少しずつでも
夜行バスで地元に帰ってきた。昼から出勤するけれど、荷物を置くために、いったん午前中には誰もいない家に戻った。
バスで眠ったけど、横たわらなかったから軆が重いなあ──行きと同じことを思いながらも、仮眠せずに旅行かばんから洗濯物を出したりして、そのあと、リュックを取り上げて職場に向かう。
「萌梨くん。おかえり」
顔を出した僕にそう言った恵麻さんは、enfant terribleのサイン入りCDを受け取って、「疲れてるだろうから、今日はデスクワークメインでいいよ」と気遣ってくれた。
利用者さんが帰る十七時に一緒に上がらせてもらったので、最寄り駅に着いたのも早かった。さすがに二十時までソフトクリーム屋の前に立ってるのは迷惑だな、とまっすぐ帰ることにした。
桃色と橙々色が重なる茜雲がたなびくのを眺めながら帰宅すると、家にはまだ誰もいなかった。夕食の用意しようかな、と思ったものの、ちょっと横になろうと寝室でぱたんと倒れる。少しだけ、と思いながらも微睡みは深まり、僕はそのまま眠っていた。
エアコンをつけないまま寝てしまっていた。目が覚めたときには、軆が汗ばんでいた。時計を見ると二十時になる前で、うそ、と慌てて身を起こす。そんなに寝てしまったのか。
洗濯とかしたかったのにな、と思いながら一階に降りると、夕食のいい香りがただよっていて、冷房もひんやりきいていた。洗濯機もまわっているのにも気づきながら、キッチンを覗くと、聖樹さんが夕食の支度をしている。
「聖樹さん、ただいま」
僕が声をかけると、聖樹さんは顔を上げて「おかえり」と微笑んでくれる。
「ごめん、帰ってきたまま寝ちゃってた」
「うん、靴あるけど返事ないから、そうかなと思って。今日は仕事も行ったんでしょう。大丈夫?」
「眠ってすっきりした。洗濯とかやってくれたんだね。ありがとう」
「かごに出してくれてたからね。向こうはどうだった?」
「楽しかったよ。ゆっくり行動したぶん、いろんな人に会った気がする」
「悠の彼女にも会った?」
「会った。あっさりした子だったけど、悠紗とはちゃんと仲良さそうだったよ」
「そっか。いつか僕にも紹介してほしいなあ」
「悠紗はしたいって言ってたよ」
「ふふ、じゃあ楽しみにしておかなきゃね」
僕はキッチンに踏みこみ、「サラダ?」と聖樹さんの手元を覗きこむ。「サラダうどん」とうなずいた聖樹さんは、ざくざくと野菜を細かく切っている。
「暑いから、さっぱりしたのが増えるね」
「向こうも暑かったなー。今も冷房つけずに寝ちゃってたから汗かいた」
「そうなの? 水分摂っておいたほうがいいよ」
「うん」と僕は冷蔵庫を開けて、麦茶のボトルを取り出してグラスにそそぐ。それを半分くらい飲んで、ふうっと息を吐いてからボトルを冷蔵庫にしまった。
「聖樹さん」
「ん?」
「その……今、ちょっと話してもいい?」
「どうぞ」
僕は麦茶をひと口飲み、千羽ちゃんたち帰ってきたら次いつ機会来るか分かんないしな、と勇気を出して口火を切る。
「紗月くんと、少し話したんだ」
「紗月くんと?」
「何というか……紗月くんは、どうやって弓弦さんとできたのか……みたいな話」
とん、と包丁の音が一瞬止まったものの、「うん」と聖樹さんはにんじんを細切りにしていく。
「紗月くんは、タイミングだって言ってた」
「タイミング?」
「そうしたい気持ちになったとき、その波に乗ればいいって。その波から落ちたとしても、それは気にしなくていい、次の機会を待てばいいだけだって」
「波……かあ」
「僕たちは、その波に乗るのがうまくできないようにされたんだって。それも含めて、自分の性だって受け入れたらいいって言ってた」
