打ち明ける夜
その夜、僕は洗面台の鏡の前に立っていた。風呂上がりで、シャンプーとボディソープの匂いが立ちのぼっている。髪を拭いて肌の水分を取り、Tシャツとハーフパンツを身につけると、僕は陶器の洗面台に手をついて鏡をのぞきこんだ。
同級生は、声変わりを済ましたり髭を剃ったり、女の子と経験を済ましたりしている。僕も、夢精や手淫で精通ぐらいは済ましていたけど、声変わりは過程だし、毛深くもない。身長は百六十を越えたところだ。女の子っぽいというより子供っぽい。
血を知る前から太陽に嫌悪のあった僕は、クラスで一番肌の白い男だ。白いというか、蒼ざめている。体格もそんなによくない。幼い丸みは取れてきたので性別不詳ではなくも、華奢だ。顔立ちも精悍さに欠け、ただ瞳には本性が滲んで仄暗い。血への性質に気づいた頃から、僕はこの目に意識過剰になり、前髪を重くおろして微妙に隠している。
見るからに頼りない僕は、よく人に構われる。両親と七つ上の姉は、食欲がないと食べやすいようにお粥を作ってくれたり、休みの日は干渉せず寝坊させてくれたりする。姉の妹分で、僕の幼なじみの奈雪も、揶揄いながらも守ってくれる。友達や奈雪の家族にも、イジメられるよりかわいがられた。
ここ数年、僕が塞ぎがちなのをみんな心配している。家庭にも学校にも交遊にも、何も見当たらないのは、けしてみんなの見落としではない。僕自身、外界の愛の調和をよく分かっている。だからこそ、怖くて言えない。
血が飲みたい、なんて──
みんなを想うと、僕は本気で血を捨てたほうがいいのかと悩む。みんなを失くしたくないし、欺いていたくもない。だとしたら、僕は、みんなでなくみずからを騙し、血を断つしかない。実際、その選択は弁別がついている。
血のことは忘れたほうがいいのかもしれない。あの鮮紅に見蕩れるのも、生臭い香りも、ぬるぬると舌になじむあの味も。僕は日中に見たゾンビ映画を想う。喉を無残に剥がされ、ぐちゃぐちゃの傷口が現れ、そこにとめどなくあふれるあの赤い──
冷静を勤めても徒骨で、激しい欲望にめまいさえして、やめたら死ぬかも、と泣きたくなる。
白熱燈の下で、鏡の中の自分を見つめる。人間の血が飲みたい。どうすればいいのだろう。まさか、誰かに血を分けてくれとは頼めない。もらうなら、黙らせる確信が欲しい。殺したら、相手は口をきけない。出血多量以上の血もすすれる。合理的だ。
誰を殺せばいいのだろう。こんな細腕で人を襲うなんて不可能だ。子供は? いや、どうせ殺すならたっぷり味わえる体格が欲しい。殺すのか。屠殺動物で耐えられるなら、そうすべきだ。どうしても我慢できないのか。あの映画の血飛沫がちらつく。僕は人間の血が飲みたい。もう耐えられない。二年間も我慢した。そろそろいいではないか。
いや、と首を横に振る。
人を殺したくない。なぜ、わざわざ殺さなくてはいけないのだろう。放逸な欲望への牽制か。まるで洗礼だ。道徳的品位に打ち勝たないと、僕は血を飲む資格を得られない。殺人。無理だ。殺すなんて嫌だ。殺さずに血が欲しい。甘えているのか? 吸血鬼のくせに、人間としての尊厳も守っていたいなんて──
人間、と僕は蛇口に落ちていた視線を上げる。そう、人間。僕も人間だ。誰も殺したくない。傷つけたくない。ならば、自分の血なら?
