カラメル
低い空が重苦しい雲に窮屈そうな、肌に刺さる風が吹き荒れる冬の日だった。
さえぎられた太陽に灰色と寒色を綯い混ぜる空気に、景色は蒼然としている。外気とぶつかっては呼吸が色づき、奈雪とつなぐ手以外は体温が侵蝕されている。
三学期が始まって、初めての休日である土曜日の昼下がり、僕は奈雪と駅前に出かけていた。
世間は正月気分が抜けきっておらず、テレビの挨拶も“あけましておめでとうございます”だ。とはいえ、通りを歩いていて正月休みをとっている店は少ない。鏡餅や門松、賀正や初春という書きぞめの張り紙をしておき、ほとんどの店は商売を開始している。コンビニやレンタルショップは、正月すら休んでいなかった。レンタルショップの隣の本屋ももう開いていて、僕たちはそこに向かっている。
僕と奈雪のデートは、特にプランとか立てない。まず本屋に向かい、タウン誌や情報誌で、一緒に予定を決める。僕と奈雪が暮らす住宅街をくだって、駅に行きつくまでの道のりには、いろいろ店がある。本屋やレンタルショップのほか、レストランやホームセンター、おもちゃ屋もある。映画館や遊園地なら遠出なので、駅に出る。久しぶりに映画に行ってもいいかな、とその日僕は思っていた。
高校生になっても僕は小柄だったが、奈雪よりは背が高い。著しい自覚はなくても声変わりもして、軆の丸みもずいぶんなくなった。小さくて童顔でも、女の子と見紛うほどでもない。奈雪は中学卒業で髪をショートにしたが、僕と並ぶとおねえさんと年下の男の子という感じだ。姉弟かと言われることもある。
「寒くない?」と奈雪に訊かれ、こくんとした僕は、普通そういう質問は男がするよな、と思う。僕たちは恋人同士になって二年だけど、幼なじみとしての関係性も強い。姉弟かと訊かれて、仕方のない雰囲気もある。
駅前には、ビルやマンションの高層ビルが立ち並んだ場所がある。会社が入るビルもあれば、塾やスタジオ、食事や遊戯が雑居するビルもある。僕は塾には通っていないし、芸術的な趣味もない。カラオケは、嫌いというより怖い。そういうビルに踏みこむのは、歯科検診とかで病院にお世話になるときぐらいだ。
が、人だかりができて、みんな上を見て、屋上で何やらわめく人もいれば、人並みの野次馬と妨害される通行に立ち止まる。
誰か、自殺しようとしているらしかった。ビルは二十階ぐらいあって、ここからでは、叫ぶ人の年齢どころか性別も見取れない。金網を越えた外側にいて、何か言っているのは見える。警察も来ていて、ビルの中に慌ただしく入っていく人もいた。
周りの野次馬は、愉しげな人もいれば、不安げな人もいる。僕は奈雪と顔を合わせた。「行く?」と訊かれて、僕はどうとも答えられず、飛び降りれば確実に死ねるところにいる人を仰ぐ。
不思議な感じだ。僕も自分がいずれ死ぬのは知っていても、はっきりと認識していない。
それでいいと思う。死なんて、意識すればするほど取りこまれ、健康な心を蝕んで何もかも虚しくさせる。死に、ひいては消滅に、強くなれる人なんて滅多にいない。弱くなって時間を無駄にするのが嫌なら、バカみたいに目をそらしておくしかない。
でも、あの人はみずから死を見つめている。おそらく、それこそを虚しさからの逃げ道として──
「奈雪は、死にたくなったことってある?」
僕と同じく上を見ていた奈雪は、僕に目を移す。
「あると思うけど、憶えてない。本気で思ったことはないのかな」
「そっか。僕もないよ。殺そうって思ったことはあるけど」
もちろん後半は小声にした僕を、奈雪は小突いた。僕は咲って、「行こう」と言う。
ああいう神経に僕は同感できない。本当に死にたいなら、止められないようにひっそり死ねばいいのに。
歩き出そうとしたとき、突如、周りから声があがった。はっと褪せた天を仰ぐ。
