カラフルパーチ-18

夢に駆け出す

 厳しい冬を経て春が咲き、すぐに強い日射しの夏が来た。
 むしむしした梅雨が明けて蝉がわめきだした七月の半ば過ぎ、悠紗から『でかいホールのイベントに呼ばれたから来ない?』とメッセが届いた。いくつかのライヴハウスの共催で、よく出演する主力アーティストを集め、プロのアーティストも使うホールで、もっと多くの人に音を届けようというイベントらしい。
 ちょうど寝室で、冷房を入れてスマホを充電につないでいた僕は、「何かすごいね」と思わず通話をかけてしまい、『客はそんなにいっぱい来ないと思うけど』と悠紗は答えた。
「いろんなライヴハウスのお客さんが混ざって来るんでしょ」
『このへんのライヴハウスなら、たいてい通ってるメンツってのもあるからね』
「メンツ」
『どこでやっても来てくれるのはもちろん嬉しくても、こういうとき、人数にはならないよね。それぞれのハコの熱心な人は集まってくると思うけど、普段来ない人がふらっと来るってことは別にないんじゃないかなあ』
「XENONならいっぱい来そう」
『いや、梨羽くんたち別格だし。神だから、ほんと。俺すげえ人たちについてたんだなっていまさら思ってるから』
「そっか。でも、悠紗はそのイベント出るんだよね?」
『うん。客にはいまいち意味浸透してなくても、業界では新人発掘になるから注目されてる。スカウトもあるかもしれない。とりあえずレコード会社から人は来る』
「え、やっぱすごい。プロになれるかもしれないの?」
『そのチャンスはあるから、出ることにしようかってメンバーで決めた』
 何だか僕がふわふわした気持ちになってしまう。悠紗がプロとしてメジャーデビューなんて、夢みたいだ。しかし、悠紗はその夢へと確かに手を伸ばしている。
「そういえば、悠紗はプロになってもいいの? XENON見てきたし、昔どっちか分かんないって言ってたし」
『今はやれるとこまで行ってみたいって思ってる。アングラはXENONがいるじゃん。絶対越えられないじゃん。俺はメインストリーム行くしかないんだ』
「そっか。うん、応援してる。で、そのイベントは何日だっけ」
『八月二十五日。月曜日だよ』
「週明けかあ。週末だったらなあ」
『週末は、ホールではプロの人気バンドがライヴやってるよ』
「なるほど。ライヴのあと、夜行バスとかで帰ればいいかな。そっち行くなら紗月くんに会いたいし、それは土日にやっておけば」
『無理は言わないけど、いつもよりゆっくり演奏聴けるとは思うよ』
「検討しとく。決まったら連絡するよ」
『オッケ。とうさんにも適当に話しといて。来れないのは分かってる』
「はは。了解」
 話が終わると、僕はスマホをおろして通話を切った。
 改めて、しみじみとしたため息をついてしまう。初めて会ったときから、悠紗は音楽にかじりついて必死に勉強して練習していた。それを思えば、下積みは年齢と同じ二十一年だから、悠紗にとっては「やっと」のチャンスなのだろう。
 頑張ってほしいし、応援にも行きたい。聖樹さんたちや恵麻さんにも相談して、紗月くんにも連絡を入れておこう。そう決めると、よし、とひとまずスマホは充電して寝室をあとにした。
 悠紗がいるenfant terribleが出演するそのイベントのことは、話すとみんな瞳をきらきらさせて、「行ったほうがいいよ!」と言ってくれた。聖樹さんは「僕のぶんまで応援してあげて」とこころよく留守番を受け入れ、「サインもらってきといて」とオフを許可した恵麻さんはCDの代金まで預けてくれた。「イベント行けそう」と悠紗に伝え、チケットを取り置きしてもらう。
 日取りとしては、仕事が終わった二十二日の夜に出発し、夜のあいだバスで眠り、二十三日の土曜日から向こうで行動する。紗月くんにもそちらに行くのを連絡すると、「会えるの芽留たちにも伝えておくね」と喜んでくれた。
 ちなみに、今回は僕ひとりで出かける。若干不安でも、もう三十歳だから、少しくらいひとりの行動に慣れようと決めた。悠紗が部屋に泊めてくれるらしく、うわさの彼女さんにも会えるってことかな、とそこにもどきどきしてきた。
 バスのチケットを確保したりいろいろ準備するうちに、一ヵ月なんて、すぐ過ぎてしまった。熱気はまだまだ充満していても、鈴虫の声は澄んでいる夜、僕は最小限を詰めた旅行かばんと最寄駅からバスターミナルのある市街地に出た。