一瞬、ものすごい名案に思えたけど、白い肌に薄くひそむ青い筋を見ていると、気分が萎えてきた。自分の血は、まずそうだ。よく分からないけど、まずい気がする。情けないとか怖いではなく、本当にそう思う。自分の血はおいしくない。
自慰行為には、取り入れる快感がない。僕がもっとも欲しいのは、味わって飲みこむということだ。僕の味覚が求めているのは、他者の血液であり、自慰行為ではなぐさみものにもならない。
「しぐみ」
そこで、不意に名前をよばれた。僕は振り返った。そこには、着替えを抱えた姉がいた。現在ひとりで部屋を借りる姉は、当時はまだこの一軒家に同居していた。
「音がしないから、二階にあがったかと思った」
そう言った姉は髪をほどき、僕は謝って身を引く。「髪乾かす?」と訊かれて首を振り、「ぼうっとしてて」と洗面台の脇に置いていたタオルを洗濯かごに放った。僕の言葉に心配そうにした姉に、「大したことないよ」と僕は笑顔を造り、「おやすみ」と浴室を出た。
リビングでテレビを観ていた両親にもおやすみを言うと、僕は二階の自分の部屋に行った。息をついてベッドに腰かけ、ゾンビの幻影に悩みながら漠然と空を見つめる。
限界だった。動物の血が悪いわけではない。悪いのは僕の貪欲さだ。初めは動物の血でも救いだと思っていた。いつから、動物の血を妥協にしてしまったのだろう。
人間の血をすすりたい。新鮮な生き血を飲みたい。いきなり人間を襲うのはやめ、動物を殺そうか。しょっちゅう肉にあげているあの野良犬が浮かぶ。あれを──
ダメだ。僕はあの犬がかわいい。あの犬は、耳をぴんとさせて僕の話を聞いてくれるのだ。あの犬を殺すなら、知らない人間を殺すほうがいい。
僕は自分の手首を見おろす。
まずいだろう。確信がある。僕には僕の血はまずい。でも、血は血に変わりない。僕は飢えている。最後に血を飲んだのはいつだろう。八月に入って飲んでいない。先週の夜中に冷凍庫をあさっていたら、おかあさんに見つかったせいだ。
慌ててアイスが食べたくなったと言い訳し、たぶんおかあさんはそれが嘘だとは見抜いていたけど、「お腹を壊すからやめなさい」と言ってくれた。僕は夜の闇に駆られて、打ち明けてみようかと思った。でもやっぱり、言えなかった。
それから僕は過敏になり、肉に触れてもいない。こんなときにあんな映画を見たので、余計に火がついてしまった。
僕は手首を見ている。血を飲みたい。しかし、しばらく家で不審な動作はできない。今、血を飲みたければ、これしかない。
二年も前であるこの日を克明に記憶しているのは、結局その日、自分で自分の血をすすったからだ。僕は切れた。落ち着くために切れた。ふらふらとつくえに歩み寄り、引き出しのカッターを取り出し、初めは無難に手の甲を傷つけたけど、脳内が飛んだような時間の中で、気づくと手首に集中する血管を切断し、傷口に口づけていた。
血は恵みのようにあふれ、一瞬にして蒼い肌の溝を赤く染めた。すぐ舐めないとこぼれてしまう。僕はカッターを握りしめ、そのままフローリングに座りこんだ。
冷房がついていなくて汗が流れ、虫の声が遠くに聞こえていたと思う。頭をかがめ、痛みも忘れて舌で傷をえぐる。奥深く血をすすりはじめた頃から、五感は味覚以外どこかにいった。口いっぱいに広がる、温もりを残したどろどろに全神経が没頭する。
人によって“あまい”というのは砂糖だったり口づけだったりするわけだけど、僕にとっての甘味は、この鉄を舐めるような味にほかならなかった。いくら味わっても飽きない。僕は血をしゃぶることに、永遠を捧げられる。
血の味がする。いや、舌には味よりぬめりが先行する。まずぬるぬるして、唾液に緩和されてはじめて血は舌に染み、味が知覚される。生温くて生臭い、瑞々しい命の味。口の中が馨しくねばつき、唾液と共にさらさらと喉へと流れ落ちていく。
僕はとうに、自分の血をすすっていると忘れていた。他人の首筋に顔をうずめている気になっていた。だから、このとき奈雪に見つからなかったら、翌朝には死体で発見されていたかもしれない。
