Marry Me
あの頃、僕の未来は寂しく、虚しく、暗いものだと思っていた。必死に表情を取り繕って、真夜中には声を押し殺して泣いて、「死にたい」とばかり心の中で唱えて──そんな毎日しかないとあきらめていた。
あるいは、本当に首をくくって死んでいたかもしれない。
しかし、今、僕は生きている。周りを愛して、好きな人と微笑んで、明日を心待ちにして眠る毎日を送っている。
十四歳のとき、僕は僕の人生から逃げられないのだろうかと絶望していた。本当に、死ぬしかないと信じていたのだ。
仕事が終わって、最寄り駅に着くのは、いつも二十時くらいだ。その頃、千羽ちゃんもバイトを上がるので、僕は地元の商店街のソフトクリーム屋に立ち寄る。
僕も千羽ちゃんも、通信制の高校を四年前に卒業した。
それから僕は、心理学科の専門学校に進み、千羽ちゃんはソフトクリーム屋でバイトを始めた。僕の父親である聖樹さんの恋人、聖乃さんの実家のお店だ。千羽ちゃんは今ではすっかり聖乃さんに並ぶ看板娘で、商店街の人とも仲良くなっている。
僕は三年間専門学校で勉強したことを生かし、高校時代から手伝っているグループが設立した就労支援の作業所で、職員兼心理カウンセラーをさせてもらっている。
「ありがとうございました」という声がして前方を見やると、千羽ちゃんが中学生くらいのカップルにソフトクリームを手渡していた。腕時計を見ると、二十時まであと十分くらいある。
僕はお店の前に歩み寄ると、「ミルクひとつください」と声をかけた。「いらっしゃいませ」と言ってこちらを見た千羽ちゃんは、僕を見ると咲って、「萌梨くん」となごやかな瞳で微笑む。千羽ちゃんは仕事中はいつも、長く緩いウェーヴの髪を後ろでひとつに束ねている。
「お疲れ様。お仕事、終わったの?」
「うん。千羽ちゃんもあと十分くらいだよね」
「もうそんな時間か。閉店作業始めなきゃ」
「僕、ソフトクリーム食べながら待ってるよ」
「ふふ、売上貢献ありがとうございます。三百円になります」
僕はリュックから財布を取り出し、百円玉三枚を見つけると、ショーケース越しに千羽ちゃんに渡す。千羽ちゃんはそれを受け取ると、すっかり慣れた手つきで、ソフトクリームをシュガーコーンの中に作った。
「どうぞ」とミルクのソフトクリームをさしだされ、「いただきます」と僕は受け取る。「ありがとうございます」と千羽ちゃんはにっこりすると、それからお客さんの様子を見ながら、閉店作業を始めた。
七月に入って梅雨が明け、焼きつける太陽の快晴が続いている。この時間になって日は落ちても、アスファルトから照り返しが立ちのぼって暑い。
この商店街の店は、たいてい二十時に閉まる。だから、ソフトクリーム屋以外でも閉店が始まっていて、それを眺めながら甘い香りのソフトクリームを頬張る。甘い冷たさで体温を冷まし、食べ終わると、コーンの包みを店の前のゴミ箱に入れる。
リュックのポケットから、スマホを取り出す。慣れなかったタップやスワイプにもなじんできた。着信をチェックすると、聖樹さんはもう帰宅しているという連絡が来ていた。僕も今から帰ると返しておく。
フリック入力も何とかできるようになってきたな、なんて思っていると、千羽ちゃんがゴミ箱のふくろを取り換えにやってきた。「もうちょっと待っててね」と僕に声をかけ、てきぱきと作業をこなしていく。僕はそれを見守りつつスマホをしまい、少なくなっていく人通りの中に残って、千羽ちゃんを待つ。
二十時にはどこの店もシャッターも下ろし、それから十五分ほどまわった頃、路地から「萌梨くん」と声がした。見ると、エプロンを外して髪をおろした千羽ちゃんが、こちらに駆け寄ってきている。
「お疲れ様」と微笑むと、「萌梨くんもお疲れ様」と千羽ちゃんも咲った。僕たちは自然と手をつなぐと、夏の夜をゆっくり歩きはじめる。
「今日もごはん食べてく?」
「うん。萌梨くんちで食べてくの、習慣になっちゃったね」
「人数多いの、聖樹さんも喜んでくれてるから」
「聖樹さんは、聖乃さんに来てほしいんじゃないかなー」
「はは。千羽ちゃんが『夕食一緒に』って誘ったら、聖乃さん来るんじゃない?」
「私が帰る頃には、おばさんが夕食用意しちゃってるもん」
「出勤したときに誘っておけば、聖乃さんが『今夜は外で食べる』って用意する前に伝えてくれるかも」
