喜びに満たされて
梨羽さんのほうを見ると、紫苑さんが梨羽さんの様子を窺っていて、僕はそこに歩み寄ってみる。
「梨羽さん、大丈夫ですか」
紫苑さんは僕を見て、「こういう空気に慣れてないだけだと思う」と低い声で言った。
「それ」
「えっ」
「そのつつじ」
「あ、これ──」
「梨羽、何度も試して、一番気に入ったの贈ったみたいだから」
「そうなんですか。嬉しいです」
「俺は、何か用意とかはできないけど──おめでとう」
「はい」
「それから、聖樹のそばにいてくれてありがとう」
僕が微笑んでうなずいていると、「萌梨ーっ」と突然肩をつかまれて揺すぶられて、見ると葉月さんだった。
「何? 結婚式ってこんな感動するの? 聖樹と萌梨の結婚式だからなの?」
「え、えと……」
「こんな結婚式を挙げられる萌梨はすごいなと俺は思う。俺だったら絶対無理。要でも無理。紫苑も梨羽も無理」
「あの、えと、葉月さんたちはバンドのメンバーとつながってるんだと思いますよ」
「そうかなあ。どうよ、要」
聖樹さんと話していた要さんがこちらを向き、「仲間でいいんじゃね」と言う。
「友達ではないだろ、俺たちは」
「そうね。そんなぬるい感じしないね」
「仲間だな」
「つながってるから、XENONのライヴはすごいんだと思いますよ」
「そお? へへ……そっか、そうだね。俺らには結婚式はないけどライヴがあるよね」
「てか、葉月マジで泣きそうだったよな……何か意外」
「聖樹が好きな女と結ばれる日が来たんだぞ。泣くだろ」
「泣きはしねえけど」
「梨羽はやや泣いてたぞ」
「紫苑は無表情だった」
「要と紫苑はダメな奴だわ」
葉月さんがふうっと息を吐いて首を横に振ると、「僕は四人が揃って来てくれただけで嬉しいよ」と聖樹さんが笑いを噛んで言う。
「先月から、こっちで休んでるよね。そろそろまた全国まわるの?」
「だな。ちょいちょいブッキング入ってるし」
「また車に寝泊まりかよー。軆が固まるー。何とか症候群になるー」
「エコノミークラス症候群だね」
「何かそんな奴」
「そろそろ、どっかに部屋借りて拠点決めたほうがいいのかもな」
要さんがそんなことを言っていると、集合写真を撮る呼びかけがかかった。「うちのヴォーカル、写真嫌いだよ」と葉月さんがこまねき、「一応引っ張っていけ」と要さんに言われて、紫苑さんが梨羽さんを立たせる。「無理しなくていいからね」と聖樹さんに言われると、梨羽さんは窮屈そうな顔を少しほどいて、「大丈夫」とかすれた小さな声で言った。
そうして結婚式に参加した人が並び、僕と千羽ちゃん、聖樹さんと聖乃さんを真ん中にして、何枚か記念写真を撮った。そのあと、僕と千羽ちゃんの写真や聖樹さんと聖乃さんの写真、親子での写真や友人同士での写真も撮ったりした。
その後、希望者を前もって募っていた二次会に移動した。ダイニングバーを貸し切って、みんなそれぞれ相席相手を見つけて席に着き、乾杯のあとゆっくりしゃべる二次会だった。
帰ったのはXENONの四人と、職場に戻る恵麻さん、夜勤がある沙霧、紗月くんと弓弦さんと結音ちゃんも新幹線の時間で抜けていった。
だから、残ったのは本当に身内だけで、何か趣向を凝らして盛り上げなくても、話題が尽きなくてみんなまったりしていた。
「私たちも、このくらいがちょうどよかったね」
適度にお酒も入って空気がなごやかになってきた頃、大きなテーブルを全員で囲むことになって、もう一度乾杯した。すずなさんが聖良さんにそんなことを言うと、「そうだなあ」なんて聖良さんは答えて、「どういう意味よ」と聖樹さんの隣の聖乃さんが突っ込む。コーラルピンクのワンピースを着たすずなさんは「私とせーくんの結婚式は、商店街の人たくさん来たから大変だったでしょ」と言った。
「あー、確かにあんたたちの結婚式はすごかったね」
「挨拶ばっかしてて、ぜんぜん話とかできなかったもんなー。やっぱ結婚式は身内だよねえ」
「しょうがないでしょ、あんたたちは」