警察が野次馬を何とかしりぞけたのと、強風に乗せられて真下からずれたところに人が落ちたのは、ほぼ同時だった。人形ぐらいだった影が、ぐんぐん生身の人間となって視覚に迫って、落ちたときの衝撃は思うより大きかった。どんっ、と車が衝突するような音と地響きが伝わり、奈雪が僕の手をきつく握る。
男だった。黒い髪は短く、ジーンズをはいて、まだ若そうだ。頭から落ちたせいで、首が異常な角度に曲がっている。さいわい、顔は向こうを向いている。
アスファルトにどくどくと血が広がる。一瞬しんとしたあと、一気に悲鳴や駆け足が周りに飛び散った。
奈雪は僕に身を寄せ、僕は突っ立って数メートル先に伸びる死体に目を凝らした。死んでいるのは、明らかだった。
死体を見るのは初めてだった。家族も友達も元気だし、恋人も今こうして、手から手に柔らかな熱をそそいでくれている。知人の死体と他人の死体では気持ちは違うだろうが、物になった人を肉眼に受けるのは、やはり怖かった。
死体はオブジェなんて言う人もいるけど、首の奇妙な角度やたたきつけられて放られる手足に、そんな美的感覚は働かない。ただ、気分が悪かった。
なのに目が離せないのは、乱暴な獣欲のためだった。この僕が見逃すはずがない。アスファルトをとめどなく侵す、どす黒く変色していく致死量の血液を。
失われた命に、不要物になった血がどこかの傷から体外へと排出されていく。強い風がそれを後押しし、暗紅の沼は無軌道に拡大していく。乾いた風が、その生臭い香りをまきちらす。
夏ならひどかっただろう。焼けたアスファルトが血を熱し、蒸発した匂いが芳醇にむっとして、たっぷりした吐き気を催させていた。
それを嗅いでいたら、危なかった。いや、寒色を切り裂く鮮やかな深紅の視覚効果だけでも、僕はこんなに錯乱している。
周りの騒がしさが、耳に入らない。真冬の寒さもどこかにいってしまう。あふれる鮮血に、口の中が猛烈に飢える。あれを飲みたい。すすりたい。傷口を探りあて、そこに舌をさしこみたい。流れ出た血は、黒くなった血に飲まれ、生き血の新鮮さを殺していく。
耐えがたい光景だった。鮮度を死なせるぐらいなら、僕が飲みたい。瑞々しい血が、腐りゆく血にどんどん消えていく。早く傷口に口づけないと、せっかくの血が──
そのときだった。血にはりつけた五感すら引き裂いて、強烈な視線を感じた。死体を囲む人だかりの中に、僕に目を向けている人がいた。
美しい少年だった。濡れたような漆黒の髪、整った眉、長い睫毛に縁取られた蠱惑的な黒い瞳、血のごとく鮮やかな唇──くっきりした色彩が映える、雪白の肌をしている。
真っ黒のコートを着て、角ばらない無駄のない顎の線から見取れば、僕より華奢だ。中学生ぐらいだろうか。気づかれたのに気づくと、彼は唇を笑ませ、悠然と瞳を細めた。ついで、身を返して雑音や混雑に騒がしくなるその場に紛れ、消えてしまった。
「しぐみ」
僕ははたと奈雪を向いた。「どうしたの」と首をかたむけられ、上の空でかぶりを振る。何秒か地面を見て、妙な動揺を鎮める。
何だろう。何というか、見透かすような微笑だった。
いや、こんな欲望、思い当たるものか。考えすぎだ。仮に見透かされたって、二度と逢わない他人だ。白衣を着た人がたかる死体を一瞥すると、「行こうか」と僕は奈雪に言う。
「嫌なもの、見ちゃったね」
「ほんとに?」
「え、なんで」
「見蕩れてなかった?」
奈雪と顔を合わせる。ばつが悪く苦笑すると、「血と死は別だよ」と小さく言う。奈雪はうなずき、僕の手を引いた。僕と奈雪は並行し、傍迷惑な悲劇に背を向けた。
その日は、僕の提案通り映画に行った。いくつかの選択肢の中、今話題の映画はホラーだったので観なかった。以前、ゾンビ映画で変なことになった僕は、極力そういうものは避けている。ただでさえ、今日は土曜日だ。一週間も血を飲んでいない。明日やっと奈雪に血をもらえるが、かなり飢えていた。こんなときに血を見れば、何をやらかすか分からない。映画が終わると、イルミネーションがきらびやかな街並みを散歩し、食事を取って帰った。奈雪のおかあさんに挨拶したあと、奈雪とは清く正しく別れる。