聖樹さんはやや考えてから、「そっか」とつぶやく。
「そうかもしれないね」
「僕は、千羽ちゃんとしたいとか寝たいとか、そういう考え方はあんまりできないけど。千羽ちゃんを抱いてあげられたらいいのにとは思う。そう思うときに、千羽ちゃんに触れたらいいんだよって言われた」
細切りにしたにんじんを小さなボウルに移しながら、「できそう?」と聖樹さんは穏和に訊いてくる。
「できる……かは、分かんない。でも、そう思ったとき、進むようにしたいなとは思う」
「そっか。ゆっくり進めるといいね」
「うん──」
こくりとしてから、訊いていいのかなあ、と思いつつ、気になっていたことなので思い切って口にしてみる。
「聖樹さんは──その、できてるの?」
僕の問いに、聖樹さんはあやふやに咲って、「いつもうまくいくってわけじゃないけど」と今度はきゅうりを細切りにしていく。
「ぜんぜんないってことはない。でも、吐くほどひどいってこともないかな」
「そうなんだ」
「つらかったらやめさせてくれるしね。そういうとき、申し訳なくて泣くことはある。だけど聖乃さんは、僕がつらいことを自分は楽しむなんてことはないんだよって言ってくれる」
僕は聖樹さんを見つめて、聖樹さんは照れたみたいに咲った。僕はそれに咲い返すと、「僕たち、いい人に出逢えたよね」と言った。聖樹さんはうなずく。
千羽ちゃんもきっと、僕がつらくなったら、それでも押し進めるなんてしないだろう。セックスはひとりのものじゃない。紗月くんの言葉を思い返す。僕も千羽ちゃんもお互いを受け入れられたときに、僕たちは初めてつながるのだ。
そのとき、「ただいまー」という千羽ちゃんと聖乃さんの声がした。僕と聖樹さんは顔を合わせ、「おかえり」と声も合わせる。
すると、ひと足先に千羽ちゃんが顔を出し、「萌梨くん、おかえりなさい」と笑顔になった。「ただいま」と僕は微笑んで、残りの麦茶を飲み干してグラスをシンクに置くと、千羽ちゃんに歩み寄る。
「三日も留守にしてごめんね」
「……さすがに寂しかった」
そう言って、千羽ちゃんは僕の手を取ってはにかむ。僕がそれにおもはゆく咲っていると、「萌くん、おかえり」と聖乃さんも言ってくれる。「ただいまです」と応えると、「千羽ちゃん、ほんとに寂しがってたよー」と聖乃さんはくすくすとした。
僕は千羽ちゃんに目を戻す。「だって」と言ったものの、それ以上言葉が続かなかった千羽ちゃんに僕はまた咲って、「今日からまた一緒だから」と言うと、千羽ちゃんは少し頬を染めてこくんとした。
湯がいたうどんにレタスやトマトといった野菜、その上にささみも乗せて、鰹節とマヨネーズをかけたサラダうどんができあがると、久しぶりに四人で食卓に着いた。食べる前に香ばしいつゆもかけて、冷えた食材で夏の熱気にあてられた軆を冷ます。
僕は向こうでのことをいろいろ訊かれて、悠紗のことや毬音さんのこと、enfant terribleのライヴのことを話した。僕や聖樹さんはもちろん、千羽ちゃんと聖乃さんも悠紗を十歳前後から知っている。その悠紗が彼女と同棲しているとか、広いホールでライヴをしたとか、何だかみんなでしみじみしてしまった。例のたまごフィリングの作り方の話で、毬音さんが悠紗を想っているのはよく伝わったみたいで、「かわいい」とみんな言っていた。
順番にシャワーを浴び、四人ともほかほかしたのをリビングのエアコンで冷ましてゆったりしたあと、零時過ぎに二階に移った。「おやすみ」を言い交わして階段の電気を消すと、それぞれの寝室に入る。
一時間くらい前にクーラーをつけておいたから、室内は涼しくなっていて、ドライに切り替えた。ベッドスタンドのランプをつけて、部屋の電燈を消すと、僕と千羽ちゃんはベッドにもぐりこむ。
