カラフルパーチ-25

芽生えた証

 僕と千羽ちゃんは、頻繁に行為をするわけでもなかったから、すぐ簡単に子供ができるということはなかった。排卵日には必ず最後までできる、というものでもない。
 でも、紗月くんも言っていた。一度できて、次できなくても、それでいいと。確かに言われた通り、できないときがあっても、今度はできたというときがちゃんと来た。
 愛しあえる機会を重ねながら、焼けるような夏が涼しい秋風に溶けて、やがて、軆の芯が凍てつくようになる冬が来た。
 その朝は、十二月もなかばにさしかかった日だった。僕と千羽ちゃんは、ほとんど一緒に目を覚ました。「寒いからふとん出たくない」と言う千羽ちゃんに、「そうだね」と僕は咲ってしまう。それでも、一階ではすでに物音がしていて、「手伝わなきゃ」と千羽ちゃんは頑張って起き上がった。僕も身を起こし、その肩に淡いピンクのモールニットのカーディガンをかける。
「ありがとう」
 千羽ちゃんはそう咲ってから、「よし」とベッドを降りた。しかしそのとき、千羽ちゃんの足元がふらついたので、僕は慌てて抱き留めるように支える。
「大丈夫?」
「う、うん……何だろ、少しめまいがするかも」
「え、」
「でも、ちゃんと寝たし。お腹空いてるのかな」
 千羽ちゃんは笑って流そうとしたけど、僕は心配になる。「つらかったら、無理はしないでね」と言うと、千羽ちゃんはうなずいた。ほどかれた長いウェーヴが揺れる。
 僕たちは一階に降りて、千羽ちゃんが先にお手洗いに入った。キッチンからの朝食の匂いが香ばしい。僕は目を覚ますため、冷水で顔を洗った。でも、予想以上に冷たくて、身震いにまでなってしまって、急いでふかふかのタオルで顔を拭く。水洗の音がして、お手洗いから出てきた千羽ちゃんは、少し表情を曇らせていた。
「どうかした?」
 僕の声に千羽ちゃんは顔を上げ、「ううん」とだけ言うと、手を洗った。何だか、その様子はぼうっとしている。熱でもあるみたいな──
「千羽ちゃん。一応、熱測る?」
「えっ、何で?」
「もし軆だるいなら、風邪とか──」
「あ、それはないよ。ほんと。大丈夫」
 それでも、僕は愁眉をほどけない。千羽ちゃんは手を包んだハンドソープの泡を流すと、僕の手にあるタオルで水気を拭き取った。
 それから、僕の視線にそっと視線を重ねると、「えっと」と千羽ちゃんは何か言おうとした。
「あの……ね」
「うん」
「ま、まだ……分からないけど」
「……うん」
「体調が、悪いだけなのかもしれないけど」
「体調──」
「生理がね、来ないの」
 僕は目を開いて、千羽ちゃんを見つめた。千羽ちゃんも、お腹をさすってうつむいたのち、僕を見る。
 生理が来ない。
 さすがに僕でも意味に気がついて、「どのぐらい?」と訊いてみる。千羽ちゃんは「十日以上遅れてる」とつぶやいた。
 体調が悪いだけかもしれない。でも、普通、十日以上も生理が来ないっていうのは──
「えっ、ほ、ほんとに?」
「分かん、ない。何も調べてないし」
「検査薬も?」
「まだ。調べたほうがいい、よね」
「もちろん──」とまで言いかけて、「いや」と僕は考え直した。
「今日、病院行こう」
「えっ?」
「体調悪かった場合でも、どっちみち、病院行かなきゃいけないんだし。僕も付き添うから」
 千羽ちゃんの表情は、まだ晴れない。僕が首をかしげると、「私は」と千羽ちゃんはわずかに声を震わせる。
「子供、だと嬉しい」
「うん」
「萌梨くんは……」
 千羽ちゃんは、僕を見上げる。その心許ない表情に、僕は自分が大切なことを言っていないことにやっと気づいた。
