深紅の盃-10

我慢できるうちに

 その日は、小屋に泊まった。帰りたいと言ったら、電車がないと返され、仕方なく帰宅を断念した。部屋には入りたくなくて、チノが貸してくれた毛布に包まって、廊下で寝た。
 チノは、明け方まで部屋を片づけていた。僕が起きたときには、部屋は来たときと同じ、ひっそり平凡な空間をたたえていた。
 夕べ器具が並べられたテーブルで、トーストと目玉焼きの食事をもらい、「あの人、どうしたの?」とおそるおそる訊くと、ばらばらにして埋めたと返ってきた。腐敗を過ぎて、骨だけになった頃に掘り返し、骨を砕いて湮滅するらしい。「嫌じゃない?」と変な質問をすると、「面倒ではあるね」とチノはコーヒーをすすった。
 その後、山を出て、町に降り、煩雑な乗り換えの果て、僕の最寄り駅まで送ってもらった。「来週ここで待ってる」とチノは血に潤びたような唇で微笑んだ。
「……うん」
「君の先は、長いと思うよ。刹那的に考えないほうがいい」
「………、」
「俺は、君を信じてる。じゃあね」
 チノは闇色のコートをひるがえし、人混みに消えていった。チノはあのコートについて、鬱蒼とした山奥で育ち、単純に日光に慣れていないからだと言っていた。僕も日射しが怖いが、なぜ怖いのかは分からない。ただ、素肌に陽が当たると、そこが壊死する気がする。
 しばらく、その場にたたずんでいた僕は、南中近い太陽に眉をしかめ、住宅街へとにぶく歩き出した。
 まっすぐ家には帰らず、お昼時で誰もいない公園に寄り道した。植木のあいだで、寒さをしのいでいたカラメルは、足音か匂いかで敏感に顔をあげ、しっぽを振って駆け寄ってきた。その無邪気なさまに、つい微笑む。
 ずいぶん久しぶりに咲った気がするけれど、考えれば、一日ぶりですらない。地面にひざまずき、カラメルと同じ目の高さになる。頭を撫でると、カラメルは嬉しそうにぴんとした耳を動かした。僕は今、食べ物を持っていない。それでも、カラメルが懐いてきてくれることに、悽惨な夜にすさんだ心がほのかに温かくなった。
 そっと抱きしめて、カラメルの体温を感じ、深いため息をつく。その息で何か感知したのか、カラメルはめずらしく僕の頬を舐めた。カラメルは、僕が自分と深く触れあわないよう気をつけているのを、知っている。注射を受けていないのを気にしている、というのはないだろうが、むやみに肌に擦りよってくることはない。
 僕は、カラメルに咬まれて、病気になってもいい気分だった。もちろんカラメルは、それに乗じているのではなく、それほどまでに堕ちた僕の心への懸念に、あえて頬を舐めてくれたのだろう。くすぐったさもあって咲ってしまい、「ありがと」とカラメルの頭をぽんぽんとした。
 カラメルは黒い濡れた目に僕を映すと、緩みかけていたしっぽの振りを戻して、僕の懐にもぐりこんでくる。僕は、カラメルの背中を毛並みに沿って撫でてやり、腰をあげてベンチに移動した。
「あのね」
 身をかがめ、足元にじゃれつくカラメルの耳に、とりとめなくささやく。
「もし、僕がここ出ていくなら、カラメル、一緒に来てくれる?」
 カラメルは僕を見あげ、分かっていないようにしっぽをぱたぱたとさせる。
「僕、ここを出ていくかもしれない。出ていきたくないよ。けど、僕、変になるかもしれなくて。チノは大袈裟に脅してるんじゃない。僕のほうがよく分かってる。最初は、ほんとに動物の肉で満足してたんだ。でもだんだんダメになって、自分の血飲んで、奈雪になって──どんどん壊れてる。血が欲しいんだ。チノみたいに血を飲みたい。あそこまでしなくていいって思わなきゃいけないのに、心に素直になったら、どうしても思えない。僕が行き着く先は、ああいうことなんだ。苦しいけど。どっかでは分かってた。偽善で見ようとしてなかったんだ。僕が逃げてたものに、チノは光を当てた」
 しっぽを振るカラメルの喉元に手を伸ばす。僕に喉元を撫でられると、カラメルは気持ちよさそうに目を細める。