ワインレッドのスーツを着た、すずなさんの隣のなずなさんが肩をすくめる。
「子供の頃から、あのふたりは結婚するとかみんな言ってたあんたたちが、ほんとに結婚したんだから。そりゃ商店街の人はみんな来たがるわ」
「けどあれさ、ほとんど町内会の集まりだったよね」
聖乃さんが笑って、「ロマンチックではなかったね」となずなさんはうなずく。
「でも、せーくんと結婚できたのはほんとに嬉しかったよ? プロポーズはロマンチックだったし。夜景のね、」
「要するに山の中でしょ」
「聖良って、すずなに対しては吐きそうに甘ったるいよね」
「夜景観ながらプロポーズって、絶対ネットの情報だしね」
「るせえな……」と聖良さんが聖乃さんとなずなさんを睨み、「もう」とすずなさんが割って入る。
「なずなもきよちゃんも、せーくんをそうやってイジメるのはやめて」
「うちらが適度に聖良を攻撃するから、あんたたち、うまくいってんじゃん」
「そうだよ。私たちが何もしなくなってみ? すずなは聖良をかばう必要もなくて、構わなくなっていくんだから」
「っせえなあ。別に、お前らのおかげで俺とすずなは結婚できたわけじゃねえんだよ」
「えっ、何言ってるの? あたしたちのおかげじゃん」
「ふざけんな。そう言うなずなは、いつ結婚すんだよ」
「そのネクタイで首絞めてやろうか」
「待って、なずなは仕事に生きればかっこいいって、うちのおかあさんが言ってた」
「相手がいたらするよ。いないじゃん。周り基本は既婚者ばっかじゃん」
「夜の仕事って寂しいよね……」
「うっさいな、すず。聖良とかと結婚するほうが寂しいわ」
「せーくんは最高の旦那様だもん!」
その会話を見ていた僕はついつい咲ってしまい、聖乃さんの隣にいる聖樹さんも笑いを噛んでいる。「何?」と僕の隣の千羽ちゃんがこちらを向いて、「聖良さんとすずなさんは、かわいい夫婦だよね」と僕が言うと、千羽ちゃんはふたりを見てうなずく。
「すずなさんたちって、中学生くらいからつきあってるんですよね?」
「うん、そうだよー。というか、お隣だから生まれたときから一緒にいるの」
「それで結婚して、いまだにぜんぜんマンネリもないとか、すごいって思います」
「千羽ちゃん、このバカップルをつけあがらせちゃダメ」
「昔から一緒にいるって、私は憧れます」
「萌梨くんと千羽さんも、知り合ったのはけっこう昔って聞きましたけど」
聖良さんが訊いてきて、僕と千羽ちゃんは顔を合わせ、「ちょうど十年前くらいです」と僕が言う。
「十年かー。それで今結婚できたなら、きっとこれからも大丈夫ですよ」
「そうでしょうか。ありがとうございます」
「ってか、話変わりますけど、萌梨くん俺より年上ですよね」
「えっ。ああ、まあ。でもひとつだけですよ」
「敬語やめてもらえたら嬉しいなーって」
「あ、それはぜんぜん。僕にも敬語やめていいですよ。そうですね、ゆっくり話したことなくてずっと敬語でした」
「俺のことは、名前も呼び捨てとかでいいんで。すみません、実はけっこう気になってて」
「はは。じゃあ、聖良、でいいのかな。よろし──」
く、と言う前に、「聖良が萌梨くんを口説いてる!」となずなさんが聖良をヘッドロックして、「もうやめてよー」とすずなさんがなずなさんを揺すぶる。「もっとやれ」と聖乃さんは明るく笑って、聖樹さんは仕方なさそうな苦笑をしていた。
二次会が終わると解散で、僕と千羽ちゃん、聖樹さんと聖乃さん、そしてひと晩こちらに泊まるという悠紗は家に帰宅した。家を初めて見る悠紗は、あちこち開けたり覗いたりして、自分の荷物が一階の和室にちゃんと残っていることにも感動していた。
悠紗はその和室にふとんを敷くことになり、シャワーを浴びた僕たちもしばらく余韻に浸ってリビングでゆっくりしていたけど、零時になる前にそれぞれの寝室に向かった。
