深紅の盃-5

再会

 息が白い。風はきめ細かく冷たい。指先や爪先が凍え、持ってきた懐炉を握りしめた。二十時ぐらいだろうか。
 周囲が住宅街なので、人通りもなく静かだ。カラメルがごはんを食べる音と、僕の抑えた呼吸が冷えこみに響く。住宅街の人間しか利用しない公園だから、浮浪者がいたり逢引が行なわれたりもない。
 雲がかかる空は月も星もなく、飲みこみそうに暗かった。カラメルとカラメルのごはんの匂いに混じり、かすかに枯れた草木の匂いがする。浸透していく冷気に身を任せ、僕は静まり返る闇に瞳を泳がせた。
 夕食は取ってきたし、帰宅したら風呂に入って勉強し、寝るだけだ。勉強は本当に頑張らないと。もうじき高校二年生になる。将来を考え出さないとな、と思ったとき、不意にカラメルが頭をあげて、耳をぴんとさせた。
「どうしたの」
 僕の声に、カラメルはいったんこちらを見、すぐ公園の入口を向いた。僕はカラメルの視線を追った。が、街燈の届かないそこに、何があるかは凝視しても分からなかった。何だろ、と身を硬くすると、砂利を踏む足音が近づいてくる。
 ……誰?
 不意に、その人は立ちどまった。それが誰かを見取り、僕は心臓を停止させるように息を飲んだ。
「こんばんは」
 澄んだ、しかし威圧のある声だった。赤い唇が薄く笑みをかたちづくり、僕は懐炉を無意識に握った。
 踏み出して、光の射程範囲に入り、すがたをあらわにした人は、おとといの自殺現場にいた美しい少年だった。
 視線も軆も硬直させる僕に、彼は丁重に見下すような微笑をこぼした。「君の犬?」と彼はカラメルを見おろす。カラメルはめずらしく低く唸っていて、僕は身をかがめて、その背中を慰撫した。ごはんの残った皿をしめすと、カラメルは彼が気になるようでも食事に戻る。
「首輪、してないね」
「野良犬、だから」
「飼ってないの?」
「ごはん運んでるだけ」
「懐いてるね」
「子犬の頃からあげてるんだ」
「ふうん」と彼はまなざしをカラメルに向け、「隣、いい?」と僕に向き直った。狼狽えたものの、断る理由もなく、僕は隣の牛乳が入ったふくろを膝の上に乗せる。黒いフリーツのコートを羽織る彼は、丁寧な歩行でベンチに歩み寄り、僕の隣に腰かけた。
 やはり、美少年だった。水分を含むように、髪は電燈をくっきり反射して艶めいている。揃った睫毛に縁取られる黒い瞳には威光があり、鼻筋も顎の線も正確で、なめらかな頬は綺麗な乳白色だ。口紅を塗ったように毒々しい唇には、僕でなくとも血を連想するだろう。もろい体質が、そばだともっとよく分かった。
 僕と瞳を重ねた彼は、親密に微笑んだ。男だよな、とふと思う。
「えっと……このへんに、住んでるの?」
「違うよ。君は?」
「僕は、そっちの住宅街に。じゃあ……ええと、このへんに用事?」
「君に会いにきたんだ」
「えっ」
 肩を揺らした僕に、彼は喉の奥で笑った。つかみにくい、何を考えているか読ませないタイプらしい。
「可哀想だったよね、あの死んだ人」
「え……ああ、自殺した人?」
「うん。そう思わない?」
「あん、まり」
「へえ」
「消えたいなら、こっそり死ねばいいのにって思った……かな」
「あの人は、消えたかったんじゃないと思うよ」
「知り合いだったの?」
「ううん。でも、あの人は死にたかったんだ。死ぬのと消えるのは違う。消滅は恐怖だけど、死は快感だよ」
 困惑や狼狽が頭に氾濫する。何だろう。初対面に等しいのに、そんな深遠な話をされてもついていけない。
 あの自殺した人の話をしようと、わざわざ会いにきたのか。まさか。
 そういえば、彼の笑みに自分を見透かされた気がしたのを思い出した。彼を見た。彼も僕を見ていて、目が合うと、造りものじみて咲った。
 そのとき、カラメルが顔をあげ、しっぽを振ってくる。皿が空になっていた。僕は逃げるようにベンチを降りて、カラメルのかたわらにしゃがむ。
 牛乳パックを取り出し、角を取り、持参のはさみで口を開ける。カラメルは背後の彼を警戒している。僕はカラメルの喉元をくすぐって安んじたあと、皿に牛乳をそそいだ。カラメルはそれをぴちゃぴちゃと舌にすくいはじめ、僕はからになったパックを自販機の隣のゴミ箱に捨てにいく。
 はさみはふくろにしまって、ベンチに戻ると、「かわいがってるんだね」と彼は言った。
「ん、まあ」
「家で飼えばいいのに」
「親が許してくれなくて。いまさら犬小屋に押しこめられるのも、カラメルもつらいんじゃないかな」
「カラメル」
「あ、名前。毛の色が、何か」
 牛乳を飲むカラメルは、僕たちの会話に敏感に耳を立てている。彼に限らず、カラメルは僕以外の人間には不信感が強いのだ。奈雪のことも警戒する。いくら僕に世話をされて容認されているとはいえ、やはり野良犬として攻撃も受けてきたのだろう。
「このあと、用事ある?」
「え、いや。帰るだけだけど……」
「そっか。まあ、話せたからよかった」
「そ、う。このへんに住んでるんじゃないんだよ、ね」
「そうだね」
「じゃ、もう会うことない、よね」