「チノについていくかもしれない。そんなのほんとはダメだし、選択するのが信じられなくても、僕はチノを選ぶかも。血がいっぱいだった。あれは僕の夢なんだ。むごくても、昨日のは僕の夢だった。あんなにできたらどんなにいいかって──そんな気持ちが強くて、チノを切り捨てられない」
 カラメルは僕のジーンズに近寄り、それに濡れた黒い鼻先を当てる。「奈雪のことも考えるんだ」と僕は黒い瞳につぶやく。
「僕は奈雪といるべきじゃないかも。奈雪のことが好きなんだ。大切に想ってる。で、奈雪を安全に保とうとしたら、僕は一番物騒なんだよ。僕の欲望で危ないのって奈雪だよ。頭がダメになったとき、僕は真っ先に奈雪を襲う。僕が愛してるのは奈雪で、奈雪の血はすごくおいしい。あの味は、僕が奈雪を愛してる証拠なんだ。だったらなおさら、人間味が残っているうちに、その理性で、奈雪を捨てたほうがいいんじゃないかと思う。奈雪を殺したくないんだ」
 カラメルはしっぽを振っている。吐き出したいことを吐き出した僕は、少し胸が透いていた。
 そうだ。そのとおりだ。奈雪を想うなら、奈雪を捨てるべきではないか。深紅の本能が決壊したとき、僕はほとばしる愛で奈雪を殺す。だが今、僕は人間として、ひとりの男として、恋人として、奈雪を殺したくない。
 ならば、そういう理性があるうちに、奈雪の元を去るべきではないか。僕も奈雪も傷つくけれど、吸血鬼と人間で愛しあったのが間違いだったのだ。
 吸血鬼の本性を剥いて命を損なわせるか、人間としての自尊心を死守して心を痛めつけるか。答えは決まっている。なのに、「どうしたらいいかな」と情けなくカラメルに言って、無垢なまばたきに弱く笑ったときだった。
「しぐみっ」
 僕はびくっと顔をあげた。あたりを見まわすと、公園の入口に奈雪がいた。
「奈雪」
 反射的にベンチを立ち上がり、奈雪は上着に風をはらませて駆け寄ってくる。身構えたカラメルをなだめたところで、奈雪は僕の正面で立ち止まった。僕の顔を覗きこんで、異常がないのを確かめた奈雪は、「バカ」と僕の額をはじく。
「痛っ」
「心配しちゃったじゃん。ずっと帰ってこないから」
「あ、ああ──ごめん。あっちに泊まって、今帰ってきたんだ」
「何にもなかった?」
「ん、まあ──うん」
「ほんとに?」
 うなずきかけたものの、話さないとな、と思った。この深刻な問題を独断するのは無理だ。決めるのは僕だけど、考えるのは僕ひとりでなくていいはずだ。
 奈雪の顔を見ると、欲望にひしがれるほかなさそうだった未来を、変えられる気もした。僕の無事にほっとしてくれる奈雪に、「ごめんね」とまじめに言うと、奈雪は首を振って微笑む。僕は奈雪にベンチをしめし、カラメルは奈雪を警戒しながら僕の足元に身を引く。
「泊まったって、どこに泊まったの?」
「ん、えと、チノの家、かな」
「このへんの人じゃないんじゃなかったっけ」
「うん……電車で遠くに行った」
 カラメルはしっぽの振りを止め、僕の足元にひかえている。喉をさすってやると、ちょっとしっぽを揺らし、奈雪はそのさまを眺めた。
「ほんとにかわいがってるよね」
「まあ。今度、洗ってあげなきゃ」
「しぐみもシャワー浴びなよ。犬のにおいがついてる」
「嫌?」
「あんまり好きじゃない」
 そうかな、と服の匂いを嗅ぎ、心臓がすくんだ。カラメルの匂いに混じって、血の匂いがした。ひと晩過ごし、染みついてしまったのだ。そういえば、今日は日曜日で奈雪に血をもらう日だが、何となく飲みたくない。
「奈雪」
「ん」
「もし、ね」
「うん」
「突然僕がいなくなったら、どうする?」
「は?」
「いきなり、消えるみたいにどっかに行ったら」
「どっかに行くの?」
 奈雪を見つめ、僕は細い息とうつむいた。
 奈雪は、僕をとても想ってくれている。うぬぼれではない。僕を信じてくれている。その実感に、彼女を捨てる──つまり裏切ることがつらくなる。
 奈雪への愛情のために、欲望の増長を捻じ伏せることはできないのだろうか。そばにいたら、愛は守られても、いずれ死を見舞わせる。離れたら、安全は確保されても、絶望的な失恋を味わわせる。奈雪に不幸を与えない手段は、僕が死力を費やして、吸血鬼としての開眼を抑制することだ。