奈雪と寝たことはある。初めて寝たのは十五になる夏休みで、つきあいはじめて一年後だった。長く幼なじみだったので、さっさと手を出すのには躊躇いもあったし、性的に熟していない自覚もあった。結ばれたあとも、どちらかの家に誰もいないときに、たまに愛しあっている。
けれど、正直、僕は性より血だった。軆をむさぼるより、血をむさぼるほうがいい。もちろん、その本心を表出させることはない。そうしたら奈雪を殺すことになるし、何より、奈雪は普通の女の子だ。義務とかではなく、彼女に普通の男として応えるのは当たり前だと思っている。僕も情交が嫌だというわけではない。気持ちよくて、いいのはいい。でも、まあ、この歳の男にしては、性欲が希薄だとは思う。
奈雪に血をもらうようになっても、僕は例の野良犬──カラメルの世話はしていた。毎週、月、水、金に、住み処の公園にごはんを持っていく。生肉は買わなくてよくなったので、近頃はすでに調理されたものや、缶詰めをあげるときもある。食後の牛乳は昔から変わらない。
野良犬は警戒心が強いが、小犬の頃からごはんをやる僕に、カラメルは心を開いてくれている。ごはんをあげて、しばらく一緒にいたあと、別れるときは振り切るのが大変だ。
家族は、僕がカラメルの世話をしているのを知っている。あまりいい顔はされていないが、止められることもない。ただ、咬まれたりしないように強く言われている。野良犬なので、カラメルは予防注射などを一切受けていないのだ。
親に拝み倒した功績で、月に一度家に連れてきて、庭で軆を洗ってやるけれど、できるのはそこまでだ。お金があればなあ、と月曜日の憂鬱な学校を終えた僕は、今日もごはんと牛乳を持って公園に向かっている。
この公園には、子供の頃、よく奈雪と遊びにきていた。成長した僕には、広々とした感はないけれど、子供の目には走りまわるゆとりはある。実際、昼間は子供たちとそのおかあさんでにぎわう。地面には砂利が敷きつめられ、公衆トイレや街燈、ベンチもあり、カラメルは公園を囲う金網に沿った植木のあいだに住んでいる。
野良犬は疎まれるものでも、僕に世話されていることを知られるカラメルは、目くじらを立てられることは少なかった。僕がごはんをあげるので、ゴミを荒らすこともない。僕をおとなしく待って、不審にうろつくこともない。「カラメル」と呼びかければ、ごそごそと植木のあいだからすがたを現す。
カラメルは滅多と鳴かない雑種の雄犬だ。毛並みは黒茶をしている。耳は立ち、しっぽはくるんとして、目はかたくなに黒くて、どこかで柴犬の血が入っているのかもしれない。出逢ったとき、僕は十二歳だったので、四年越しのつきあいになる。
カラメルは、肌もむきだしの生まれたての状態で段ボールに詰められ、兄弟と共に捨てられていた。初めはその兄弟みんなに肉をあげていたが、いつのまにか、兄弟は拾われるか縄張りを移るか、あるいは死ぬかで消えて、カラメルだけが残った。そうなった頃に、僕はカラメルにカラメルという名前をつけた。
しっぽを振って歩み寄ってきたカラメルを街燈の下に誘導すると、僕は同じ目線にしゃがみこんだ。カラメルは、僕には軆に触らせる。僕はカラメルの頭を撫でたあと、ビニールぶくろに入れてきたごはんを広げた。ささみとごはんを皿に入れ、さしだすとカラメルは食べはじめる。牛乳はごはんが終わったあと、その皿にそそぐ。食事中の動物に触れるとろくなことがないので、待つあいだ僕はベンチに座り、夜へと冷えこむ空気にコートに身を縮めた。
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