僕と千羽ちゃんは、ダブルベッドにもぐりこみ、触れ合った指先から手をつないだ。千羽ちゃんの指先の体温が、僕の指に流れこんでくる。考えれば、今夜は「初夜」になるのかなあなんて考える。意識していなかったけど、こういう切っかけでもないと、僕はいつまでも何もできないかもしれない。
「千羽ちゃん」
「うん?」
「千羽ちゃんは、その……そんな、そういうことが、怖いとかはないよね」
「えっ」
「いや、えと……僕とするとしたら」
千羽ちゃんはインテリアランプのオレンジの光の中でまばたきをして、曖昧に咲う。
「怖くはない、けど──どうしたらいいのか分からないかも。したことないし」
「そっか。僕は、結婚したし、そろそろ向き合っていかなきゃいけないなって思う」
「つらくない?」
「平気ではないかな。それでも、乗り越えたい。千羽ちゃんとの子供も、いつか欲しいし」
「……うん。私も欲しい」
「今夜って、僕たちの初夜なんだよね。ほんとは、そうして当たり前なんだろうけど──」
僕は千羽ちゃんの手をぎゅっと握ってから、その軆を引き寄せて腕で包んでみた。千羽ちゃんは僕の腕の中でわずかにこわばって、「無理しなくても」と言う。「うん」と僕は静かに千羽ちゃんを抱きしめる。柔らかい軆から、ほのかにいい香りがする。
「無理は、できないから。今ここで、そういうのすることはできないんだけど」
「う、うん」
「でも、ぎゅっとするくらいなら、何か……したかったから。このままでいいかな」
「大丈夫?」
「うん。千羽ちゃんは平気?」
「私は、嬉しいよ」
「そっか。じゃあ、今日はこうやって眠ってもいい?」
千羽ちゃんはこくんとすると、僕の背中に腕をまわして服をつかんでくれた。僕の心臓と千羽ちゃんの心臓が重なって、ほんの少し体温がほてる。千羽ちゃんの髪はまだ少ししっとりしていて、シャンプーの匂いがした。
本来は結ばれる夜なのに、ここまでしかできない自分がやっぱり情けない。方法なら嫌と言うほど知っていても、だからこそ、それを千羽ちゃんに行なうのが怖い。僕にとって、あの行為はあんなにも苦痛だった。好きな人にする行為だなんて思えないのだ。
服を脱がせて、素肌をさすって、体内をつらぬくなんて、そんなことが普通の人には愛情表現だなんて嘘みたいだ。僕はそうされて、あんなに傷ついた。でも、その傷を乗り越えたら、僕も普通の人と同じように千羽ちゃんを抱けるのだろうか。
傷を泳いでぐずぐずしているのは、いいことじゃない。僕はこの傷口から上がって、裂け目を塞いで、当たり前に千羽ちゃんを愛おしめる男になりたい。この夜、いきなり立ち直ることはできないけれども、いつか千羽ちゃんを愛してあげられるようになりたい。
千羽ちゃんは先に眠ってしまって、僕はランプを消すと自分も目を閉じて眠りの糸口を待った。千羽ちゃんの頭を撫でていると、うつらうつらと意識が溶けてくる。
千羽ちゃんと結婚した。誰かと結婚できるなんて、昔の僕には考えられなかった。好きな人なんてきっとできないし、好きになってくれる人もきっと現れないと思っていた。そんな人が仮に現れても、僕はその人を抱くことができなくて、傷つけるだけだと思っていた。
確かに僕は、案の定千羽ちゃんであっても行為を結べない。しかし、そんな自分を克服して、いつか結ばれたいと千羽ちゃんは思わせてくれる。そんな女の子に出逢って、つきあって、祝福されて結婚することもできた。
僕は、少年時代に不幸を使い果たしてしまったのかもしれない。これからの僕には、千羽ちゃんがいる。ただそれだけで幸せなのだから、僕の未来は優しく明るい。冷たい闇に凍える日々は終わった。大丈夫なのだ。もう僕は、あの恐ろしい孤独に置き去りにされたりしない。
まぶたが重くなって、軆からゆっくり力が抜けていく。千羽ちゃんのまろやかな寝息が遠くなっていく。
明日から、別に何が変わるというわけではないけれど、新しい毎日を楽しんでいこう。
そう思って、まだ何か考えたかもしれないけどそれはつかめなくて、緩やかに睡魔に導かれて僕は眠ってしまった。
【第十六章へ】