 彼は僕を見て、「どうかな」と笑った。眉を寄せていると、彼は立ち上がって、黒いコートの裾を正す。緩く風が吹くと、彼の髪はさらりとなびき、その艶めきがジェルなどの助けも借りていないのをしめす。「もう俺には会いたくない?」と彼は睫毛を街燈に透かし、僕を見おろした。
「え、あ──そんなことは」
「俺に関わりたくない?」
「………、そ、そんなに、僕は君のことを知らないよ」
 彼はまやかすような笑みをこぼすと、「大丈夫だよ」と優しく言った。
「君には、怖いことはしない」
「……は、あ」
「俺は君みたいな人をずっと捜してたんだ」
「へっ」
「今度、ゆっくり話そう。俺はチノ。忘れないでね」
 彼──チノの言葉は、優しければ優しいほど、逆らいがたい圧力がかかっていた。流麗な笑みを残し、彼は身を返して歩き出す。
 彼の後ろすがたは真っ黒だ。艶やかな髪も深い闇色のコートも、すぐ夜に溶けこみ、足音だけが遠ざかっていく。僕は彼の存在感にかけられた呪縛をほどくきっかけをつかめず、カラメルにジーンズに顔をすりよせられ、我に返った。
 カラメルは、僕を見上げていた。濡れた黒い瞳には懸念があり、僕はそれを微笑みで制すると、「変な人だったね」とカラメルの軆を撫でる。カラメルは、僕のふくらはぎに鼻先をもぐらせた。
 咲った僕は、まだ牛乳が残っているのをしめした。カラメルは緊張をほどいてそれを飲みはじめる。僕はそれを見守りつつ、心には怪訝や畏懼を浮遊させた。
 何だったのだろう。僕のような人を捜していた? 不意にあの見透かす微笑がよぎり、黒雲が喉から胸になだれる。
 血への欲望を、見抜かれたのだろうか。
 いや、そうだとして、何だというのだろう。彼にも言ったが、僕は彼のことを知らない。なのに、彼は僕の何もかもを飲みこんでいるようだった。
 カラメルが牛乳を飲み終わっても、僕は寒さを忘れて、ぼんやりとしていた。しっぽをぱたぱたとさせるカラメルは、つきあってそばにいてくれる。僕は手を伸ばし、カラメルの温かい喉をさすった。カラメルは目を細めて気持ちよさそうにし、僕に自然と微笑をくれる。
 カラメルの体温で冷たい指を癒していると、こめかみが冷えこみに痛みはじめ、無意識に鼻をすすりあげた。試験三昧の三学期に、風邪をひくと厄介だ。僕はベンチを立ちあがり、からの皿をふくろに回収した。
 放置されることを察知して、じゃれついてくるカラメルの目の高さにしゃがむと、首まわりを軽く抱く。カラメルは、食事をドッグフードに徹底していないので、野性の匂いが強い。いい匂いではなくても、嫌いじゃない。
「またね」と立ちあがると、カラメルはついてこようとする。冬なので、置き去りが余計つらいのだろう。「また来るよ」と説得し、黒い瞳に寂しさを浮かばせながら足を砂利の上にとどめさせると、僕はいつもの罪悪感の中で公園をあとにした。
 それ以来、チノを見かけるようになった。すれちがうだけだったり、話しかけられたり、接触はまちまちでも、あの微笑はいつも同じだった。
 あれだけの容姿なのに、周囲の誰もチノに目をとめていないのが不思議だった。でも、分かる気もする。チノは空気に紛れる。興味対象にしか存在を悟らせない。幽霊みたいだ。幽霊なのかも──と本気で勘繰らせるほど、チノには超自然の匂いがする。
 チノは僕に存在を焼きつけるだけで、なぜ近づくのか、理由は明かさなかった。だから、奈雪といるときに話しかけられ、「誰?」と奈雪に訊かれても、僕は何とも言えなかった。
「友達ですよ」
 代わりに、チノがそう答えた。僕は無言だった。チノは僕の友達なのだろうか。違うと思う。
「いつ、あんな人と知り合ったの?」
 チノと別れたあと、下校途中だった僕と奈雪は、並んで家路をたどった。かばんを提げる奈雪に首をかたむけられ、デイパックのストラップを握る僕は、返事に困る。
「何か、いつのまにか」
「いつのまにか」
「カラメルにごはんあげてたときに、話しかけられて、それからかな」
「同い年ぐらい」
「さあ──学校は行ってないみたい」
「ふうん」とうなずいた奈雪は、「すごい美少年だね」とつぶやいた。僕は奈雪を見た。その視線に、奈雪は咲って「バカ」と僕の頭を小突く。
「好みじゃないよ」
「……ほんと?」
「うん。あんまり好きじゃない。何かね。意外だな、しぐみがああいうのとつきあうって」
「……そうだね」
 うつむいて、曖昧な気持ちで答えた僕に、苦笑した奈雪は「今日は犬にごはんあげにいくんだろ」と帰宅を急かした。
 一月の下旬にさしかかったある日、登校すると、靴箱に紙切れが入っていた。昼休みに屋上に来てほしいとあった。綺麗な字だったし、共学校だし、僕でなくとも女の子と思うだろう。
 恋愛に厳しくないこの高校で、僕と奈雪がつきあっているのは公然だ。勇気があるというか、自信があるというか──悩んだ挙句、断っておいたほうがいいよな、と僕は昼休みに屋上におもむいた。ところが、そこにいたのは、女の子ではなく、チノだった。

第六章へ

error: