契りの口づけ
「明日だよね」
「えっ」
ちょうど、一週間後の土曜日だった。学校が終わったあと、奈雪と出かけて、その帰りだった。駅前を抜け、住宅街にさしかかっている。リュックを肩にかけた奈雪はそうつぶやいて、僕はまばたきをした。
「あの彼との約束の日って」
「ああ──まあ。何で」
「気にならない?」
「……ちょっとは、ね。でも、僕とチノって、そこまで親しかったわけでもないし」
「彼のことじゃなくてさ」
「………、僕には奈雪の血が一番なんだ。好きじゃない人の血なんて、自分の血ぐらいまずいよ」
「ほんとに?」
「うん」
「じゃあ、あたしの血をめいっぱい飲みたいとは思わない?」
僕はきょとんと奈雪を見つめて、「そしたら、奈雪が死んじゃうよ」と笑った。が、奈雪は笑わずに立ち止まった。僕も笑みを止めた。彼女のおかしい様子に、言い知れない不安が垂れこめて、ついで表情が消え入る。
公園の手前で、あの忌まわしい告白をしたおばけ通りの前だった。街燈と寒月の下、「ずっとね」と奈雪は凛とした瞳を苦いほど真剣にさせる。
「考えてたの。どうやったら、しぐみを彼のところに行かせてあげられるんだろうって」
「……え」
「あたしは、行ってほしくないよ。でも、あたしがそう思ってる限り、しぐみは彼のところに行けないんだよね」
「ぼ、僕だって奈雪といたいよ」
「分かってる」
「じゃあ、変なこと言わないでよ。僕は奈雪と生きていく。ここで、ずっと、今まで通り」
「それじゃ、しぐみばっかりつらさを背負うことになるじゃない」
奈雪の言おうとしていることが読めず、僕は狼狽した。「どうしたの」と泣きそうに奈雪の硬い瞳を覗く。
「何でそんなこと言うの? もう片づいたことだよ。僕は奈雪といる。……それとも、僕にいなくなってほしい?」
「いてほしいよ」
「じゃあ、このままでいよう。何の提案もいらない」
「選択はしぐみに任せるから」
そう言った奈雪は、いきなり僕の手首をつかみ、おばけ通りの中に駆け出した。凍りかけていた足がもつれかけ、「何?」と寒さによくまわらない舌で言っても、奈雪は答えない。
わけが分からない。まごつきながら体勢を整え、彼女がこんな行動を取る心当たりを探るうち、奈雪はひとつの屋敷に飛びこむ。
乱雑に駆けこんだので、ホコリがわっと立ちこめ、咳きこんでしまう。涙が浮いた目を、凍てついた指でこすって、僕がそれに気を取られている隙に、奈雪はリュックをおろして割れた窓に覗ける月に反射する何かを取り出した。
ひりつきに湿ろうとする瞳に、それは、銀の光としてしか映らなかった。それでも、何かは分かったので、奈雪がそれを首筋に食いこませようとしたとき、反射的に彼女の手を捻りあげた。まだ傷つく前で、それにはほっとして、奈雪の手の先にあるものがナイフだと確認する。
彼女の腕を捻りあげるまま、混乱にしばし僕たちは停止する。ホコリのざわめきが沈静を妨げていた。
「……何、で」
「あたしの血をあげる」
「は?」
「あたしの血を全部あげる」
「何で。どうして──いらないよ。どうしたの? 何かあったの? こんなの、奈雪らしくないよ」
「しぐみを愛してるの」
「え」
「愛してる、けど、どうしたらいいのか分からない。しぐみが愛から欲しがってるのは、愛そのものじゃなくて、そこから生まれる血なんだよね」
「………、」
「愛だったら、いくらでもあげられる。でも、血は──覚悟がないと」
僕は荒げた息を鎮めていく。奈雪は僕をまっすぐ見た。
「覚悟した。しぐみにいっぱい血をあげる。一度でもいい。一度しか無理だけど。そうしないと、しぐみに愛される資格がない気がしてた。自信も持てなかった」
「奈雪……」
「あたしを殺して、彼のとこに行って。犬は連れていけるんだろ。ずっと一緒って言ってたもんね」
「───」
「そうしてほしいんだ」
「……嫌だよ」
「お願い」
「嫌だ。だったら、僕が死ぬ。そっか、僕が死ねばいいんだ。気づかなかったな。そしたら、全部なかったことになる」
壊れた笑いをもらし、僕は奈雪の腕をさらに捻りあげた。緩んだ力からナイフを取り上げ、ナイフを左胸に突き立てる。