 たくさんの乗車口から目的のバスが出るところを探し出し、汗をぬぐいながらバスを待つ。暑いなあ、と思っているとバスが来て、行き先に間違いがないのをもう一度チェックして、乗りこんだ。
 座席番号を確認して、荷物を片づけ、わりあいふかふかした座席に腰を下ろす。座席でスマホの充電もできるし、Wi-Fiも入っているし、プラグまである。安い夜行バスを選んだけれど、それでもこんなに充実しているのか。
 いつもは速さ重視で新幹線だけど、これからは夜行バスもいいなとか考える。今は真っ暗の窓に、翌朝の日射しを案じて遮光をおろし、目を閉じているといつのまにか眠ってしまった。
 二十三日の昼前に到着したバスターミナルは、摩天楼に囲まれた都会だった。ビルばっかり、とさっそく右に行くのか左に行くのか迷って、とりあえずスマホを起こす。
 天鈴町に行くんだよな、と予定を思い返し、どの路線なのか調べる。あちこちにある案内を頼りに目的の路線の改札を見つけると、ICカードでそれを抜けて、旅行かばんを恐縮に思いながら混んでいる電車に揺られる。
 いつも新幹線で降りている駅にたどりつくと、見憶えがある景色にほっとして、自販機でお茶を買ってしまいつつ、紗月くんが待ってくれている約束の喫茶店〈POOL〉に向かった。
 ありがたいことに、快晴だった。ただしぐらぐら煮えているような暑さなので、たどりついて自動ドアから踏みこんだ〈POOL〉店内の冷房は、まさに天国に思えた。
「あら、いらっしゃい」とオーナーのミキさんが声をかけてくれて、「どうも」と声を上げたのと一緒に、「萌梨くん」と声がかかる。
「久しぶり。暑かったね」
「紗月くん。久しぶり──」
 だね、まで言おうとしたら、カウンターに一番近いいつものテーブル席にいる紗月くんの隣から、結音ちゃんがひょいと顔を出した。「結音ちゃん」と僕が微笑んで席に近づくと、「こんにちは」と結音ちゃんははにかんだ笑顔を見せる。
「こんにちは。あれ、じゃあ弓弦さんも一緒?」
「弓弦はつばさと仕事ー」
「つばさ」
「弓弦の側近みたいな子。まだ十三歳だけど」
「……相変わらず、この街の感覚すごいね」
「はは」
「座っていい?」
「うん。冷たいの飲むよね」
「アイスティーある?」
「あるよ。ミキさん、アイスティーお願いします」
 ミキさんが了解するのを見守ってから、僕は紗月くんの正面に腰を下ろす。「朝早く出てきたの?」と問われて、「今回は夜行バスにしてみた」と答える。
「思ったより座席は楽だったけど、それでも横になって寝れなかったのきついね。歳かなあ」
「帰りもバス?」
「うん。ライヴ終わったら、すぐ向かわないと」
「あ、そのライヴなんだけど、芽留に話したら行きたいって言ってて。チケットもう無理なのかな」
「そんなことないと思うよ。悠紗に伝えておく?」
「よかったら。ホールなんだよね。そんな目立つの、この街にあったかな」
「ここじゃなくて少し離れたところだよ。道不安だから、芽留くん来れるなら正直ありがたいな」
「そっか。僕も行きたいけど、夜は結音といてあげたいしなあ。普段、昼間は結音のことは例の翼くんに預けてるんだ。弓弦は仕事があるし、僕も〔こもりうた〕の作業に集中するから」
「そうなんだ。そうだね、じゃあ、夜はそばにいてあげたほうが──」
「今度のライヴなら、子供入るゆとりもあるようなこと言ってましたよ」
 結音ちゃんの前の空になったパフェグラスを下げながら、不意にウェイトレスの女の子がそう言った。え、と僕はその子を見上げて、つんと澄ましたような印象だけど、美人のその彼女を見つめる。二十歳前後だろうか。「あ、」と紗月くんが気づいた顔になり、「この子」と紹介する。
「毬音ちゃん。悠紗くんの彼女」
「え……えっ?」
 ぎょっとして彼女をまた見ると、彼女も僕を見て、「悠のおにいさんですか」と淡々と問うてくる。ぽかんとしかけたものの、慌ててうなずく。
「あ、ええと……悠紗がお世話になってます」
「いえ。あたしこそ、挨拶に行けなくてすみません。この街の外の空気が合わなくて」
「あ、別に、ぜんぜん、お気になさらず……」