「そっか。じゃあ、今度誘ってみる」
そんなことを話しながら、駅前を出ると公園沿いを抜け、住宅地の一角のマンションにすぐたどりつく。
二階の一室の前に着くと、リュックから鍵を取り出し、さしこんでまわす。かちゃっと音がしてドアを開けると、「どうぞ」と先に千羽ちゃんを招き、僕も続く。
夕食のいい匂いがただよっている。「ただいま」と声をかけると、廊下の先から聖樹さんが顔を出した。
「おかえり、萌梨くん。千羽ちゃんもいらっしゃい」
「お邪魔します」
「夕ごはんできてるけど、すぐ食べる?」
「うん。──お腹空いたよね」
千羽ちゃんは僕にうなずいてから、「いつもいただいちゃってすみません」と聖樹さんに謝る。
「いいんだよ。じゃあ、荷物おろしたりしてて」
聖樹さんはキッチンに引っ込み、僕と千羽ちゃんはいったん僕の部屋に入る。明かりをつけて、荷物をベッドの上に置いた。昼間の熱気がこもっていたので、エアコンのドライをつけておく。
リビングに出ると、聖樹さんが夕食を座卓に運んでいた。千羽ちゃんには座ってもらって、僕も聖樹さんを手伝う。「お味噌汁よそってくれる?」と頼まれたので、僕はお椀を食器棚から取り出して焜炉の前に立つ。
今夜のメインはどんぶりだった。ナスと豚挽肉の味噌炒めが、ごはんにたっぷり乗っている。それからプチトマト、きゅうりの漬物、わかめの味噌汁──夏野菜がしっかり入った献立で、味噌の香ばしさでさらにお腹が空く。
メニューが座卓に揃うと、三人で「いただきます」と言って僕たちは箸を取った。
「今度、夕食に聖乃さんも誘いたいねって話してたんだけど」
聖樹さんは、昔は人前では伊達眼鏡をかけていたけど、今はやめて素顔をさらすようになった。穏やかな瞳、色素の薄い髪、輪郭も無駄がなく、三十七歳になるのだけど見た目はとても若い。
味噌汁に口をつけていた聖樹さんは、そう言った僕を見て「来てくれるかな」と首をかしげる。
「聖樹さんとごはん食べれるんだから来ますよ」
喉が渇いていたのか、まず麦茶を飲む千羽ちゃんが咲うと、「お店終わってばたばたしてるなら、ちょっと申し訳ないな」と聖樹さんは肩をすくめる。
「たまにだったら、精算とかおばさんが手伝ってくれると思います」
「じゃあ、一緒に食べたりしたいね」
「四人揃うの、けっこう楽しいもんね」
「私と聖乃さんが、萌梨くんと聖樹さんの女子力に負けるけど」
「女子力って」と僕が笑いを噛むと、「だって」と千羽ちゃんはグラスを置く。
「お料理とか、ふたりのほうが上手なんだもん」
「今度、萌梨くんと何か作ってみたら? 僕と聖乃さんが食べるよ」
「えーっ、それ、逆もやってくださいね?」
「聖乃さんには、聖樹さんが本格的に教えてあげないとね」
僕がどんぶりに箸をさしこんで笑うと、「やってくれるかなあ」と聖樹さんは苦笑する。
僕は箸にすくったごはんを口に運び、味噌が甘辛い挽肉とナスを味わう。聖樹さんの料理がおいしいのは、出逢ったときから変わらない。
聖樹さんは、十二月に三十八歳になる。僕は五月に二十七歳になった。親子として年齢差が少しおかしいのは、僕は聖樹さんの義理の息子だからだ。十五歳になる直前の春、僕は聖樹さんに引き取られて、初めて穏やかな生活を手に入れた。
元の家庭は狂っていた。家庭を捨てて男と出ていった母親。その母親の幻影を僕に見てのしかかった父親。
僕は母親似で男らしくなく、昔から大人の男によく性的な悪戯をされた。それが同級生からの仕打ちになる頃には、行為は暴行だった。
中学二年生の修学旅行の夜、僕は見知らぬ街に飛び出して聖樹さんに出逢った。聖樹さんは危険覚悟で警察に通報せず、僕を保護してくれた。
聖樹さんも、同性である男に性的な関係を強要された過去を持っていた。通じる傷口を打ち明けあい、聖樹さんは僕を救い出すために養子にすることを考えはじめてくれた。
役所、警察、裁判所──いろんなところで、何度も何度も体験を語って、すりきれそうだったけど聖樹さんが支えてくれて、ついに僕は聖樹さんの姓である「鈴城」を名乗れることになった。今でも、半年に一度は役所に更新手続きに行って、昔の家庭に現在の住所が知られないようにしている。