「僕もすごく嬉しいよ。生んでほしい」
 僕のその言葉に、やっと千羽ちゃんの瞳に光が射した。僕は千羽ちゃんを大事に抱き寄せ、いたわるように髪を撫でる。
 子供。僕の子供。思っていたより混乱はない。そんなことより、僕も──
「千羽ちゃんとの子供は、ずっとずっと夢だったから」
「ほんと?」
「もちろん。だから、病院でしっかり知りたい。検査薬より、病院が確実だし」
「そっか。分かった」
「聖樹さんたちには言う?」
「病院行くなら、仕事休むの聖乃さんにお願いしなきゃいけないし」
「僕も恵麻さんに電話しないと」
「あっ……まだ、理由は伏せてね。違ってたら、恥ずかしいし」
「え、じゃあ、聖樹さんたち──」
「聖樹さんと聖乃さんには、そうかもって知らせたい」
「そっか。じゃあ、聖樹さんたちだけには言おう」
 軆を離して笑顔で言うと、千羽ちゃんもようやくほっとした笑顔を見せて、「萌梨くんが喜んでくれて嬉しい」と僕の手をつかんだ。「嬉しいに決まってるよ」と僕は千羽ちゃんの手を握り返す。
「ずっと待ってたくらいなんだから」
「もし、違ったらごめんね」
「いいんだよ。でも、僕たちの赤ちゃんで、何かの病気ではないなら、そうだってきちんと知りたい。だから、病院に行こう」
 うなずいた千羽ちゃんの手を引き、僕たちはキッチンに向かった。朝食の支度を終え、飲み物で軆を温めていた聖樹さんと聖乃さんに、「今日は仕事休んで、千羽ちゃんの病院に付き添ってくるよ」と僕は言う。ふたりは顔を合わせ、それから心配そうに首をかしげた。
「千羽ちゃん、具合悪いの?」
 聖乃さんに言われて、千羽ちゃんは少し恥ずかしそうにしたあと、「もしかして、赤ちゃんかもしれなくて」と言った。「えっ?」と聖乃さんは声を上げ、聖樹さんも目を開く。
「ほんとに?」
 マグカップを置いた聖乃さんに、「けっこう、生理が来てないので……もしかしたら」と千羽ちゃんは答える。「わあっ」と聖乃さんは歓声を上げ、隣の聖樹さんの腕をつかむ。
「赤ちゃんだって! ついに!」
「待って、なぜか僕がすごいびっくりしてる」
「聖樹さんはびっくりする人でしょ! 萌くんがおとうさんになるんだよ!」
「そ、そうだよね。おとうさん……。おめでとう、萌梨くん!」
 一気に盛り上がるふたりに、「ただの病気だったらどうしよう」と千羽ちゃんが弱気な笑みを見せる。すると、「それはそれで、ただごとじゃないよっ」と聖乃さんがびしっと言ってくれる。
「千羽ちゃん、仕事は私に任せていいから。萌くんと病院行っておいで。子宮がん検診行ってる婦人科でいいと思う」
「何か……ほんと、体調が悪いだけだったら申し訳ないですけど……」
「そんなの気にしなくていいから! どっちにしても、はっきりしたら、すぐメッセしてねっ」
 僕と千羽ちゃんはうなずき、聖樹さんもやっと我に返ると、「絶対タクシーで行ってね」と大事を取った心配をする。そのあと、僕は恵麻さんに連絡した。千羽ちゃんの具合が悪いと切り出しただけで、「病院に連れて行ってあげて」と恵麻さんは詮索せずに有休を許可してくれた。
 そわそわした朝食を四人で済ますと、結果が分かったらすぐ連絡を、と約束して、聖樹さんと聖乃さんは出勤していった。僕は食器を洗い、千羽ちゃんは診察券や保険証といった持ち物をバッグにまとめる。
 千羽ちゃんと聖乃さんがお世話になっている個人の婦人科が休診日ではないのを確かめると、朝一番に電話をかけ、予約の患者さんの合間に診てもらえることになった。