ノックは聞こえなかった。「何してんの」と驚いた声でカッターを持った手を引っ張られ、初めて外界の存在を認識した。奈雪は僕の口元についた血に目を開き、左手首の赤い裂けめにもっと目を開いた。彼女は声をあげそうであげられずにいる。「違うんだ」と僕は唇を舐めて、ドアが閉まっているのを確かめ、奈雪の悲鳴で事がもつれるのを防いだ。
「違うって」
「死のうとかってわけじゃ」
「そんなとこ切って、死ぬ以外に何があるの」
「でもほんとに、」
「ああもう、ずっと落ちこんでるから心配してたら──」
奈雪は素早くカッターを取り上げ、つくえのティッシュを何枚も取った。僕の前にしゃがみ、床や服に血をぽたぽた落とす傷口にそれを当てる。白いティッシュは鮮やかな血をさっと飲みこんだ。もったいない、と思っても、奈雪の手前、そんな発言はできない。
現在の奈雪はショートカットだが、当時は少し伸ばして、ひっつめのポニーテールにしていた。大人っぽい顔立ちはこの頃からだ。頬の線など基礎にあどけなさが残っていても、幼少から僕を守る頼もしさの表出が、奈雪を少女でなく女と呼ぶほうが相応しい印象にしている。僕は子供っぽくて、奈雪は大人っぽくて、容姿ではずいぶん年齢に開きがあるように感じられるけど、同い年だ。
「何で」
「えっ」
「何でこんな追いつめられても、何にも言ってくれないの」
「………、」
「バカ野郎。あたしがそんなに役に立たないのかよ」
奈雪を見た。びっくりした。奈雪の瞳が濡れていた。最後に奈雪が人前で泣いたのは、五年生の林間学校のときだ。飯盒炊爨でよそ見をして僕に火傷をさせた女の子と、本当は親しいのに喧嘩したときだった。
「何か言えよ」と奈雪は僕を睨む。
「あ、いや……その、違うよ」
「何が」
「ほんとに、違う。死のうとしたんじゃないよ」
「じゃあ、何でこんなことするの」
「………、」
「おばさんたちに言ってほしくないなら言わない。あたしにぐらい言えないの?」
うつむいた。奈雪は新しくティッシュを取り、血にふやけたティッシュと取り換える。出血はわりと容易く落ちついていった。僕は口の中の血を思い出し、自分の血だと思うと、急に吐き気を覚えた。
「あたしに言ったって、どうにもならない?」
「………、」
「ずっと悩んでるよね。今日、村嶋のとこ行ってたけど──」
「む、村嶋くんたちは関係ないよ。ほんとに」
「じゃあ、何? おばさんたちに何かあるの?」
僕は首を振った。「学校?」と訊かれて、また首を振る。奈雪は何秒か沈黙し、「あたし?」と言う。僕は首を振った。
奈雪は僕の手首に目を落とす。
「あたしもおばさんたちも、村嶋たちだってしぐみを気にしてるつもりなんだけどな」
「みんなは悪くないよ。僕が悪いんだ」
「自分のことが嫌なの?」
「………、うん」
「死にたいほど?」
「死のうとしたんじゃないよ」
「ほかに何の用があって、手首切るの」
奈雪と見つめあった。自分の瞳の狼狽が、奈雪の瞳で見取れた。本当に死のうとしていたような瞳だ。けれど、だんだん奈雪の瞳は水分にひずみ、鏡の役割を果たせなくなっていく。
「死ぬってこと、分かってるの?」
「……え、」
「いなくなるんだよ。消えるの。しぐみが今ここにいることも、なかったことになる」
「………、」
「しぐみはそれでいいかもしれないけど、あたしはしぐみがいなくなったら──」
ティッシュに染みこんだ血は、どす黒くなりつつある。そこに奈雪の涙が落ち、一瞬、緋色がよみがえった錯覚が起きた。
奈雪はカッターを握りしめ、「自殺させるぐらいなら殺してやる」とつぶやく。僕は奈雪を見た。もちろん奈雪はカッターを振りかざしたりしない。僕は黙ってカッターを取り、はっとした奈雪の目が追う中でつくえに置いた。
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