちゃんと、会わなきゃいけないと思ってて」
眼鏡が見慣れない泰人を見た。俺は露骨に眉をゆがめて、さも迷惑そうな顔を作りながらも、スーツってことはもう医者になって働いてるのかな、とか考える。
「その……俺、来月結婚するんだけど」
結婚。思わずまじろいでしまったものの、すぐ顔をそむける。
「あのときの彼女?」
「えっ?」と泰人は少し意味が分からないような表情をしたあと、「あ──」と声を伸ばす。
「いや、何年前だよ。あいつには、とっくに振られてるわ」
「……振られた、の?」
「振られた。何か子供だよねって言われて、振られた」
何だか憶えがあって、憮然としていたいのに、小さく噴き出してしまった。そう、ガキだと思われて振られたらどうしようとか言ってたな、こいつ。
「笑うなよ。結局、楽なのはタメだな。年下は頼ってきてばっかでめんどくさい」
「タメと結婚すんの?」
「道橋って憶えてる?」
「誰?」
「だよな。俺も大学で再会して思い出した。でも、一応俺の初恋はあいつだぞ」
「………、ああ、小四のときの」
「憶えてるじゃん。そう、その道橋」
俺はちょっと考えたのち、「え、道端さんと結婚すんの?」と改めて確認する。
「そう。あいつも医学部でさ、再会して初めて仲良くなって。何か……まあ、卒業も国試も決まったときに、プロポーズ的な」
「えー、すごい……な、いろいろ。いや、全部」
「真砂は今、何してんの」
「ただのバイトだけど、オーナー死んだら、店任されるっぽい」
「何だよ、それ。すごいのか何なのか分かんねえな」
泰人はそう言って笑い、俺も何だか笑ってしまう。
……ああ。そうだな。こんなふうだったな、俺たち。ただひとつ違うのは、こうして泰人と向かい合っていても、俺の心臓はもう苦しくはちきれそうになったりしないことだ。
「……泰人」
「ん?」
「おめでとう。いろいろ……じゃなくて、全部か」
泰人は目を開き、それから、どこか泣きそうに咲った。「何だよ」と俺はその横っ面を軽くはたいてやる。
「気にすんな、バカ」
「ありがと……。ほんと、ガキだったから、俺。お前のこと、あのとき分かってやれなかったのが、めちゃくちゃ悔しくて」
「………、」
「何で、終わりなんだろって、ずっと考えてた。お前の気持ちには応えられなくても、終わりは違うだろって」
「……うん」
「勝手に裏切られたような気持ちになって、あんなこと言ってごめん。あのときは、友達じゃないのかよって、そう思っちまって──」
「友達だよ」
「真砂……」
「お前は、俺の親友だ」
泰人は俺を見つめたあと、「やばい、逆にハグしそう」とか言って、「それはやめろ」と俺はさっと身を引く。
「俺が浮気したことになる」
「浮気って。……そっか、お前もいるんだ、ちゃんと」
「うん。すげーかっこいいぞ。今度、紹介する」
「そのときは、俺も連れてくるわ」
「結婚、来月かー。あ、なるほど。六月だな」
「籍入れるのはな。式は今から式場抑えるのが無理」
「ふうん。俺も式だけは挙げられたりするのかなー」
そんなことを言ったときだ。「おにい!」と声がして、俺と泰人もはたとそちらを見る。
するとそこには、制服すがたの黒髪ロングになった希砂がいた。
「もうっ、タイちゃんとかいつでもいいから、私の話聞いて!」
どうのこうの言いながら駆け寄ってくる希砂に、俺は笑いながら「いつでもいいよ、また」と泰人に言い、泰人も笑いをこらえて「おう」とうなずいた。
希砂は俺の腕をつかまえるとぶんぶん振りまわす。「落ち着け」と言ってもやめないので、とりあえず部屋に保護することにする。
こんな希砂にカフェオレを作ってやったときだっただろうか。コーヒーとミルクが混ざり合い、それが柔らかなカフェオレに溶けるのを見て、こんなふうに分かり合いたかったと思った。
泰人はその相手ではなかった。今ならそれでよかったと思う。沙霧に出逢えたから。コーヒーとミルクみたいにしっくり溶けあえる。俺のそんな片割れは、沙霧だった。
下手に泰人のことを想い続けていたほうが、沙霧に出逢えていなかったかもしれないのだ。だったら俺は、あの背中が見えなくなったとき、すべて失ったように思えた高校時代も許すことができる。
「またな」と遠ざかっていく泰人を見届ける。それから、彩雲のたなびく夕暮れが、夜にうつろいかけているのを見上げる。
もう俺は、日が暮れるように、闇に向かって歩いているわけではない。ひとりのまま生きていくわけでもない。
ケータイの着信音が鳴って、「ん、私?」と希砂はちょっと慌てた。「あー、俺だ」と言って俺はケータイを取り出す。
メール着信。もちろん彼から。
『真砂、泣きそうだったけど大丈夫か?
いつか、離れなくていいように暮らせるといいな。』
……うん。俺たちも結婚式くらい認めてもらえるかな。今すぐじゃなくても、せめて家族には、俺にはそんな人がいることを言えるといいな。
そう思って、俺がにっとして見せると、希砂はきょとんとしばたいたあと、とりあえずにっと返してくる。その反応に笑い出してしまいつつ、泣いてないよ、と思った。
だって、俺はひとりじゃないから。家族も、親友も、そして、君もそばにいる。
怖いもんか、と思った空には月がある。その穏やかな光は、確かに俺の闇を優しく溶かし、癒やしてくれる気がした。
FIN