 聖樹さんに言われた通り、タクシーで婦人科に向かうと、まだ九時半にもなっていないのに、婦人科はかなり混んでいた。「予約じゃないから、かなり待つと思う」と千羽ちゃんは謝り、僕は首を横に振ると、「ここに来てないと僕も落ち着かないよ」と笑んでみせた。
 問診も書いたりして、やっと千羽ちゃんの番が来たのは、十一時頃だった。僕は千羽ちゃんの背中を見送って、待合室の壁際にたたずむ。ひとりそうしていると、何だか急に、もし千羽ちゃんが病気だったらなんて悪いことを考えてしまった。
 赤ちゃんであるように、心底から祈った。千羽ちゃんの体調が悪いのなら、それは僕にはとても恐ろしいことだ。どうか、健康に、妊娠しただけでありますように。
 千羽ちゃんが診察室から戻るのを待つあいだ、気が気じゃなかった。子供ができたかもしれないと聞いたときは、単純に嬉しくなれたのに。こうして正式な診断が下る前に立つと、違ったらどうしよう、千羽ちゃんが病気だったらどうしよう、と不安がちらちらする。何とかその黒い感覚を追いやって、僕は深呼吸した。
 大丈夫。きっと赤ちゃんだ。僕と千羽ちゃんの子供。僕と千羽ちゃんの居場所に帰ってくることになる子供。僕たちの新しい家族に違いない。
 席が空いて、立っている女の人がいないのを確認してから腰かけ、組んだ両手に顎を当てて本当に祈っていた。じっとそうしていて、不意に「萌梨くん」と呼ばれてはっと顔を上げる。千羽ちゃんがゆっくり歩み寄ってきていた。
「千羽ちゃん──」
 千羽ちゃんは僕と瞳を重ねると、嬉しそうに微笑して、「聖樹さんみたいなおとうさんになってね」と言った。拍子、僕はぱっと笑顔になって、立ち上がって千羽ちゃんに駆け寄る。
「ほんと?」
 思わず訊いてしまうと、千羽ちゃんはうなずき、「二ヵ月に入ってるって」と僕の肩に寄り添った。僕は安堵と歓喜の混ざった、大きな息をつく。そして、「結婚のときみたいに、報告したい人がいっぱいいる」と咲ってしまった。
 タクシーで帰宅すると、まず一番に僕は聖樹さんに、千羽ちゃんは聖乃さんに連絡した。ちょうどお昼頃だったから、ふたりとも通話で折り返し連絡をくれて、『おめでとう』を何度も言ってくれた。
 聖樹さんには「よければ、悠にも言ってあげて」と言われたので、僕は悠紗にも報告した。しばらくして既読がついた途端、すぐ通話着信がついて『マジで!? おめでとうっ!』と勢いのいい声がした。僕はすでに聖樹さんと話していた時点で泣きそうになっていたけど、「ありがとう」とどうにか答えた。
 僕が悠紗と話しているあいだ、千羽ちゃんはおかあさんに電話していたようだ。「萌梨くんに『ありがとう』だって」という言伝をもらった。僕も悠紗からの『千羽ちゃんにもよろしく』という言葉を伝える。そして、ついつい言いふらしたいのはこらえて、それ以上のほかの人には安定期に入ってから報告しようということになった。
 僕が作った昼食をふたりで食べて、リビングのPCで、さっそく妊娠したらすべきことを調べたりする。
 夜は聖樹さんがご馳走を作って、聖乃さんもケーキを買ってきて、四人で気の早いお祝いをした。安定期に入ってから報告したい旨に、ふたりは首肯してくれたけど、「梨羽たちには知ってほしいなあ」と聖樹さんが言った。僕と千羽ちゃんは顔を合わせたあと、うなずきあって、XENONには伝えることにした。「いいの?」と聖樹さんが遠慮すると、「聖樹さんの大切な人たちだから」と僕はにっこりした。

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