「萌梨くん」
「うん?」
「……ふふ、ちゃんと萌梨くんがいる」
「え」
「このベッドね、ひとりだとけっこう広くて」
そう言って、千羽ちゃんは僕の手を取る。僕のその柔らかい感触をそっと握り返すと、「ごめん、寂しかったよね」ともう一方の手で千羽ちゃんの頭を撫でた。千羽ちゃんは橙色のランプで僕を見て、きゅっと手に力をこめる。
「甘えてるかな」
「そんなことないよ。僕もひとりじゃ寂しい」
「……ん」
「今度は、一緒に悠紗に会いに行こうね」
「うん。萌梨くんと一緒がいい」
僕はつないだ手を引っ張って、千羽ちゃんを腕の中に抱き寄せた。長い髪が同じシャンプーの匂いに潤っている。伝わる心臓の音が温かい。
「千羽ちゃん」
「ん?」
「千羽ちゃんは、その……僕が抱いてくれたらいいのにって思うとき、ある?」
「えっ」
「僕は、普通に抱いてあげられたらってとき、あるけど。千羽ちゃんも、やっぱりあるのかな」
「………、どう、なのかな。抱いてくれたらいいのにって、何かわがままな感じするし、それはないかな」
「そうなんだ」
「抱かれたくないとか、もう興味もないとか、そういうわけでもないよ。萌梨くんがね、私のこと抱きたいって思ってくれたら、応えられるようにいたいとは思ってる」
「そっか」
「どうして?」
「ん……向こうで、紗月くんと少し話したから。紗月くんはどうやって弓弦さんとできたのかとか」
「紗月さんはできてるんだ」
「うん。紗月くんも、僕が千羽ちゃんに触れたいと思ったとき、触れることから始めたらいいとは言ってた」
「それでいいよ。無理だけはしないで。私、萌梨くんを苦しめてまで抱かれたいとかはないから」
僕は千羽ちゃんを見つめた。そして、小さな声で「キスしていい?」と訊いた。千羽ちゃんはまばたきしてから、小さくこくんとする。僕はそっと千羽ちゃんの唇に唇を重ねて、軽く離して、もう一度重ねるのと一緒に、舌をさしこんだ。
千羽ちゃんの肩がかすかに揺れる。けれど抵抗はなく、おそるおそる舌先に舌が触れてくる。深く舌を絡めるのは、いろんなことを思い出しそうでできなかったけど、それでも舌の感触を味わうくらいならできた。
鼓動が腫れあがるように高鳴って、頭の中が炭酸みたいな刺激で痺れる。息が苦しくなって唇をちぎると、お互い大きな深呼吸をして咲ってしまった。
「どきどきした」
そう言って千羽ちゃんは僕の胸に顔を伏せて、「うん」と僕も抱きしめた千羽ちゃんの肩に顔を伏せた。それでも、何だか嬉しい気持ちが通じ合っていた。ほんのわずかだけど、進めたような。
「僕、やっぱり千羽ちゃんとの子供が欲しいって思うから」
「……うん」
「これから、ちょっとずつ頑張りたい。無理するんじゃなくて。千羽ちゃんとなら、僕はできるって思いたい」
「萌梨くん……」
「途中で、ダメになるときもあるかもしれないけど」
「いいよ。そんなの気にしないで。私も、その、したことないから。初めてで、ぜんぜん自信ないし。痛いとかで迷惑かけるかもしれないけど」
「そ、そっか。でも、優しくするよ。ちゃんと、そのときは」
「うん。知ってる」
はにかみ咲った千羽ちゃんに、僕も照れながら咲って、「今日は寝よっか」と言った。千羽ちゃんはうなずき、「消すね」とランプのスイッチに手を伸ばす。
ぱちん、と明かりが消えると、僕たちは手をつないだままシーツに力を抜いた。やっぱり家が一番安心する。千羽ちゃんと一緒に眠るのが安心する。そんなことを思っていると、すぐにうとうとしてきて、僕は深い眠りにさらわれていった。
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