すると、奈雪は僕の腕をはらって床に押し倒した。ホコリが大きく巻き起こり、僕たちは乱暴に咳きこむ。
まだナイフは刺さっていない。宙ぶらりんになった右腕とナイフは、一瞬空を泳いで、刃に月を映し、ぎらつきをたなびかせて、ぱたんと床に落ちた。
またホコリが踊り、僕と奈雪は濡れた瞳で見つめあった。「バカ」と奈雪は僕の喉元に顔を伏せる。
「言っただろ、自殺させるぐらいなら、殺してやるって」
僕は瞳を痛ませ、「じゃあ殺してよ」と奈雪にナイフをさしだした。奈雪はナイフを一瞥する。
「殺していいよ。殺して。僕が死ねばいいんだ」
「………、」
「カラメルにごはんはあげてね」
奈雪はナイフを受け取った。僕は虚脱した。
にぶいきらめきを凝視した奈雪は、迷わず、自分の首を大きく切り裂いた。僕は目を剥いたが、弛緩していたためにとっさに動けなかった。
頬骨に、大きな赤い雫が跳ねる。
「奈雪、」
「あたしの血を飲んで」
「い、嫌だよ。何でこんな、止めなきゃ」
「飲んでよ」
「奈雪を殺してまで、血なんか欲しくないよ」
「あたしのこと愛してよっ」
したたる血に混じって、奈雪は僕の頬に透明な涙も散らす。血の甘い香りに、思わず僕の呼吸は錯乱する。
奈雪は身をかがめ、僕に口づけた。血と唾液が混ざりあった奇妙な味に理性がもろくなる。
血の味がする。血の匂いがする。血が肌をつたっている。血を感じただけで、人間に徹する誓いが、みじめに爛れていく。
人間としての、さまざまな色彩が乾からびて白黒になり、深紅の雫だけが神経に飛び散る。
ねばつきが鎖骨に伝い、絡みつくように肩へと落ちて、服にじわじわと深紅が咲く。今すぐ指にすくって、舌に染みこませたい衝動が湧き、僕はそれをどうにか押しのけようとした。
しかし、血の匂いが理性をひしぎ、病的な魅惑を強迫する。「しぐみを愛してるの」と傷口が痛むだろうに、奈雪は言い切る。
「だから、あたしの血を飲んで」
「奈雪……」
「これでひとつになれる。ずっと一緒になれるの」
「何で……」
「愛されたいの」
「愛してるよ」
「だったら、あたしの血を飲んで。しぐみの本能で、あたしを愛して」
奈雪の血は止まらない。僕の腕に伝い、頬に飛び散り、床に染みこんでいく。
馥郁とした深紅に、脳から何かが流出する。つかんでとどめようとするのに、それはどろどろと腐っては地表を剥ぎ、地下にあった惑乱を必然的に腫れあがらせる。振りはらおうとする気力が、首を絞める手をほどこうとする指のように、だんだん弱くなっていく。
奈雪は軆を重ね、唇を耳元に当てた。すぐ横に、瑞々しくほとばしる夢の泉がある。愛にあふれた、甘美な、生き血の水源が脈打っている。とめどない鮮やかな赤い傷口に、僕の瞳は同じ色に覚醒し、喉は嫌でもからからになっていく。
これは、契りなのだろうか。蒼い素肌にある、その深紅の裂けめは、真実の僕へへと生まれ変わる盃なのだろうか。奈雪は、僕に血をすすられるのを望んでいる。チノは、明日の夜に約束の場所で僕を待っている。そして僕は──
たまらない心情より、支配的な本能で、そっと裂けめに舌を当てた。生臭い神秘的な味が口内に広がり、舌は味覚を覚醒させる。何とか顔を引いて、傷口を覗くと、そこは視覚を痺れさせそうに真っ赤で、噴き出る血にえぐれていた。濃密な馨しさが、詰めた呼吸のほてりに強調され、吐きそうな搏動に絡みあう。飢餓にわなないた軆に、落ち着いて考えようと、どうにか歯を食い縛る。
選択は僕に任せる。奈雪はそう言った。つまり、僕の愛情は何かということだ。
奈雪か、血か。
理性の愛か、欲望の愛か。
はっきりさせて、本音の愛と契りを交わせということだ。
今、僕の息を塞いでいるものは何だろう。この胸を高鳴らせ、くらくらさせているものは? 僕をこんなに追いつめ、剥き出しに魅惑しているのは──
もう、嘘はつけなかった。悪夢がすべてを麻痺させる。そうだ。その通りだ。僕はあの吐きそうな血の海に溺れたい。
傷口に顔を伏せた。満ちあふれる深紅の盃。それに唇を寄せ、僕はついに、悪魔と深い口づけを交わしてしまった。
FIN