 艶やかな長い髪を後ろでひとつに縛る毬音さんは、そっけなく見える表情のままパフェグラスを回収していった。怒ってないよな、と内心不安になって、紗月くんに尋ねてみると、「大丈夫だよ」と紗月くんは咲う。
「毬音ちゃん、不愛想に感じるけど優しいから。結音に文字の読み書きとかも教えてくれたんだ」
「そ、そうなんだ。悠紗、ああいう子が好きなんだね。びっくりした……」
「ねえねえ、毬音ちゃん子供も行っていいって言ってたよ。じゃあ、あたしも悠ちゃんのライヴ行っていいの?」
「えっ。どう……なのかな。人多いなら心配なんだけど」
「確かに、悠紗もゆっくり聴ける余裕があるみたいなことは言ってた。どっちかというと、お客さんじゃなくて、業界に注目されてる……とか、何とか」
「そうなの? じゃあ一度弓弦と相談して、明日に連絡していいかな」
「うん。来てくれるほうが悠紗も嬉しいと思う」
 そんなことを話していると、ミキさんがアイスティーを持ってきてくれた。「ありがとうございます」と会釈した僕は、ストローをさして香ばしい冷たさで喉を潤す。
 あれから、結婚後もつつがなく過ごせていることや、沙霧が真砂くんを聖樹さんに紹介したことを話していると、ふと〈POOL〉にあくびをしながらお客さんが入ってきた。その人を見た結音ちゃんが「来夢くん!」と声を上げ、その人はこちらに目を向けて「結音ちゃんじゃん」と歩み寄ってくる。
「翼くんは?」
「今日は紗月くんと一緒」
 僕もその人を見て、綺麗な人だな、と思った。男の人だけど、瞳がぱっちりしていてくせ毛の色も薄く、もろい印象の美しさだ。若く見えるけれど、実際いくつなのかよく分からない。「来夢さんは弓弦の親友なんだよ」と紗月くんが紹介してくれて、「そうなの?」と僕はまばたきをする。
「来夢さん、この人が弓弦も話してた萌梨くんです。用事あってこっち来てくれてて」
「あー、三人で結婚式行った子?」
「そうです。今回はひとりで来てて」
「へえ。初めまして」
「初めまして」
「萌梨くんって子は、嫁がいるから安心だって弓弦が言ってた」
「弓弦、来夢さんにそんな話ばっかりですね……」
「あいつの基準は、全部紗月くんだからね。じゃあ俺は昼飯食うから、ごゆっくり」
 来夢さんはカウンターのスツールにひらりと座って、ミキさんと話しはじめる。「綺麗な人だね」と僕が素直に言うと、「来夢さんは三十になるまで売り専だったんだ」と紗月くんは飲みかけのミルクティーに口をつける。
「うりせん……」
「男の人に軆を売ってたんだ。恋愛対象は女の人だから、男と寝るのは売り専門」
「は……あ」
「今は十八禁の本屋さんのオーナーやってるよ」
「いくつぐらいなの?」
「弓弦と同い年だよ。三十三歳」
「恋愛対象は女の人ってことは、恋人いるんだ」
「うーん、今はいないけど、大切に想ってる人ならいるよ」
「そうなんだ……いつも思うけど、いろんな人がいるね、ここ」
「弓弦の行きつけが、ここだからね。弓弦に用がある人はまずここに来る感じだよ。毬音ちゃんも、親と折り合いが悪くて、弓弦にここを職場として紹介してもらったんだ」
 店内をてきぱきと歩く毬音さんを目で追い、あの子も何かあった子なのか、と思った。何かを引きずっているようには見えないけれど、もしかしたらそれは今は悠紗がいるからなのだろうか。
 昼食を食べたら来夢さんは〈POOL〉を去ってしまい、やがて空には、緩やかにオレンジ色の夕暮れが訪れはじめた。暗くなる前に部屋に帰るよう弓弦さんに言われているという紗月くんは、「萌梨くんはこのあとどうするの?」と訊いてきた。
「悠紗にここに迎えに来るからって言われてて」
 そう言って、僕は二杯目のアイスティーを飲みほす。「そうなんだ」と言ったものの紗月くんは席を立たず、「萌梨くんひとりにするの、心配だね」と結音ちゃんが紗月くんの心を代弁する。
「あ、弓弦さんと約束してるなら気にしないで帰っていいよ」
「けど……この店、夜になるとちょっと危ないというか」
「危ない」
 きょとんとした僕に、紗月くんが何やら説明しようとしたとき、「紗月」と心地よい低音の声がした。声の主を見ると、やっぱりそこにいたのは弓弦さんだった。隣に中学生くらいの男の子を従えている。

第十九章へ

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