深紅の盃-1

鮮血を求めて

 僕は血に魅せられている。あの鮮紅に、あのぬめりに、金属的な生臭さに、強迫観念すら感じている。
 あの深紅の液体をすすり、味わい、舌に染みこませる。そうしないと、とてもではないが生きてはいけない。
 いや、「真っ当に」生きていけない。僕にはどうしても血が必要で、飢えれば猟奇に走ることになる。それは嫌だ。僕は血が欲しいだけで、誰かを傷つけたくはない。正常を保つために、適度で秘めやかな血がいる。それさえあれば、僕は一般人と変わりなく生活していられる。
 一応言っておくと、僕は人間だ。魔界からはるばるやってきた魔物ではない。ただ、血を飲むという本能だけ、確かに吸血鬼に酷似している。
 両親はいたって健全な人間だ。もしかしたら、僕は突然変異の吸血鬼なのかもしれない。
 血を飲まずにいると、めまいや吐き気を覚える。太陽は苦手だし、にんにくなんてもってのほかだ。でも十字架は平気だし、聖水をかぶっても肌は爛れないと思う。
 だから、普段は高校に行って、友達と遊んで、長く片想いと信じていた幼なじみの女の子とつきあっている。
 僕が血の味を覚えたのは、五年前だ。十一歳の冬、学校の家庭科の調理実習のときだった。作っていたのは野菜炒めで、グループに別れ、全員が包丁を使って野菜を切らなくてはならなかった。
 料理なんかしたこともなさそうな、同じグループの男子がキャベツをざく切りにしていて指を切ってしまった。先生が駆け寄ってきて、たまたまそばにいた僕に、血がついた包丁とまな板を洗うように言った。
 僕はそうした。まな板を水道で流し、包丁を取った。水にさらそうとしたら、血が刃を流れて、僕の指にしたたった。
 あれは、いまだに説明できない。本能か衝動か、とにかくそうしなくてはならない気がして、僕はさりげなく指についた血を舐めた。包丁についたもので水っぽかったが、その鉄の味は、味覚を覚醒させるように衝撃的に僕の舌に響いた。
 しばらくは、悩んだものだった。血を飲みたいなんて、バカげている。吸血鬼でもあるまいし。だいたい、血を飲んで何だというのだ。抑えるべきだ。こんな欲望は表出させなくてはならない。僕は人間なんだから。
 さんざん自分の欲望を非難しても、本能の渇望はそんなものではごまかせなかった。血が飲みたい。できればもっと濃い、新鮮な、さらさらとした血。たっぷり味わいたい。あの金属じみた味が脳内を占領して、気がふれそうになっていく。
 血への欲望が目覚ましくなるほど、それを抑えていると、集中力がなくなった。疲れやすく、めまいにつきまとわれるようになった。
 ああ、僕には血が必要なのだ。あの日、舌に血を覚えて、本能が開花してしまった。なぜ血なのかは分からないが、ともかく僕は、たまらなく血が飲みたい。
 鉄の味に口を犯される感触に、頭が圧倒される。口の中が、からからというより、唾液でべたべたする。血さえすすれば、僕の変調は癒やされる。血が飲みたい。飲まなくてはならない。非人間的でもいい。バカげていてもいい。僕は僕としてそれが必要で──
 そんなふうに、人間としての品格を説き伏せ、僕はとうとう本能を決壊させた。
 いきなり人間を襲うことはしなかった。もちろん、人間の血が一番いい。しかし、僕はそこまで残酷になれなかった。動物に目を向けかけたが、しなかった。暴力的にはなりたくない。何かを傷つけたいわけではないのだ。ただ血が飲みたい。攻撃はしたくない。
 正直、この本能を満たすためには、殺すという行為はやむをえない過程なのかとも思った。だが、僕にはその度胸がなく、砂漠を彷徨ってやっとたどりついたオアシスは、屠殺されて包装におさまる動物の肉から、血を絞り出すという方法だった。
 初めは、冷蔵庫にある肉を夜中にこっそり解凍し、染み出た申し訳程度の血で、本能を癒やしていた。けれど、次第に小遣いの大半を肉を買うことにつぎこむようになった。
 そのなぐさめが、二年以上続いた。誰にも見つからないよう注意をはらって、肉から血を絞り取り、すすって、飲んで、舐めて、しゃぶった。甘美な味より生臭さのほうが強かったが、飲まないよりマシだった。レアで焼いてさらに血を絞り、ついに乾からびれば、食べたり、ドブに捨てたり、野良犬にあげたりした。その繰り返しで、僕は心身の正常を守り、荒々しい本能をなだめた。
 この本能を、だれかに語ることはしなかった。語らないどころか、必死に押し隠していた。こんな欲望は、あってはならない、外れたものだとは分かっていた。しょっちゅう肉をやる僕に懐いた野良犬に嘆くぐらいで、親にも友達にも打ち明けなかった。まして、子供の頃から片想いしている幼なじみの奈雪なゆきに知られたら、恥ずかしさで死ぬだろう。
