アドバイス
イベントが終わってバスターミナルまで送ってもらっている車の中で、紗月くんとずっとしたかった話をした。
結音ちゃんは眠っていて、芽留くんもおそらくあえて割りこんでこなかった。
千羽ちゃんと結婚して二年半になること。けれど、僕たちのあいだには相変わらず性交渉がないこと。
「紗月くんは」と僕はゆっくり訊いてみる。
「弓弦さんと、できてる、よね」
その確認に、紗月くんは「話したかな」と恥ずかしそうにして、僕は慌てて『ハンドメイド』で望海と佑悟が結ばれるシーンがあるからだと説明する。
「あれは、フィクション……かな」
「……ううん。僕は、弓弦となら寝るときもあるよ」
「そっか」
僕は小さな深呼吸をしてから、慎重に切り出す。
「……こんなこと、訊かれても困るかもしれないけど」
「うん」
「どうやって……乗り越えたのか、聞いてみたい」
紗月くんが、車内の暗さを縫って僕を見つめた。「ごめん」と僕はうつむいた。
「ほんとに、分からなくて。こんなの恥ずかしいし、訊いていいのかなって思ってたけど──」
「大丈夫。恥ずかしくないよ」
「でも」
「好きな人と結ばれたいのは、恥ずかしいことじゃない」
僕は紗月くんの瞳に、泣きそうな顔を上げた。紗月くんは「大丈夫」と繰り返してくれたあと、「僕と弓弦は」と少し視線を空に浮かせた。
「つきあうまでは、けっこう時間かかったけど、寝たのは早かったんだよね」
「……やっぱり、好きな人と結ばれたって思うとできたの?」
「まさか。弓弦は、その……変なふうに聞こえるかもしれないけど、そういうことうまくて」
「う、うん」
「だから、僕のことも上手に抱けるかもしれないし、それなら試してみようってなったんだ。リハビリになるかもって」
「リハビリ……」
「そのとき弓弦は、僕を抱きたい、人形を抱きたいわけじゃないって言ってくれた。でも──そこまで言ってもらってるのに、いざ始めようとすると、ぜんぜんうまくいかなかったんだよ」
紗月くんは僕と顔を合わせて、優しいのに哀しいような瞳で微笑む。
そうして、僕は紗月くんと弓弦さんが初めて結ばれた日のことを聞いた。
たどたどしく行為が進むうち、次第に混乱した紗月くんは、途中で泣き出してしまった。それを、「自分の望みじゃない」と紗月くんは思った。
弓弦さんを受け入れたい。それが自分の望みだ。なのに、その想いをどうしようもなく記憶に妨害される。
弓弦さんを受け入れられない。触れてくる指先が怖い。かかる吐息が気持ち悪い。局部に口づけられて、ひどいことをされている、とまで感じる。
あの体験は、それほどまで深い傷なのだ──と、紗月くんは痛感した。
「悔しかった」
紗月くんは静かにつぶやく。
「弓弦をほんとに愛してるのに、それよりあの傷のほうが勝って、弓弦のキスを怖いって思っちゃう自分が悔しかった」
僕は唇を噛んだ。その想いが、神経に刺さるほど分かったからだ。
「そしたら、弓弦が自分にはそこまで想ってもらう価値もないから、って言ったんだ」
「えっ?」
「弓弦のことは、どこまで話していいのか分からないけど──親にひどいことはされてきた人で」
「そう、なんだ」
「僕は弓弦に、昔のことを話してほしいって言った。弓弦は大した過去じゃないって断った。でも、僕は弓弦のことだから知りたいって」
「……うん」
「それから、弓弦は自分のことを話してくれた。つらすぎる人生を送ってきて、やっと僕を見つけたと思ってくれる弓弦のことを、ほんとに好きだと思った。弓弦の過去を聞いて、もっと弓弦が好きになった。それで、理性が飛んだような感じになった。弓弦が欲しい、そのためなら何も怖くないって」
紗月くんは照れ笑いを見せたあと、「あれは理屈じゃないから説明がむずかしいけど」と続ける。
「あふれてくるんだ」
「あふれる……」
「それに流されて、水の中に落ちていくみたいな。そういう雰囲気になるまでの流れが、セックスにはすごく大切なんだと思う」
よく分からなくて首をかしげてしまうと、「タイミングって言い方のほうがいいかな」と紗月くんは一生懸命言葉を選んでくれる。
「人がね、セックスできないときの理由って、気持ち悪いとか怖いとかだけじゃないんだよ。恥ずかしいとか、面倒臭いとか、いろいろあると思うんだ。そして、それを押し流すほどの波に乗れるか、乗れないかだと僕は思ってる」
「……波」
「『この人に触れたい』っていう波は、誰にでも来る。どんなことがあった人でも、好きな人ができたら来る。もちろん、性欲がないっていうセクシュアルもあるけど、今はそれは置いといて。好きな人と寝たいと思うのは、基本的には自然なことなんだよ」
僕は膝にある手をぎゅっと握りしめた。タイヤの走音とクーラーの風音が響いている。
触れたい。僕は千羽ちゃんにそう思ったことはあるだろうか。分からない。理性を失くすほど、愛おしいと思ったことはあるだろうか。たぶん、ない。
だって、怖いじゃないか。服を脱ぐ? 性器をさらす? 中に押し入ってつらぬく? そんなひどいこと、千羽ちゃんが大切だからこそ、僕はできない。
だとしたら、もう僕は、欠けてしまったところを取り戻せないところにいるのだろうか?