千羽ちゃんに出逢ったのは、そのあと、この町に引っ越して通いはじめた通信制高校だった。それまで、自分が恋をするなんて思ってもみなかった。そういう部分は壊れていると思っていたのに、千羽ちゃんは自然と僕の心に溶けこんで、千羽ちゃんもまた、傷も含めて僕を受け入れてくれた。
けれど、やっぱり僕はどこか故障しているのか、性欲を感知することができない。いろいろ調べて、性欲のないセクシュアリティもあると知ったけれど、たぶん僕はそれじゃない。踏みにじられた体験によって、嫌悪や恐怖が先走っているのだろう。
だから、僕はまだ千羽ちゃんと結ばれたことがなく、それはコンプレックスだ。千羽ちゃんはそれを理由を去っていく女の子じゃないし、試そうとしてやっぱり失敗しても「大丈夫」と微笑んでくれるけれど、情けないなあと思ってしまう。快楽をむさぼれるようになりたいわけではないけれど、千羽ちゃんは、僕とのあいだに子供を持てたら幸せだと言ってくれたことがあるから。
夕食を食べ終わると、「気をつけて」と聖樹さんに見送られて、僕は千羽ちゃんを駅まで送った。外は相変わらず茹でられたような空気がねっとりと肌に絡みついてくる。
千羽ちゃんの実家は、この町から電車で一時間くらい離れているから、僕はときどき「まっすぐ帰さなくてごめんね」と謝ってしまう。すると千羽ちゃんは「一緒にごはん食べたいから」とにっこりして、「悠紗くんもいないし」とつけくわえる。
確かに、悠紗は去年から部屋を借りてXENONに同行するのをやめたから、ますます帰ってくる機会が減った。「おとうさんもおかあさんも、萌梨くんのこと信頼してるから」と改札の前で立ち止まって千羽ちゃんは柔和に咲う。
「終電までに帰ってきたらいいよって言ってるし。最寄りまで行ったら、電話すれば車で迎えに来てもらえるし」
「千羽ちゃん、電話せずに歩いて帰ってくるっておかあさんが言ってたからなあ」
「だって、歩いたほうが早いんだもん。夜の駅前で立ってるのもわりと危ないでしょ」
「そうなのかな。うーん、どっちにしろ気をつけて」
「うん」
と言いつつ、別れがたくて僕たちはまだ手をつないでいる。僕の指には五月のエメラルド、千羽ちゃんの指には四月のダイヤモンド、同じデザインの指輪が光っている。
「何か──」
「ん?」
「いつか、帰るところが同じになるといいね」
「えっ」
「千羽ちゃんと作った、帰る家を持ちたい。そしたら、会ったあと別れなくていいし」
千羽ちゃんは僕を見つめて、まばたきをして、小さくくすりとすると、「プロポーズ?」と訊いてきた。そう言われてから、僕もそんな台詞だったことに気づき、けれど否定するのもおかしいので、「プロポーズだね」とはにかんで咲った。
「ごめん、普通はこういうの、夜景とかレストランだよね」
「ふふ、離れたくなくて言ってくれたときなのが嬉しいよ」
「そっか。じゃあ──帰る場所を僕と作ってくれますか?」
千羽ちゃんの瞳を見て、改めて言うと、千羽ちゃんは笑顔を浮かべて「はい」とうなずいてくれた。それから一緒に咲って、「もう僕たち、結婚してもいい歳なんだよね」と僕が言うと、「私も二十五だし、そろそろもらってもらわないとなのかな」と千羽ちゃんも悪戯っぽい瞳で返す。
「ほんとに、考えていこう。僕、千羽ちゃんと一緒に暮らせるようになりたい」
「私も。萌梨くんしか考えてないから」
「ありがと。──遅くなるね。明日もバイト?」
「うん。また明日だね」
「分かった。明日、僕も仕事終わったらお店覗くよ」
「待ってる。じゃあ、萌梨くんも気をつけて」
僕たちはやっとつなぐ手を離すと、もう一度笑みを重ね、千羽ちゃんはICカードで改札を抜けた。手を振った千羽ちゃんに手を振り返し、そのすがたが見えなくなるまで見送る。
それからふうっと息をつき、立ってるだけで汗かいてくるなあ、と汗ばんだ額をぬぐうと、来た道を引き返しはじめた。
プロポーズできたことになるのかな、と首をかしげてしまう。流れで言った感じになってしまった。ちゃんと指輪を用意して言ったりするものだったかもしれない。
しかし僕は二十七歳で、千羽ちゃんは二十五歳で、何よりつきあいも長く、そろそろまじめに考えることではある。僕も結婚相手は千羽ちゃんしか考えていないし、結婚のこと調べていかなきゃな、と心に決めた。
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