 孤独感が絶えなかった。誰も僕の本性を知らない。知ったら嫌悪する。みんな僕のうわべを、当たり障りない造りものを親愛している。誰にも心を開けない。開いてはならない。孤独感を孤独にしたくなければ、欺瞞に徹しなくてはならない。
 事実の虚しさに、血を断つべきかと悩んだ時期もある。そうしたら僕は、みんなに見せている僕を僕だと言える。だが、そんな繊細な心情は放逸な欲望に砕かれ、僕は血を飲みつづけた。
 血に飢えて心が渇くのを防ぐため、孤独感に心を傷つけていた。それが救われたのは、十四歳の夏のことだ。誰より知られたくなかった奈雪に真実を知られて、僕の血との交わりも一変した。
 夏休みだった。毎朝蝉にたたき起こされ、冷房を離れればすかさず汗がべとつく。いつもどおりの夏だった。ぎらつく太陽は、無作為な殺意を呼び覚ます魔力を秘めている。
 心置きなく血を飲む蚊たちに嫉妬していた僕は、その日、友達の家に数人で寄りあって宿題をしていた。
 やってもやっても減らない夏の友に、いい加減うんざりしていた。数式にほてった頭を冷まそうと、ひとりがホラービデオをかけた。冷房のきいたリビングで、友達の親は共働きで不在だった。大人が顰蹙する残酷なものも、気にせず上映できる。
 映画はスプラッタだった。何だろうが殺す。とりあえず殺す。筋立てなどない。切って撃って、裂いて吹っ飛ばして。僕は本能こそゆがんでいても、そういうものに眉をひそめる神経も持ち合わせていた。みんなは喜んでいても、目をそらして麦茶を飲んでいた。そうして最後まで画面を観なければよかったのだ。「ノリ悪いなあ」と友達に言われ、しぶしぶ画面を一瞥して、僕の本能は暴発した。
 ゾンビ映画だった。生き残りが大量のゾンビを斧で薙ぎ倒し、道路を走り抜けている。ゾンビはおぼつかない足取りで生き残りに腕をかかげ、容赦なくその腕や首を斧で切断される。そして、腐爛して破損や変色を起こした容貌に似合わない、やけに新鮮そうな血を画面いっぱいにはじけさせ──
 それがいけなかった。僕は大きく目をひらき、じかに眼球に飛びこまれたように、血飛沫に圧倒された。首を吹っ飛ばされたゾンビは、アスファルトにどくどくと赤い湖を広げる。腕を落としたゾンビは、肩から赤い液体を噴き出す。地中から這い出して土にほつれた服が、深紅を飲みこんで裾からぽたぽた垂涎する。
 赤い、すごく赤い、ねばついたよだれがだらだら流れる。艶やかで、毒々しく、たとえば魅惑的な唇に塗られた口紅のように、深紅の刺激は、僕の理性に亀裂を入れた。
 舐めたいと思った。飲みたいと思った。それをすすりたい、傷口をしゃぶりたい、甘いえぐれに口づけ、血で舌を潤びさせたい。
 そうできたら、どんなに幸福だろう。新鮮で生々しい、体温を残す血を飲みたい。取れ立ての瑞々しい鉄の味を、飽き足りるまですすりたい。
 あの傷口なら、確実に僕の切望を叶えるだろう。あの傷口が欲しい。欲しくてたまらない。あれさえあれば、ほかには何もいらない──
 その映画は、血液の連射だった。ゾンビを倒しては血が飛び、生き残りの喉を食いちぎっては血がしたたり、腹を引き裂いて内臓をかきあらしては血がまき散らされた。小腸をすするゾンビが、口元から血を垂らすのを、僕は食い入るように見ていた。みんな、狂ったご馳走に笑って、僕の異常な集中には気づかなかった。
 無表情のゾンビは、暗紅の臓物をずるずると食べている。せっかくの血を唇の端からこぼし、喉元に落として、服などにくれてやっている。僕は耐えがたい羨望と狂おしい嫉妬を覚えた。
 僕だって、本当はそうやって傲慢に血を飲みたい。でも実際は、指についた血どころか、発砲スチロールに残った血も舐める。レアで焼いて絞り出した肉の血は、フライパンを冷まして、きちんと一滴残らず舐めあげる。
 さもしいのは分かっている。みじめなのも承知している。でも、この欲望に羞恥心なんて余地はない。屠殺された動物の肉の雫など、いくら舌でかきあつめても、僕には瑣末な量なのだ。
 第一、僕が欲しいのは人間の血だ。血の味を知ったとき以来、僕は動物の血ばかりだ。そろそろ、人間の血が飲みたい。もう我慢できない。このうだる暑さに冷たい飲み者を飲みほすように、放埒に血を飲みたい。一度きりでもいいのだ。
 どうすればいいのだろう。やはり誰かを殺すしかないのか。

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