「萌梨くんひとりで、千羽さんを抱きたいって思うのはむずかしいと思うけど」
僕の問いに、紗月くんはじっくり考えている様子で答えてくれる。
「千羽さんを、抱いてあげたいとは思う?」
「抱いて……あげたい」
「千羽さんが待ってるなら、応えたいとかいうか……」
「それは、もちろんあるよっ。千羽ちゃんは待ってくれてる、ほんとに、ずっと。だから、僕にできることがあるなら──」
紗月くんはにっこりして、「今、理性なかったね」と指摘した。そう言われて、確かに僕は、今、千羽ちゃんに「できることは何でもしたい」と感情に走ったことに気づく。
「それが、萌梨くんの性欲なんだよ」
「せ、性欲……なの?」
「そう。すごくささやかだけど、萌梨くんが千羽さんを欲しいと思ってる証拠」
千羽ちゃんを、欲しいと思っている。たとえ、自発的でなく千羽ちゃんのためであっても、僕はあの子に触れたいと思えている?
「千羽さんの前でそういう気持ちになったとき、さっき言った波が来てるんだ。ただ、それに乗るのが僕も萌梨くんもすごく下手になってることは、忘れないで」
僕は改めて紗月くんの真剣な瞳に目を向ける。
「僕たちは、すぐその波から落ちる。そして、溺れたり沈んだりする。泣き出したり、吐きたくなったり」
それには神妙にうなずく。聖樹さんのこともよぎったからだ。
「でも、それに囚われなくていいんだよ。波から落ちてもいいんだ」
「いいの……かな」
「うん。そうなったら、無理しないほうがいい。いや、無理しなくていいんだ。次も、何度やっても、自分はこんなふうで、一生セックスなんかできないと思いこむのが一番ダメ。意外と、また『この人が好き』って波は来るし、今度は落ちずに波の中で泳げたりするんだ」
「そう、なのかなあ……」
「萌梨くん、千羽さんのこと好きだよね」
「う、うん。もちろん」
「じゃあ、大丈夫。タイミングは来る。僕たちは、それを人より気長に待つだけなんだよ」
「……気長って、どれだけかかるか分からないよ」
「だけど、千羽さんは一緒に待ってくれる女の子でしょ?」
僕は千羽ちゃんを想って、待ってくれるんだろうなあ、と何だか苦笑した。僕が申し訳なくなるくらい、千羽ちゃんは僕を待ってくれる。
「タイミングは、一緒に待つものなんだ。ひとりじゃない。そもそも、セックスはひとりでやることではないでしょ?」
その言葉に、僕ははっとする。セックスはひとりでやることじゃない。そうだ。だとしたら僕は、自慰の人形にされていただけで、実はセックスをしたことなんてないのだ。
「弓弦もね、僕を怖がらせないようにって意識しすぎると、かえって抱けないって言ってた。欲しいと思ったときじゃないとダメだって。弓弦でもそうなんだよ?」
後部座席の暗がりの中で咲った紗月くんを見る。結音ちゃんを膝に乗せる紗月くんの瞳は、今は穏やかで優しい。
「千羽さんを抱けたらいいのにって思ったとき、少し触れてみて、大丈夫そうだったらもっと触れてみる。それを重ねればいい」
「できる、かな」
「できるよ。僕たちみたいに、乱暴された女の子のことを知ってるんだけど。その子も彼氏とできなくて、ずっと『今なら』って瞬間を待って、きちんと乗り越えられたから」
「そうなんだ……」
「簡単にできなくてもいいんだよ。一度できて、次は失敗しても、いいんだよ。僕たちは、あのことでそういうのを壊されたんだ。ただ、壊されたことも含めて、それが自分の性だって受け入れたらいい」
「自分の性……」
「壊れてることは、恥ずかしいことじゃない。それを分かってくれてるパートナーも、萌梨くんにはいる。大丈夫、うまくいってるよ」
「ほんとに……?」
「うん。安心して。萌梨くんは前に進んでる」
ぎゅうっと胸がいっぱいになって、涙が滲んでくるのを感じた。「ありがとう」と言うと、紗月くんは再び微笑んでくれる。
千羽ちゃんを抱いてあげることができたらいいのに。それは何度も思ってきた。そして、そう思うなら、素直にそうすればいいだけなのだ。
そう思ったくせに、途中でできなくなることが怖かった。千羽ちゃんをがっかりさせたくなかった。しかし、千羽ちゃんはがっかりするような人ではないではないか。僕ができなくて泣いてしまっても、きっと丁寧に受け止めてくれる。
怖い。気持ち悪い。そんな感情が邪魔して、うまくできないかもしれない。それでも、千羽ちゃんに触れることから始まるのだ。
僕はずっと、男らしくできないこと──いや、失敗することを恐れていた。
その答えで、何かすとんと落ちた気がした。僕がもう一度、「ありがとう」と言うと、紗月くんは柔和な微笑で「萌梨くんは幸せになれるよ」と心強く言ってくれた。
やがて、バスターミナルに到着した。茶々を入れずにいてくれた芽留くんは、車を降りて見送ってくれて、「千羽ちゃんと幸せにねえ」と事情を理解してくれた様子でにこっとしてくれた。僕はこくりとして、お礼も述べる。
すやすやしている結音ちゃんを膝に乗せる紗月くんは、後部座席に乗るまま、開けた窓から「また会おうね」と約束してくれた。紗月くんたちと別れるのは寂しい。でも、同時にまた会えるときがさっそく楽しみになる。僕は笑顔で手を振って、目的のバス乗り場に向かった。
【第二十三章へ】