 できるものなら、それを選択したい。不可能だろうか。欲を殺せると言い切るには、僕の本能は強力すぎる。
「何?」と覗きこんできた奈雪に、僕はもっとうなだれ、カラメルの瞳を瞳に受ける。
「……ごめんね」
「えっ」
「僕が、奈雪のこと好きにならなければよかったんだ」
「……何のこと」
「奈雪を好きにならなければよかった。そしたら、奈雪を傷つけずにすんだ。ごめんね、僕が悪いんだ」
 僕は目をつぶって、凍えた指でまぶたをこすった。奈雪の困惑した視線が、冷たい肌に触れる。カラメルが哀しそうに小さく鳴いて、僕の脚にまといついた。いったん砂利の地面に目を落とした奈雪は、「何かあったんだ」と言い、僕は滲みかけた眼を彼女に向ける。
「そうなんだろ」
「………、うん」
「何? 何かされた? 言われた?」
「ほんとのこと、言われた」
「ほんとのこと」
「僕は奈雪といたらいけないんだ。僕といると、奈雪は危ない」
「しぐみのどこが危ないの」
「僕は吸血鬼なんだ」
 奈雪は息を止めた。自分のことを、僕がそんな表現をするのはないことだった。「いつか奈雪を殺すよ」と僕はカラメルを見おろす。
「吸血鬼として食いつぶされたときに。でも、奈雪のこと好きだし、人間としては殺したくない。殺して、家族にも友達にも吸血鬼って知られて、ショックで嫌われたくもない」
「抑えるって言ってたじゃない」
「無理だよ。そのつもりだったよ、でも、しょせんどんどん血に飢えてる。僕の本能は止まらないんだ。血が飲みたいんだよ。いっぱい、たくさん、誰か殺してでも、底無しに飲みたい。人間じゃないんだ。バケモノなんだよ。奈雪を好きになったらいけなかった」
 僕はベンチを立ち上がった。見上げた奈雪を見下ろし、「夕べのこと話したい」と言う。
「ひどい話だけど」
「話してくれるの」
「奈雪が聞きたいなら」
「聞きたいよ。当たり前じゃない」
「………、ひとつ、約束して。この話を、絶対に誰にも言わないで。黙ってたら、たぶん犯罪になるけど」
「……分かった」
「奈雪の意見は、聞いておきたい。何も知らせないまま裏切るっていうのもしたくないし」
 カラメルに植木のあいだをしめした。カラメルは動かず、今日も僕についてこようとする。奈雪がベンチを立つ中、カラメルの前にしゃがみ、軆を抱いて頭を撫でてやった。
 カラメルは例の哀しそうな声を出す。今日は甘えたいだけでなく、僕が心配なのもあるようだ。「大丈夫だよ」とカラメルの黒茶色の毛並みに頬を当てる。
「カラメルは、ずっと一緒にいられる」
 この言葉を解したのかどうか、「ね」と頭に手を置くと、カラメルはしぶしぶ植木のあいだに帰っていった。それを見守ったあと、奈雪と顔を合わせ、「行こう」と歩き出した。
 家に帰った。シャワーを浴びて着替えをして、そのあいだ、奈雪は僕の両親と話していた。浴室を出る前、僕は鏡の中の自分を見た。蒼ざめて、不安げで、泣きそうで、同情したくなるほど情けなかった。
 僕は、何か失う帰路にいるのだ。血か、奈雪か、愛か、充実か──攻撃的にはなりたくなかった。でも、攻撃の先にある甘美な悪夢を知ってしまった。あれを知ったあとで、僕は保守的でいられるだろうか。
 そうありたい意志はあっても、それが頑強かは自信がない。痛むほど深いため息をついたあと、浴室を出てリビングの奈雪を呼び、万一を考えて家を出た。
「どこ行くの?」
「………、人が来ないとこって、ないかな」
「……何で」
「誰にも聞かれたくない。誰か来るかもって思いながらだと、話せない」
 奈雪は灰色の景色を見やり、「おばけ通りって、まだあるかな」と言った。おばけ通り。古い家が連なった通りで、子供だった僕たちは、よく探検した場所だ。その頃は住人のいる家もあったけれど、今はもう誰も住んでいないと聞く。確かに邪魔も入らないだろう。「行こう」と奈雪の手を取ると、奈雪も僕の手を握り返した。

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